朝は遅くとも6時までに起きるようにしている。幼少期からの習慣だ。今日は6時のアラームで無理矢理起きた。カーテンを閉め切っても、家の中はほのかに明るい。
もしも、ベッドで寝ているのか布団で寝ているのか訊かれたら、朔人は答えに窮すだろう。リサイクルショップで買ったセミダブルのベッドマットにシングルの布団を敷いて寝床にしている状態は、ベッドとも布団とも言い難い。フローリングに畳マットを敷き、大手家具メーカーのシンプルなデスクと本棚、ハンガーシェルフ、衣装ケースで軽い家具を備えた。
寝間着のまま2階の自室から階下に下りようとして、はたと思い留まった。1階のリビングには、客がいる。今も炬燵で寝ているはずだ。
大学やアルバイト先に行く服装に変えてリビングに向かうと、久世礼音という男は静かに寝息を立てて熟睡していた。炬燵のコンセントは抜かれている。朔人はコンセントを入れ直し、礼音の寝顔をまじまじと見つめてしまった。高校生と偽っても切り抜けられるくらい優しくて可愛い顔立ちのこの男は、お洒落な自転車と軽音楽という陽キャ要素が嘘のように、ぼっちを極めた朔人に気さくに接してくれた。部屋を見つけるまで泊めてほしいという立場だから、というわけではなく、ごく自然に夕飯を共にし、朔人にしては不思議なくらい会話が弾んだ。朝食は何にしようか、無防備な寝顔を見ながら朔人は考えてしまう。
洗濯機を回している間に、炊飯器のスイッチも入れ、庭の菜園から大根とほうれん草を収穫した。この家を借りるようになってから、朔人は庭の一角を家庭菜園にしている。なるべく食費を削りたいからだ。野菜を育てるのは、なかなか難しい。夏野菜は手軽に収穫できたが、ブロッコリーや根菜は2年目となる今回も成功とは言えなかった。ブロッコリーはどんなに消毒しても虫に歯を食われて丸坊主になってしまう。人参も大根も、間引きしても大きくならないうちに割れてしまう。今日抜いた大根も、うどんを打つめん棒かというくらい細かった。ほうれん草は少量だが、柔らかい葉に期待してしまう。
新聞受けから朝刊を取って家に戻り、ほうれん草を茹でる。味噌汁の具材は、ねぎと大根葉と油揚げ。一口大に切って冷凍庫に保存したねぎを出すついでに、鶏の手羽元を冷蔵室に移しておいた。タッパーに作り置きした卯の花は、卵とじにする。
洗濯物を2階のベランダに干して階下に戻ると、礼音が炬燵から起き上がっていた。
「おはようございます」
朔人が声をかけると、礼音は寝ぼけ眼で頭を下げた。
「すっごく、静かだった。久々に良く眠れた。おはようございます」
「朝ご飯、できています。食べますか?」
「食べます!」
その返事を待っていた。朔人は炬燵に朝食を運び、自分はキッチンに立って箸を持った。
「だから、なんで、あんただけそこなんだよ。静かなのは好きだけど、ふたりで居るのに独りで飯を食うのは寂しいんですけど。昨日みたいに隣にいてくれるのが心穏やかになれるんですけど……俺、何言ってんだろう」
礼音は、湯気が立つ汁碗を前にして悶絶する。本当に何言ってんだろう。朔人は立ったまま自分の味噌汁を吸った。
「俺もそっちに行って良い?」
「僕がそちらに行きます」
朔人は昨夜のように、炬燵に食事を持っていく。味噌汁、炊きたての米飯、卯の花の卵とじ、茹でただけのほうれん草、独活《うど》の胡麻和え、蕗味噌。朔人の食器をガン見する礼音に気づき、朔人は自分の失態に気づいた。味噌汁以外は丼にひとまとめに盛ってしまったのだ。昨日の煮込みうどんも、この丼を使った。
「……すみません。いつも、こんな感じなんです」
「あんたのイメージが、どんどん壊れていくんですけど」
「本当に、申し訳ありません」
「むしろ、ギャップ萌えだな」
萌え。どこが。朔人は恥ずかしくなり、超特急で丼をかき込み、味噌汁で流し込んだ。
「ゆっくりしてて下さい! 僕のことは気にせず、時間になったら出かけて構いませんから!」
食器をシンクに置き、キッチンからもリビングからも逃げる。和室の押し入れから来客用の布団を出し、2階に運んだ。今夜から礼音に貸すため、昼間のうちに干しておく。どうしても、他人と食事をすることを躊躇してしまう。嫌ではないが、苦手だ。幼い頃からの生活習慣が一因であり、他人のテリトリーに土足で立ち入る自分が嫌になり、相手を嫌な気持ちにさせてしまうからだ。彼には気を遣わせてしまった。彼はお客様だ。彼に、食う寝るところに住むところを提供するのは、当然。彼を泊める間、彼には気を遣わせずに過ごしてもらいたい。
ベランダの向こうの山々は、この間まで彩度の低い木々しかなかったのに、いつの間にか淡い桜の花が綻び、萌えるような若葉が少しずつ顔を覗かせている。4月になれば、山は優しい色彩に染まり、「山笑う」という季語がふさわしい景観になる。
「栗須朔人!」
ベランダの下から、声がした。敷地の外、坂道からベランダを見上げる形で、彼が手を振る。
「美味かった! ごちそうさま! 行ってきます!」
屈託ない彼の笑顔に、嘘偽りは見られない。朔人は頭を下げ、ベランダから家の中に引っ込んだ。美味かった、ごちそうさま。その言葉が嬉しくもあり、その言葉をを求めていた自分が浅ましい。こうも気持ちの浮き沈みが激しいと、あの日が近づいているのだと実感する。
もしも、ベッドで寝ているのか布団で寝ているのか訊かれたら、朔人は答えに窮すだろう。リサイクルショップで買ったセミダブルのベッドマットにシングルの布団を敷いて寝床にしている状態は、ベッドとも布団とも言い難い。フローリングに畳マットを敷き、大手家具メーカーのシンプルなデスクと本棚、ハンガーシェルフ、衣装ケースで軽い家具を備えた。
寝間着のまま2階の自室から階下に下りようとして、はたと思い留まった。1階のリビングには、客がいる。今も炬燵で寝ているはずだ。
大学やアルバイト先に行く服装に変えてリビングに向かうと、久世礼音という男は静かに寝息を立てて熟睡していた。炬燵のコンセントは抜かれている。朔人はコンセントを入れ直し、礼音の寝顔をまじまじと見つめてしまった。高校生と偽っても切り抜けられるくらい優しくて可愛い顔立ちのこの男は、お洒落な自転車と軽音楽という陽キャ要素が嘘のように、ぼっちを極めた朔人に気さくに接してくれた。部屋を見つけるまで泊めてほしいという立場だから、というわけではなく、ごく自然に夕飯を共にし、朔人にしては不思議なくらい会話が弾んだ。朝食は何にしようか、無防備な寝顔を見ながら朔人は考えてしまう。
洗濯機を回している間に、炊飯器のスイッチも入れ、庭の菜園から大根とほうれん草を収穫した。この家を借りるようになってから、朔人は庭の一角を家庭菜園にしている。なるべく食費を削りたいからだ。野菜を育てるのは、なかなか難しい。夏野菜は手軽に収穫できたが、ブロッコリーや根菜は2年目となる今回も成功とは言えなかった。ブロッコリーはどんなに消毒しても虫に歯を食われて丸坊主になってしまう。人参も大根も、間引きしても大きくならないうちに割れてしまう。今日抜いた大根も、うどんを打つめん棒かというくらい細かった。ほうれん草は少量だが、柔らかい葉に期待してしまう。
新聞受けから朝刊を取って家に戻り、ほうれん草を茹でる。味噌汁の具材は、ねぎと大根葉と油揚げ。一口大に切って冷凍庫に保存したねぎを出すついでに、鶏の手羽元を冷蔵室に移しておいた。タッパーに作り置きした卯の花は、卵とじにする。
洗濯物を2階のベランダに干して階下に戻ると、礼音が炬燵から起き上がっていた。
「おはようございます」
朔人が声をかけると、礼音は寝ぼけ眼で頭を下げた。
「すっごく、静かだった。久々に良く眠れた。おはようございます」
「朝ご飯、できています。食べますか?」
「食べます!」
その返事を待っていた。朔人は炬燵に朝食を運び、自分はキッチンに立って箸を持った。
「だから、なんで、あんただけそこなんだよ。静かなのは好きだけど、ふたりで居るのに独りで飯を食うのは寂しいんですけど。昨日みたいに隣にいてくれるのが心穏やかになれるんですけど……俺、何言ってんだろう」
礼音は、湯気が立つ汁碗を前にして悶絶する。本当に何言ってんだろう。朔人は立ったまま自分の味噌汁を吸った。
「俺もそっちに行って良い?」
「僕がそちらに行きます」
朔人は昨夜のように、炬燵に食事を持っていく。味噌汁、炊きたての米飯、卯の花の卵とじ、茹でただけのほうれん草、独活《うど》の胡麻和え、蕗味噌。朔人の食器をガン見する礼音に気づき、朔人は自分の失態に気づいた。味噌汁以外は丼にひとまとめに盛ってしまったのだ。昨日の煮込みうどんも、この丼を使った。
「……すみません。いつも、こんな感じなんです」
「あんたのイメージが、どんどん壊れていくんですけど」
「本当に、申し訳ありません」
「むしろ、ギャップ萌えだな」
萌え。どこが。朔人は恥ずかしくなり、超特急で丼をかき込み、味噌汁で流し込んだ。
「ゆっくりしてて下さい! 僕のことは気にせず、時間になったら出かけて構いませんから!」
食器をシンクに置き、キッチンからもリビングからも逃げる。和室の押し入れから来客用の布団を出し、2階に運んだ。今夜から礼音に貸すため、昼間のうちに干しておく。どうしても、他人と食事をすることを躊躇してしまう。嫌ではないが、苦手だ。幼い頃からの生活習慣が一因であり、他人のテリトリーに土足で立ち入る自分が嫌になり、相手を嫌な気持ちにさせてしまうからだ。彼には気を遣わせてしまった。彼はお客様だ。彼に、食う寝るところに住むところを提供するのは、当然。彼を泊める間、彼には気を遣わせずに過ごしてもらいたい。
ベランダの向こうの山々は、この間まで彩度の低い木々しかなかったのに、いつの間にか淡い桜の花が綻び、萌えるような若葉が少しずつ顔を覗かせている。4月になれば、山は優しい色彩に染まり、「山笑う」という季語がふさわしい景観になる。
「栗須朔人!」
ベランダの下から、声がした。敷地の外、坂道からベランダを見上げる形で、彼が手を振る。
「美味かった! ごちそうさま! 行ってきます!」
屈託ない彼の笑顔に、嘘偽りは見られない。朔人は頭を下げ、ベランダから家の中に引っ込んだ。美味かった、ごちそうさま。その言葉が嬉しくもあり、その言葉をを求めていた自分が浅ましい。こうも気持ちの浮き沈みが激しいと、あの日が近づいているのだと実感する。

