礼音が泣き疲れて眠っているうちに、世の中は大きく動いていた。
 夜中のうちに、緊急でSHIONと所属事務所がSNSを更新し、騒ぎに関して説明がなされた。O-tamのインフルエンザ感染でテレビの出演がなくなったSHIONは、思いがけないオフの時間を使って地方に遊びに出かけた。そこで倒れてしまい、近くにいた見知らぬ女性が介抱して119番通報をしてくれて救急搬送された。医師の診断は、過労が一因の熱中症。大事を取って現地の病院に一晩入院することになった。
 SNSで晒された運転免許証の画像は、救急外来の処置台に置かれた荷物を、他の患者の付き添いの人が勝手に見て写真を撮ったらしい。殺されそうになったというのは全くの出鱈目で、警察も来ていないし流血騒ぎもなかった。介抱して119番通報してくれた女性に殺されそうになったとか、その人の氏名が晒されて嘘が拡散いることについて、これ以上の誹謗中傷が広がるようなら許さない。本人に法的手段を薦めるかもしれない。
 SHIONのコメントと、イベント会場で騒ぎを見て知っていた人達のSNSの投稿で、山田海は殺人未遂どころか人命救助をしたと、オセロが裏返るように評価がひっくり返った。


 ――無茶な遠出をして迷惑をかけた、って施音は反省していた。
 それと、礼音のベースを聴いて、怖くなったらしい。まるで他の楽器を操っているみたいだって。もしも礼音がSAISONのベーシストになりたいって言ったら土下座してでも断るって、半べそかいてた。しばらくはあんたのところに行きたくないって。


 翌朝、姉からのメッセージを見て、礼音は深く考えずに返信してしまった。


 ――O-tamの代わりに加入させてもらおうかな。


 姉からの返事は、こうだった。


 ――良いかも。施音にお灸を据えられる。


 執着心の強い兄が距離をしばらく置いてくれるようで、礼音は安心した。あんな兄でも、人気のあるミュージシャンだ。SHIONに活かされるファンも少なくない。


 連休最終日、碧衣は東京へ帰っていった。夏休みにベースを弾きに来たい、と目を輝かせていた。
 SHIONの騒動が沈静化したかと思った礼音だったが、残り火が燻っていた。
 連休明け初日は、金曜日だった。礼音は知り合いから逃げるように教室の死角で午前中の講義を受け、昼食は食堂に向かわなかった。スマートフォンの着信もメッセージも確認せず、学生ホールのベンチでコンビニのおにぎりを食べ、朔人の蒸した山菜おこわが美味かったことを思い出した。日本文学科(ニチブン)の王子様はこんなにも料理上手なんだと礼音が自慢したいくらいだ。
「礼音、久しぶり」
「剛生?」
 以前と違う雰囲気に、礼音は少々驚いてしまった。縛りの強い親から離れ、叔母のところに身を寄せている剛生は、雰囲気が明るくなった。
「ごめん。今日は俺に近づかない方が良い」
「そんなこと、ないって」
「剛生だって、知ってるだろう」
 SHIONの運転免許証がSNSで晒されたとき、もうひとつの疑惑も浮上した。その疑惑は、間違っていない。
「いたいた! 礼音! 探したんだから!」
 いつも食堂で昼食を摂るメンバーの女子が、大股で近づき、礼音を見下す。
「礼音は、うちらに謝ることがあるんだけど、何か礼音から謝ることはない?」
 うちら、と言う割に、女子は独りで行動している。この女子の言いたいことに察しはついているが、ペースに嵌ったら相手の思うツボだ。自分の要求する謝罪内容すら、礼音に言わせる気だ。
「おい、礼音があんたに何したって言うんだよ」
 剛生が間に入ってくれた。礼音に謝らせたい内容を女子に話させる。
「あんたには関係ないし! で、礼音、どうなの? あんたからうちらに謝ることがあるんだけど、謝ることがないの?」
 女子のペースは崩れない。この場をいかに切り抜けるか、礼音には思いつかない。
「礼音は、うちらを騙し続けてたんだよ! うちらがSAISONのことを楽しく話してたときに、あんたは大事なことを言わないで黙って笑ってたんだよ! うちらを騙して馬鹿にして! ほんと、SHIONが可哀想! 人格者のSHIONが、サイコパスの弟、礼音に虐められても信じて面倒見てきたのに!」
 学生ホールにいた人達が、女子の演説を迷惑そうに横目で見て、通り過ぎる。
「あんた、本当にやめろよ!」
「やめないよ! 強矢剛生には関係ないし! ほら、礼音から謝んなよ! 自分がSHIONの弟だって隠して騙してごめんなさいって!」
 言われてしまった。SHION……久世施音の弟が、高溪大学の久世礼音だと。でも、これは。
「……謝ることか?」
 この後、女子が爆発的に怒鳴り散らすこともなくはない。でも、逃げ場が、ない。庇ってくれている剛生のためにも、礼音から言わなくては。礼音は立ち上がり、同じ身長の女子を見据える。
「俺の身内が芸能関係の仕事をしていることを、人間関係の浅い者に話していなかった。それは、謝ることなのか?」
「話をすり替えないでよ!」
「あんたに話すことはない。じゃあ」
「話は終わってない!」
 剛生に制されても、女子は礼音に掴みかかろうとする。そんな礼音を、強い力で低く手があった。
「行きましょう」
 剛生が見とれて固まる。女子も、呆気に取られている。周りの学生も、ざわつく。孤高で誰とも関わらない日本文学科の王子様が、自らトラブルに介入し、救いの手を差し伸べたのだ。
「朔人!?」
 朔人は礼音の手を引き、駆け出す。礼音もつられて、足の動きが速くなる。学生ホールを出れば、周りは注視しない。朔人が足を止めたのは、敷地の隅の庭園だった。
「……あんた、なんで……?」
 礼音は息を切らせて訊ねる。
「……見過ごせなかったんです」
 彼も、呼吸が整っていない。礼音の手を包むように握り、涙を湛えた瞳で礼音をまっすぐ見つめる。
「あなたが戦っているのに、高みの見物なんて、できなかった」
 そんな目で見られると、呼吸が整わない。脈が速くなる。握られた手が、いとおしくなる。
「僕は昔、自分の無意識の態度のせいで、友人だと思っていた人が、いじめの加害者であるかのように世間から見られてしまったことがあります。大学ではそんなことをしないように気をつけていたのですが……すみません。すでに噂で知っていたかとは思いましたが、あなたには話したいと、常々思っていました」
 朔人は、失言したと言わんばかりに口を閉ざし、礼音から手を離そうとする。
「そんなの、あんたの親父の言いがかりだ。あんたは悪くない」
 礼音は朔人の手を、自分の両手で包み込んだ。
「俺の兄貴、SAISONのSHIONなんだ。とっくに噂になってるけど」
「そう、なんですね。では、三姉弟とも音楽をなさっているんですね」
 彼は品良く微笑んだ。SHIONだけでなく、Mioのことも知っている。
「うん。あんたになら、話しても良いと思って」
「礼音……!」
 彼の手が離れ、礼音の背中にまわる。
「何? 何!?」
「惚れた弱みです」
 ふ、と溜息混じりの微笑が、耳の辺りで、こぼれた。礼音は体をよじり、彼の顔をがっつり両手で捕らえて唇を重ねた。
「……惚れた弱みだよ」
 彼は無言で目をしばたかせた。白くなめらかな頬が紅く、熱を帯びる。礼音は、彼の顔をまじまじと見つめてしまう。こんな顔も、するんだ。
 何事もなかったかのように3限を受けて、いつもように帰宅して、アルバイトが終わる彼を待って遅い夕飯を食べて、他愛もないことを語り合う、いつもの夜が待っている。そんないつもの夜を心待ちにしている自分がいる。穏やかで、心休まる、愛おしい、隠れ家のような暮らしを、彼と共に。