朝から蝉のチューニング、昼間はベースの練習、夜は蛙の大合唱。世の中は音楽にあふれている。
朔人は蝉の声で目が覚め、隣の彼に顔を寄せた。唇の先で頬を這うと、彼は唇を合わせてくる。
「……おいおい、教員志望。良いのかよ」
言葉では非難するのに、体は離さない。
「構いませんよ。僕が教育実習に行った際、女性同士でお付き合いしている先生がいました。学校公認で、堂々としていましたよ」
朔人は起き上がり、汗で肌に貼りついたTシャツを脱いだ。
「あんた、朝から何を……!」
「シャワーを浴びてきます」
「あ、俺も」
「一緒に入る気ですか?」
「違……っ!」
「大歓迎ですよ」
「違うっつってんだろ! 次! 次に入るから!」
ベッドマットでのたうち回る彼を放置し、朔人はシャワーを浴びた。自室に戻ると、彼は再び寝息を立てていた。隠れ家のようなこの家で彼と過ごす時間が、心地良い。一緒にいられるのは、大学在学中だけだと朔人は思っている。限られた時間の中で、できるだけ、一緒にいたい。
朔人は庭に出て、花や野菜に水をやり、野菜を収穫する。きゅうり、ミニトマト、ナス……朝の光を受けてつやつやした実は、宝石のようだ。きゅうりとミニトマトは乱切りにして塩を振り、タッパーに入れる。ナスは冷蔵庫の野菜室に。
水出しコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいると、タオルで髪を拭きながら彼がキッチンにやってきた。
「……おはよう」
「おはようございます」
彼はまだ、眠そうだ。
「コーヒー飲みますか?」
「……飲む」
テーブルに着き、キンキンに冷えたコーヒーを呷ると、彼は目を見開いた。よほどの冷たさに言葉が出ない。
「朝ご飯、食べられますよ」
「食べる!」
炊きたての米飯を丼に盛り、ゴーヤの佃煮と納豆、梅干し、キムチの丼飯。夏の朝食の定番だ。前期の期末試験から夏季休暇の今日までの1か月間、飽きもせず、毎日テーブルに向かい合って丼飯をかき込む。
「今更だけど、日本文学科の王子様が食う飯じゃないよな」
「そのニチブンの王子様というのは、どうにかなりませんか?」
「ならないよ。卒業まで、我慢しなさい」
日本文学科の王子様は相変わらず、学内では孤高の貴公子のように扱われている。久世礼音とは、すれ違えば軽く言葉を交わすが、話し込むことは、ない。表面上は変わらないが、朔人は自分が以前と変わりつつある気がする。頑なに閉じた蕾が綻ぶように、無意識下で心を開こうとしている、気がする。
「俺、今日はバンドの最終調整で、昼間から行ってくる」
「本番は明日でしたね。明日は、碧衣くんを迎えに行ってから、見に行きます」
「またあいつ来るのか!」
「ええ。師匠に会えるのを楽しみにしていますよ。あなたがボーカルで歌うと教えたら、ぜひ聴きたいと」
「そこまで伝わってるのかよ!」
口では面倒臭そうに言うが、本当は彼も楽しみにしているのを、朔人は知っている。碧衣がエレキベースに興味を持ち、礼音も碧衣を可愛がっているのが、朔人は微笑ましい。
「それはそうと、今日は早く帰れそうなのですが、夕飯はグリーンカレーで良いですか?」
「グリーンカレーって、家でつくれるの?」
「つくれますよ。グリーンカレーペーストとココナッツミルクは買ってありますから。ナスは先程採れましたし、筍と鶏肉は冷凍に」
「あんた、店でも出したら?」
「あくまで僕は教員志望です」
予定の確認、夕飯の話、他愛もない会話が心地良い。
彼はゴーヤの佃煮をおむすびの具にし、塩振りのきゅうりとミニトマトも弁当にして、バンドの練習に向かった。ベースのハードケースを背負い、ビアンキに乗って。
「朔人、行ってくる」
「礼音、行ってらっしゃい」
朔人は午前中は掃除と洗濯でのんびり過ごし、早めの昼食を摂ってからアルバイトに向かった。駅前の学習塾。今は、中学3年生の夏期講習期間で、昼間から授業が行われる。
「あっ! おつかれさまでーす!」
この暑さの中で暑苦しく弾ける声の主は、山田海だ。夏休み前から、事務アルバイトとして雇われている。焼肉店の折茂さんの息子が録音した、同窓生の会話のデータを、朔人も礼音もコピーしてもらい、それぞれのアルバイト先のトップに聞いてもらった。塾長も、老人ホームの施設長も、会話の内容の酷さに頭を抱えたが、ふたりとも山田海を責めることはなかった。老人ホームでの再雇用は、介護職員から強い反対があって叶わなかったが、学習塾の塾長からは、事務スタッフをしてもらえないかと打診があった。アルバイトをしながら教員採用試験の勉強をする山田海は、以前と変わらず斜め上に明るい性格をしている。意外と事務作業は真面目に大人しくやっており、「山田さんて地味な作業を黙々とやる方だったっけ?」と陰で講師が噂していた。悪い意味ではなく、評価されている。本人は言わないが、精神的に解放されて本来の長所が見え始めている。
「朔人先生! 頑張ってー!」
「よ、先生!」
「よろしくね、先生」
山田海に倣って、他の講師も朔人のことを先生と呼び始める。
山田海が事務のアルバイトになった変わりに、朔人は事務から講師のアルバイトに採用を変えてもらった。6月に教育実習で母校の中学校で教壇に立った際に、授業をこなす度胸がない自分を恥じた。それでも、教員になりたいという気持ちは変わるどころか強くなり、場数を踏むために塾講師として雇ってもらうことにした。
夏期講習の国語の授業。夏休みで緊張感のない中学3年生を前に、朔人は授業を始める。この中には、家に居場所がなかったり、自分を否定されて消極的になっている子もいるかもしれない。手を差し伸べるなんて、おこがましい。それでも、朔人は伝えたい。自分が言われたかった言葉を、ここの生徒にも、将来教員になったときに関わるまだ見ぬ未来の生徒にも。
あなたは、ここに居て良いんですよ、と。
朔人は蝉の声で目が覚め、隣の彼に顔を寄せた。唇の先で頬を這うと、彼は唇を合わせてくる。
「……おいおい、教員志望。良いのかよ」
言葉では非難するのに、体は離さない。
「構いませんよ。僕が教育実習に行った際、女性同士でお付き合いしている先生がいました。学校公認で、堂々としていましたよ」
朔人は起き上がり、汗で肌に貼りついたTシャツを脱いだ。
「あんた、朝から何を……!」
「シャワーを浴びてきます」
「あ、俺も」
「一緒に入る気ですか?」
「違……っ!」
「大歓迎ですよ」
「違うっつってんだろ! 次! 次に入るから!」
ベッドマットでのたうち回る彼を放置し、朔人はシャワーを浴びた。自室に戻ると、彼は再び寝息を立てていた。隠れ家のようなこの家で彼と過ごす時間が、心地良い。一緒にいられるのは、大学在学中だけだと朔人は思っている。限られた時間の中で、できるだけ、一緒にいたい。
朔人は庭に出て、花や野菜に水をやり、野菜を収穫する。きゅうり、ミニトマト、ナス……朝の光を受けてつやつやした実は、宝石のようだ。きゅうりとミニトマトは乱切りにして塩を振り、タッパーに入れる。ナスは冷蔵庫の野菜室に。
水出しコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいると、タオルで髪を拭きながら彼がキッチンにやってきた。
「……おはよう」
「おはようございます」
彼はまだ、眠そうだ。
「コーヒー飲みますか?」
「……飲む」
テーブルに着き、キンキンに冷えたコーヒーを呷ると、彼は目を見開いた。よほどの冷たさに言葉が出ない。
「朝ご飯、食べられますよ」
「食べる!」
炊きたての米飯を丼に盛り、ゴーヤの佃煮と納豆、梅干し、キムチの丼飯。夏の朝食の定番だ。前期の期末試験から夏季休暇の今日までの1か月間、飽きもせず、毎日テーブルに向かい合って丼飯をかき込む。
「今更だけど、日本文学科の王子様が食う飯じゃないよな」
「そのニチブンの王子様というのは、どうにかなりませんか?」
「ならないよ。卒業まで、我慢しなさい」
日本文学科の王子様は相変わらず、学内では孤高の貴公子のように扱われている。久世礼音とは、すれ違えば軽く言葉を交わすが、話し込むことは、ない。表面上は変わらないが、朔人は自分が以前と変わりつつある気がする。頑なに閉じた蕾が綻ぶように、無意識下で心を開こうとしている、気がする。
「俺、今日はバンドの最終調整で、昼間から行ってくる」
「本番は明日でしたね。明日は、碧衣くんを迎えに行ってから、見に行きます」
「またあいつ来るのか!」
「ええ。師匠に会えるのを楽しみにしていますよ。あなたがボーカルで歌うと教えたら、ぜひ聴きたいと」
「そこまで伝わってるのかよ!」
口では面倒臭そうに言うが、本当は彼も楽しみにしているのを、朔人は知っている。碧衣がエレキベースに興味を持ち、礼音も碧衣を可愛がっているのが、朔人は微笑ましい。
「それはそうと、今日は早く帰れそうなのですが、夕飯はグリーンカレーで良いですか?」
「グリーンカレーって、家でつくれるの?」
「つくれますよ。グリーンカレーペーストとココナッツミルクは買ってありますから。ナスは先程採れましたし、筍と鶏肉は冷凍に」
「あんた、店でも出したら?」
「あくまで僕は教員志望です」
予定の確認、夕飯の話、他愛もない会話が心地良い。
彼はゴーヤの佃煮をおむすびの具にし、塩振りのきゅうりとミニトマトも弁当にして、バンドの練習に向かった。ベースのハードケースを背負い、ビアンキに乗って。
「朔人、行ってくる」
「礼音、行ってらっしゃい」
朔人は午前中は掃除と洗濯でのんびり過ごし、早めの昼食を摂ってからアルバイトに向かった。駅前の学習塾。今は、中学3年生の夏期講習期間で、昼間から授業が行われる。
「あっ! おつかれさまでーす!」
この暑さの中で暑苦しく弾ける声の主は、山田海だ。夏休み前から、事務アルバイトとして雇われている。焼肉店の折茂さんの息子が録音した、同窓生の会話のデータを、朔人も礼音もコピーしてもらい、それぞれのアルバイト先のトップに聞いてもらった。塾長も、老人ホームの施設長も、会話の内容の酷さに頭を抱えたが、ふたりとも山田海を責めることはなかった。老人ホームでの再雇用は、介護職員から強い反対があって叶わなかったが、学習塾の塾長からは、事務スタッフをしてもらえないかと打診があった。アルバイトをしながら教員採用試験の勉強をする山田海は、以前と変わらず斜め上に明るい性格をしている。意外と事務作業は真面目に大人しくやっており、「山田さんて地味な作業を黙々とやる方だったっけ?」と陰で講師が噂していた。悪い意味ではなく、評価されている。本人は言わないが、精神的に解放されて本来の長所が見え始めている。
「朔人先生! 頑張ってー!」
「よ、先生!」
「よろしくね、先生」
山田海に倣って、他の講師も朔人のことを先生と呼び始める。
山田海が事務のアルバイトになった変わりに、朔人は事務から講師のアルバイトに採用を変えてもらった。6月に教育実習で母校の中学校で教壇に立った際に、授業をこなす度胸がない自分を恥じた。それでも、教員になりたいという気持ちは変わるどころか強くなり、場数を踏むために塾講師として雇ってもらうことにした。
夏期講習の国語の授業。夏休みで緊張感のない中学3年生を前に、朔人は授業を始める。この中には、家に居場所がなかったり、自分を否定されて消極的になっている子もいるかもしれない。手を差し伸べるなんて、おこがましい。それでも、朔人は伝えたい。自分が言われたかった言葉を、ここの生徒にも、将来教員になったときに関わるまだ見ぬ未来の生徒にも。
あなたは、ここに居て良いんですよ、と。

