折茂さんのスタジオで一旦解散し、ハードケースを背負ってビアンキを走らせる。もしかして、彼を怒らせてしまっただろうかという不安と、ステージを見あげていた執拗で感じの悪い視線を思い出し、両方を振り切りたく坂道を漕ぎまくる。家に着くと、朔人の車は既に駐まっていた。
「……ただいま」
お帰りなさい、とふたりの声が弾む。軽い足音が玄関にやってくる。
「師匠!」
碧衣が礼音にとびついてきた。
「俺、あんたの師匠なの? ベースやるか?」
礼音が冗談めかして訊くと、碧衣は目を輝かせ、何度も首を縦に振った。
「そんなに頷くと、首がもげるよ」
碧衣の表情も動きも固まった。
「あんまり構わないで下さいね。叔父からお預かりしている、大切な子なので」
朔人が顔を覗かせ、またキッチンに引っ込んだ。怒っているようには見えないが、腹の中は知れない。礼音はハードケースを下ろさず、キッチンに向かう。
「悪かった。勝手に決めちまって」
「何のことですか」
「夕飯」
「料理を決めていなかったので、助かりました。それに、碧衣くんには多くの人と関わってもらいたいです」
「それは、そうかもしれないけど」
朔人自身の気持ちは、どうなのだろうか。
「紛らわしいですよね。明日の朝食に食べられるように、セロリのピクルスとか、パン生地の発酵とか、していたんです。飲み会のつまみよりも、良いものを食わせてやりますよ」
朔人は品良く微笑んだ。その美貌に騙されそうになる。微笑は、これ以上踏み込まれないための線引きかもしれない。
「お友達の居酒屋は、どちらですか? 運転するので、一緒に行きましょう」
「俺は飲むつもりはないから、ビアンキで行けるよ」
「一緒に行こうと、目で言われていますよ」
碧衣が、目を輝かせて碧衣を見上げていた。
「おい、ショタ。あんたは飲むなよ」
碧衣は眉根を寄せ、ちょっと怒る表情を見せた。ハナからそんな気は持ち合わせていない、という意味だろう。碧衣の表情は、感情がわかりやすい。それに対して、朔人は温和な分、わかりづらい。朔人の感情がわかりやすかったのは、荒れて大声で叫んでいた日と、熱烈に礼音を求めていた日。
「ほらほら、碧衣くんを構わないで下さいよ」
追加。碧衣のことを、弟みたいに大切にしているのも、わかりやすい。
互いに干渉しない、他愛もない話をするだけの暮らしが、心地良かったはずなのに。手の届かない王子様みたいな彼と隠れ家みたいな生活をしているだけで幸せであるはずなのに。今は、彼のことを知りたい自分がいる。
折茂さんの家は、焼肉屋を営んでいる。折茂さんの父親が始めた店で、折茂さんで2代目。礼音と歳の変わらない息子が、高卒で働いている。礼音は、この息子がちょっと苦手だった。以前も折茂さんの店で慰労会が行われたが、息子氏が「お前は気づかないんだな。自分が、大学に行ける世間知らずのボンボンだって」と友人らしい客に言っていたのを聞いてしまった。折茂さんは知らない。息子は喋らないだろうし、礼音も話さないから。
礼音は大学受験する金を捻出してもらうことができた。姉が努力に努力を重ねて成功し、稼いだ金だ。あんたに惜しみなく注ぎたいから稼いだの、と姉は礼音を大学に送り出してくれた。学費に関しては、今までなかったような激しい姉弟喧嘩の末、礼音が奨学金制度の利用を勝ち取った。「奨学金の利子のことを考えたら、私が学費を出した方が手っ取り早いけど……そういう話じゃないんだよね」と姉は渋々引いてくれた。高校まで姉に迷惑をかけ続けていたから、これ以上迷惑をかけたくなかった。アパートの家賃や水道光熱費は、アルバイト代で足りない分を工面してもらっているが、働くようになってから返済するつもりだ。
礼音のように大学に送り出してもらえる余裕がある家ばかりだとは、思っていない。もしも礼音の家に経済的な余裕も親の精神的な余裕もなかったら、高卒で就職してから金を貯めて社会福祉士の学校に通いなさい、と言われてしまう。言われなかっただけ、礼音は恵まれている。礼音は、姉に恵まれた。兄には、恵まれなかった。
「礼音くん、いつも本当にありがとう。こんなおっさん達に付き合ってくれて。礼音くんだって、友達付き合いあるでしょうに」
須川さんは申し訳なさそうだ。
「そんなこと、ないです」
大学の知り合いよりもバンドメンバーの方が友達っぽい。碧衣は弟子みたいなものだし、朔人は恩人であり恩人以上のものかもしれない。
「すまん、すまん。この子もお友達だったね」
灰野さんが、朔人と碧衣をトングで示した。やめなさい、と須川さんが止める。
「じゃあ、楽しみましょう! 乾杯!」
店長であるはずの折茂さんが、すでに一杯ひっかけていた。息子氏は気にせずに注文をとっている。別のテーブルでは、息子氏の友人らしきグループも飲み会を始めていた。
「藤の岡公園に警察が来てたじゃん? ヤマダマリンが人を殺そうとしたらしいよ」
彼らの会話に、礼音は耳をそばだててしまった。ヤマダマリン。お騒がせの山田海を思い出してしまった。藤の岡公園は、昼間イベントが行われていた場所だ。帰り際に騒がしかったのは、このせいか。
「イベントの後、救急車が来てたな。誰か運ばれたみたいだぜ」
灰野さんも、その話をしている。まさかと思って礼音はスマートフォンを出した。同じタイミングで、朔人も「すみません」と断りを入れてからスマートフォンを出す。礼音は自分のスマホのグループチャットを見て、我が目を疑った。朔人を盗み見ると、彼も、信じられないと言いたそうな表情をしていた。
礼音のグループチャットはこんな話題になっていた。
――山田マリン、逮捕されたらしいよ!
「……ただいま」
お帰りなさい、とふたりの声が弾む。軽い足音が玄関にやってくる。
「師匠!」
碧衣が礼音にとびついてきた。
「俺、あんたの師匠なの? ベースやるか?」
礼音が冗談めかして訊くと、碧衣は目を輝かせ、何度も首を縦に振った。
「そんなに頷くと、首がもげるよ」
碧衣の表情も動きも固まった。
「あんまり構わないで下さいね。叔父からお預かりしている、大切な子なので」
朔人が顔を覗かせ、またキッチンに引っ込んだ。怒っているようには見えないが、腹の中は知れない。礼音はハードケースを下ろさず、キッチンに向かう。
「悪かった。勝手に決めちまって」
「何のことですか」
「夕飯」
「料理を決めていなかったので、助かりました。それに、碧衣くんには多くの人と関わってもらいたいです」
「それは、そうかもしれないけど」
朔人自身の気持ちは、どうなのだろうか。
「紛らわしいですよね。明日の朝食に食べられるように、セロリのピクルスとか、パン生地の発酵とか、していたんです。飲み会のつまみよりも、良いものを食わせてやりますよ」
朔人は品良く微笑んだ。その美貌に騙されそうになる。微笑は、これ以上踏み込まれないための線引きかもしれない。
「お友達の居酒屋は、どちらですか? 運転するので、一緒に行きましょう」
「俺は飲むつもりはないから、ビアンキで行けるよ」
「一緒に行こうと、目で言われていますよ」
碧衣が、目を輝かせて碧衣を見上げていた。
「おい、ショタ。あんたは飲むなよ」
碧衣は眉根を寄せ、ちょっと怒る表情を見せた。ハナからそんな気は持ち合わせていない、という意味だろう。碧衣の表情は、感情がわかりやすい。それに対して、朔人は温和な分、わかりづらい。朔人の感情がわかりやすかったのは、荒れて大声で叫んでいた日と、熱烈に礼音を求めていた日。
「ほらほら、碧衣くんを構わないで下さいよ」
追加。碧衣のことを、弟みたいに大切にしているのも、わかりやすい。
互いに干渉しない、他愛もない話をするだけの暮らしが、心地良かったはずなのに。手の届かない王子様みたいな彼と隠れ家みたいな生活をしているだけで幸せであるはずなのに。今は、彼のことを知りたい自分がいる。
折茂さんの家は、焼肉屋を営んでいる。折茂さんの父親が始めた店で、折茂さんで2代目。礼音と歳の変わらない息子が、高卒で働いている。礼音は、この息子がちょっと苦手だった。以前も折茂さんの店で慰労会が行われたが、息子氏が「お前は気づかないんだな。自分が、大学に行ける世間知らずのボンボンだって」と友人らしい客に言っていたのを聞いてしまった。折茂さんは知らない。息子は喋らないだろうし、礼音も話さないから。
礼音は大学受験する金を捻出してもらうことができた。姉が努力に努力を重ねて成功し、稼いだ金だ。あんたに惜しみなく注ぎたいから稼いだの、と姉は礼音を大学に送り出してくれた。学費に関しては、今までなかったような激しい姉弟喧嘩の末、礼音が奨学金制度の利用を勝ち取った。「奨学金の利子のことを考えたら、私が学費を出した方が手っ取り早いけど……そういう話じゃないんだよね」と姉は渋々引いてくれた。高校まで姉に迷惑をかけ続けていたから、これ以上迷惑をかけたくなかった。アパートの家賃や水道光熱費は、アルバイト代で足りない分を工面してもらっているが、働くようになってから返済するつもりだ。
礼音のように大学に送り出してもらえる余裕がある家ばかりだとは、思っていない。もしも礼音の家に経済的な余裕も親の精神的な余裕もなかったら、高卒で就職してから金を貯めて社会福祉士の学校に通いなさい、と言われてしまう。言われなかっただけ、礼音は恵まれている。礼音は、姉に恵まれた。兄には、恵まれなかった。
「礼音くん、いつも本当にありがとう。こんなおっさん達に付き合ってくれて。礼音くんだって、友達付き合いあるでしょうに」
須川さんは申し訳なさそうだ。
「そんなこと、ないです」
大学の知り合いよりもバンドメンバーの方が友達っぽい。碧衣は弟子みたいなものだし、朔人は恩人であり恩人以上のものかもしれない。
「すまん、すまん。この子もお友達だったね」
灰野さんが、朔人と碧衣をトングで示した。やめなさい、と須川さんが止める。
「じゃあ、楽しみましょう! 乾杯!」
店長であるはずの折茂さんが、すでに一杯ひっかけていた。息子氏は気にせずに注文をとっている。別のテーブルでは、息子氏の友人らしきグループも飲み会を始めていた。
「藤の岡公園に警察が来てたじゃん? ヤマダマリンが人を殺そうとしたらしいよ」
彼らの会話に、礼音は耳をそばだててしまった。ヤマダマリン。お騒がせの山田海を思い出してしまった。藤の岡公園は、昼間イベントが行われていた場所だ。帰り際に騒がしかったのは、このせいか。
「イベントの後、救急車が来てたな。誰か運ばれたみたいだぜ」
灰野さんも、その話をしている。まさかと思って礼音はスマートフォンを出した。同じタイミングで、朔人も「すみません」と断りを入れてからスマートフォンを出す。礼音は自分のスマホのグループチャットを見て、我が目を疑った。朔人を盗み見ると、彼も、信じられないと言いたそうな表情をしていた。
礼音のグループチャットはこんな話題になっていた。
――山田マリン、逮捕されたらしいよ!

