礼音が出かけると、朔人は家の中をくまなく掃除する。実家にいた頃からの、忌まわしい習慣だ。叔父の家に身を寄せていた時期も、叔父の制止を振り切って取り憑かれたように家事を行った。そうしないと、祟られてしまうと錯覚した。今もその錯覚や強迫観念が抜けていない。
掃除が終わると、コーヒーを淹れて一息つく。愛用のドリップ式のコーヒーメーカーは、購入してからそろそろ2年が経とうとしている。ゆっくりコーヒーを味わうことができるのは、大学の長期休暇期間だからだ。4月に前期が始まれば、こんなにゆっくりしていられない。講義が少なくなるわけではないし、教育実習だってある。生活のためにアルバイトも辞められない。
電池が切れたように動けない自分に気づき、寝不足を実感した。今になって睡魔に襲われる。このまま起きていれば、アルバイトに支障が出てしまう。悩んだ結果、夕飯の仕込みをしてから仮眠を取ることにした。
解凍し切れていない鶏の手羽元と朝採れの大根を、砂糖と醤油、生姜、青ねぎで煮る。落としぶたも忘れない。火の番をしながら、読みかけの本に目を落とす。今読んでいるのは、市の図書館で借りた、銅版画の作品集だ。ドイツ文化論の期末レポートで扱ったのがきっかけで、朔人は銅版画に興味を持った。特に、アルブレヒト・デューラーの「メランコリアI」と「聖ヒエロニムスの書斎」は気に入っている。緻密な線の彫りと、考察したくなるモノクロの意匠が相まって、時間を忘れて見入ってしまう。時間を忘れることを見越してセットしたスマートフォンのアラームが、鍋の加熱から30分を知らせてくれた。落としぶたを外すと、大根が良い感じに飴色になっていた。
朔人は炬燵の温度を一番低くして炬燵に潜った。スマートフォンの目覚ましを15時にセットして、起きたら洗濯物と布団を取り込めるようにする。目を閉じ、うとうとしているうちに、静かだと礼音が言っていたことを思い出した。確かに、静かだ。ここは、わずらわしいものが一切ない。だから、朔人はこの2年間ここで暮らすことができた。この家を貸してくれた叔父に感謝している。
まさか15時まで眠るとは、思わなかった。アラームでとび起き、慌てて洗濯物と布団を取り込んだ。礼音に貸す部屋に寝具を準備し、アルバイトに行くまで時間があるとわかると、安心した。スマートフォンには、叔父からメッセージが来ていた。
――お父さんの三回忌、無理して来なくても大丈夫だぞ。寺と墓に行くだけだから。
叔父が「お父さん」というのは、叔父の父でなく、叔父の兄にあたる、朔人の父のことだ。朔人の父は、2年前に亡くなった。他界するきっかけになった事件も含め、父の死はかなりの騒動になった。自業自得だと非難する人もいた。そんな人達でも、朔人を話題の渦中にするようなことは、しなかった。むしろ、朔人は父の被害者だとして巻き込まないようにしていた。父の死に揚げ足を取る人達のことは迷惑だったが、自分や叔父の家族に火の粉が降りかからなかったのは幸いだった。
――行きます。千鶴さんと碧衣くんは?
朔人は叔父に返信した。千鶴は叔父の妻。碧衣《あおい》は叔父の子で、朔人とは年齢がひと回り近く離れた従弟である。
――行かなくて良いと言ったけど、行く気満々。碧衣は特に、朔人に会いたがっておる。
口数は少ないが無邪気に朔人にくっついてくる碧衣を思い出し、朔人は無意識に笑みをこぼしていた。
――碧衣くんの顔を見に行きますよ。
叔父に返信してスマートフォンをポケットにしまうと、玄関のチャイムが鳴った。玄関を開け、朔人は思い出した。礼音を今日も泊めることに。そのために布団やら部屋やら用意していたのに、そのときになって頭から抜け落ちていた。
「……お邪魔します?」
礼音は疑問形で首を傾げる。
「おかえりなさい」
朔人が促すと、礼音は言い直した。
「ただいま」
礼音がビアンキと呼んでいた自転車を玄関の中に入れ、礼音は家に上がる。
「しばらくの間、お世話になります。これ、バンド仲間からもらった。使って下さい」
礼音が差し出したビニール袋に入っていたのは、春キャベツだった。差し入れのチョイスが学生っぽくないバンド仲間である。
「助かります。ありがとうございます」
朔人は春キャベツを冷蔵庫に入れ、慌ただしくアルバイトに行く準備をする。
「鍋と冷蔵庫に夕飯がありますので、それを食べて下さい。お風呂は普通に蛇口を捻ってお湯を出すだけです。鍵をかけて寝て下さいね」
口早に伝え、朔人は車に乗った。アルバイトの前に市の図書館に寄るつもりだったが、図書館は閉館していた。時間は、17時過ぎ。今日は土曜日で、開館は17時までである。平日は20時まで開館しているから、すっかり忘れていた。
掃除が終わると、コーヒーを淹れて一息つく。愛用のドリップ式のコーヒーメーカーは、購入してからそろそろ2年が経とうとしている。ゆっくりコーヒーを味わうことができるのは、大学の長期休暇期間だからだ。4月に前期が始まれば、こんなにゆっくりしていられない。講義が少なくなるわけではないし、教育実習だってある。生活のためにアルバイトも辞められない。
電池が切れたように動けない自分に気づき、寝不足を実感した。今になって睡魔に襲われる。このまま起きていれば、アルバイトに支障が出てしまう。悩んだ結果、夕飯の仕込みをしてから仮眠を取ることにした。
解凍し切れていない鶏の手羽元と朝採れの大根を、砂糖と醤油、生姜、青ねぎで煮る。落としぶたも忘れない。火の番をしながら、読みかけの本に目を落とす。今読んでいるのは、市の図書館で借りた、銅版画の作品集だ。ドイツ文化論の期末レポートで扱ったのがきっかけで、朔人は銅版画に興味を持った。特に、アルブレヒト・デューラーの「メランコリアI」と「聖ヒエロニムスの書斎」は気に入っている。緻密な線の彫りと、考察したくなるモノクロの意匠が相まって、時間を忘れて見入ってしまう。時間を忘れることを見越してセットしたスマートフォンのアラームが、鍋の加熱から30分を知らせてくれた。落としぶたを外すと、大根が良い感じに飴色になっていた。
朔人は炬燵の温度を一番低くして炬燵に潜った。スマートフォンの目覚ましを15時にセットして、起きたら洗濯物と布団を取り込めるようにする。目を閉じ、うとうとしているうちに、静かだと礼音が言っていたことを思い出した。確かに、静かだ。ここは、わずらわしいものが一切ない。だから、朔人はこの2年間ここで暮らすことができた。この家を貸してくれた叔父に感謝している。
まさか15時まで眠るとは、思わなかった。アラームでとび起き、慌てて洗濯物と布団を取り込んだ。礼音に貸す部屋に寝具を準備し、アルバイトに行くまで時間があるとわかると、安心した。スマートフォンには、叔父からメッセージが来ていた。
――お父さんの三回忌、無理して来なくても大丈夫だぞ。寺と墓に行くだけだから。
叔父が「お父さん」というのは、叔父の父でなく、叔父の兄にあたる、朔人の父のことだ。朔人の父は、2年前に亡くなった。他界するきっかけになった事件も含め、父の死はかなりの騒動になった。自業自得だと非難する人もいた。そんな人達でも、朔人を話題の渦中にするようなことは、しなかった。むしろ、朔人は父の被害者だとして巻き込まないようにしていた。父の死に揚げ足を取る人達のことは迷惑だったが、自分や叔父の家族に火の粉が降りかからなかったのは幸いだった。
――行きます。千鶴さんと碧衣くんは?
朔人は叔父に返信した。千鶴は叔父の妻。碧衣《あおい》は叔父の子で、朔人とは年齢がひと回り近く離れた従弟である。
――行かなくて良いと言ったけど、行く気満々。碧衣は特に、朔人に会いたがっておる。
口数は少ないが無邪気に朔人にくっついてくる碧衣を思い出し、朔人は無意識に笑みをこぼしていた。
――碧衣くんの顔を見に行きますよ。
叔父に返信してスマートフォンをポケットにしまうと、玄関のチャイムが鳴った。玄関を開け、朔人は思い出した。礼音を今日も泊めることに。そのために布団やら部屋やら用意していたのに、そのときになって頭から抜け落ちていた。
「……お邪魔します?」
礼音は疑問形で首を傾げる。
「おかえりなさい」
朔人が促すと、礼音は言い直した。
「ただいま」
礼音がビアンキと呼んでいた自転車を玄関の中に入れ、礼音は家に上がる。
「しばらくの間、お世話になります。これ、バンド仲間からもらった。使って下さい」
礼音が差し出したビニール袋に入っていたのは、春キャベツだった。差し入れのチョイスが学生っぽくないバンド仲間である。
「助かります。ありがとうございます」
朔人は春キャベツを冷蔵庫に入れ、慌ただしくアルバイトに行く準備をする。
「鍋と冷蔵庫に夕飯がありますので、それを食べて下さい。お風呂は普通に蛇口を捻ってお湯を出すだけです。鍵をかけて寝て下さいね」
口早に伝え、朔人は車に乗った。アルバイトの前に市の図書館に寄るつもりだったが、図書館は閉館していた。時間は、17時過ぎ。今日は土曜日で、開館は17時までである。平日は20時まで開館しているから、すっかり忘れていた。

