姉のメッセージに、返信できなかった。イベントのあった公園で刺されたのは、兄だったのだ。ステージから見えた、執拗で感じの悪い視線の主は、兄だった。どこでイベントのことを知ったのか知らないが、礼音を見に来ていたのだ。視線に気づいた時点でステージから逃げ出したかったが、プライドが許さなかった。逃げ出さずにステージを全うできて、大人な態度を取れたことは安堵した。だが、そこで兄が大怪我を負うとは思いもしなかった。
「礼音くん、疲れたんか? 顔色悪いぞ」
「平気です。緊張したけど」
 須川さんに指摘され、礼音はテーブルにスマートフォンを伏せた。碧衣が、悲しそうな目で見つめてくる。
「おい、ショタ。そんな顔すんな」
 礼音は、碧衣の髪をぐしゃぐしゃ撫で、碧衣が小皿に取ってくれた肉や野菜に箸をつけた。スマートフォンの通知が気になるが、今は見ないことにする。動揺を知られたくない。
 店のテレビでは、ミュージックフェスの中継が映し出されていた。SAISONのステージ中止は再三説明されていたが、SHIONのことは報道されていない。姉が上手く伏せてくれている。姉の存在が有り難く、申し訳なかった。


 飲み会がお開きになり、帰宅すると、掛け布団を撤去した炬燵をどかしてリビングに布団を川の字に敷いた。修学旅行みたいだ。碧衣は布団に横になると、すぐに寝てしまった。
「碧衣くんには、申し訳ないことをしました」
 朔人は横になって碧衣の髪を指で梳く。教員志望がやっても平気なのか疑わしい絵面だが、落ち込んだ朔人に、礼音はそんなこと言えない。
「良かれと思って連れて行った場所で、騒ぎが起こってしまったとは」
「あんたが名探偵になって騒ぎを解決するのかと思ったよ」
「いやいやいや」
 多少の冗談を言う余裕は、ある。
「SNSが大変なことになっていますね」
「らしいな」
 あの場所で刺されたのが、SAISONのSHIONだと、SNSで騒ぎになっている。SHIONは本名を明かしていない。ジャズピアニストである姉のMioも、だ。病院の救急外来に運ばれた人の、付き添い来た人が、搬送された久世施音氏の運転免許証を勝手に撮って拡散したせいで、SHIONの本名が世間に知られてしまった。礼音のことが知られたら、マスコミがここを嗅ぎつけるかもしれない。
「俺、ここを出ていくわ」
「殺しますよ」
「構わないよ。あんたにも、碧衣にも、迷惑をかけたくない」
「迷惑なんか、していません」
「あんたって人は……」
 朔人は、何も訊かない。SHIONの運転免許証がSNSで晒された時点で、気づいているはずなのに。
「……あんたって人は、なんで」
 話せなくはない。訊かれれば、彼になら話せる。彼はむやみやたら言いふらす人ではない。
「いや、何でもない」
 礼音だって、朔人のことは訊かない。知っているが、問いたださない。お互い様だ。
「今日は休みましょう。今後のことは、また後で考えましょう。明日は、バターロールを焼きます。覚悟して下さいな」
「何の覚悟だよ」
 礼音は冗談めかして愛想笑いしてみせたが、朔人語録はだんだんわかってきている。飲食に関して彼が求める覚悟とは、胃袋を掴まれる覚悟だ。違う表現に言い換えれば、美味すぎる手料理で家から離れられなくさせてやる、ということになる。
「状況次第では、本当に、考えなくちゃならない。ここに居ても平気なのか、おじさんとも姉とも、話し合いが必要になるかもしれない。出ていくことになっても、俺の好き嫌いだけで出ていくわけじゃないから、そこはわかって……」
 わかってほしいなんて、傲慢だ。言えない。何の気なしにスマートフォンを見ると、気づかないうちに姉からメッセージが来ていた。


 ――施音は命に別状なし。大事を取って数日入院する。
 それより、あいつ、昔よりやばいね。あんたのステージを録画してたよ。あんたのバンドは大々的に宣伝されていなかったのに、どこで知ったのか。
 手綱を握っていなかった私が悪かった。
 礼音、本当にごめんなさい。私は、姉失格です。


 兄は無事だ。それなのに、安心しない自分がいる。身内の不幸を期待していた自分に嫌気が差した。姉に謝らせてしまった。大変なのは、姉なのに。姉は昔から、礼音を守ってくれたのに。姉に落ち度はないのに。
 寒気がしてきた。息が苦しい。震えが止まらない。頭が朦朧とする。
「久世礼音」
 傾く体を、支える手があった。背中を撫でてくれる手があった。黙って抱きしめてくれる体があった。情けない泣き声を外に出さないようにと貸してくれる胸板は大きくも厚くもない。彼の体は知っている。何も訊かない彼の優しさも、知っている。
 ずっとここに居たいと思うのは、傲慢なのだろうか。心地良い彼と、隠れ家のような暮らしを続けたいのは、我儘なのだろうか。