朔人は東京で生まれ育った。一人っ子で、両親と3人暮らし。親戚は遠方に住んでいて、ほとんど関わりがない。
 朔人の父は私立高校の教員で、仕事が忙しくあまり家にいなかった。母は一般企業の事務職で、正社員。朔人は独りで過ごす時間が多かった。
 父は、自分の理想を周りに押しつけるタイプの人間だった。母が正社員として働いているのも、父が強要したからだ。家事子育てができないから働く時間を削っていると世間に思われたくない、というのが父の持論だ。
 朔人が母の負担に気づいたのは、小学校に上がってすぐのことだった。料理はできないが、学校から帰ってきて掃除はやった。朔人は、学童には入らなかった。そんなことに金をかけて何のために働いているんだ、というのが父の主張だ。朔人は家の鍵を持って学校に行き、放課後はまっすぐ家に帰って洗濯物を畳み、掃除をしてから宿題をやった。洗濯物を畳んだことはすぐに母が気づいたが、掃除には気づかなかった。朔人も、自分から言うことはしなかった。
 朔人が掃除をしていることに気づいたのは、父だった。ウェットシートの減りが早く、雑巾が完全に乾いていない日が多く、モップに埃がついたまま収納されていることに気づいた父は、平日の午後に突然帰宅して朔人が掃除をしている現場を押さえたのだ。父は烈火のごとく朔人を怒鳴りつけ、その場で母に電話して「ママが家事をやらないせいだ」と母にも怒鳴りつけた。その日から、朔人は家事の一切を禁止された。ウェットシートの消費量を毎晩チェックされ、掃除用具が前の晩と同じ場所に同じ向きで収納されているか確認されるようになった。この頃から、母は拍車をかけて疲弊していった。余計なことをしないで、と朔人を叱るようになった。
 朔人は父の指示でピアノ教室に通わされた。教室は土曜日の午後だが、自宅での練習は平日の17時までと決められたため、学校から帰ってきてすぐに学校の宿題とピアノの練習をやらざるを得なくなった。近所の人の耳にピアノの音が聞こえてしまうため、練習を休むわけにはいかない。当然、こっそりと掃除をする時間は確保できない。
 朔人の小学校の卒業式の前日、母が職場で倒れた。過労が一因の、心筋梗塞だった。生死の境をさまよい、朔人の中学校の入学式を目前に他界した。朔人は小学校の卒業式も中学校の入学式も参加していない。


 中学生になると、母がやっていた家事が全て朔人の負担になった。ピアノ教室は、母親の稼ぎがなくなったからと、父によって辞めさせられた。掃除、洗濯、ごみ出し、料理、買い物、町内会の連絡など、全て朔人がやらなくてはならなくなった。
 叔父は朔人の父に苦言を呈し、家政婦でも契約したらどうだと言ってくれたが、父は聞く耳を持たず、朔人が叔父と接触しないように目を光らせるようになった。
 同級生は、朔人を気にかけてくれる人ばかりだった。特に、小学校から持ち上がりの人達は、朔人の家のことを知っていたため、係や委員会の仕事を肩代わりしてくれたり、放課後の掃除の負担を軽くしてくれた。誰にでも敬語でしか話せない朔人を「朔人の声と喋り方って、柔らかくて聞きやすい」と好意的に受け入れてくれた。外見に恵まれたことも、周りを味方につけた一因だった。告白されたことはなかったが、隣のクラスの女子が朔人のこと好きなんだって、という類の話はたまに小耳に挟んだ。気にする余裕は、なかったが。
 校則で部活動は必ず所属しなくてはならなかったが、家庭の事情で部活動に参加できない生徒は他にもいたため、朔人は特に教師から怒られることもなかった。むしろ、担任をはじめとする教師陣も朔人を心配して、朔人の父と連絡を取っていたようだ。しかし、担任が面談や家庭訪問を申し出ると、父は怒り狂い、朔人に八つ当たりした。パパを悪者にするとは不孝者だ、と。
 その頃、父は私立高校の一教員から校長になり、これまでと違う仕事内容に苦戦していたらしい。付き合いで会食や飲み会に行く夜もあったが、どんなに遅くても帰宅すると夕食を摂りたがった。父は舌が肥えており、飲食店のような料理でないと満足しなかった。家計の管理は父が独占していたため、レシートを全て父に提出しなくてはならなかった。そのため、惣菜やレトルト食品、冷凍食品を買うわけにゆかなかった。
 朔人は母がやったように、魚をさばくことを覚え、刺身やカルパッチョをつくれるようになった。鶏肉にハーブを入れてオーブン焼きをするようになった。カレーのスパイスを研究する羽目になった。小料理屋のお通しのような副菜をつくれるようになった。朝食にパンを焼いたり、ポタージュもつくった。食後のデザートも何度仕込んだか数え切れない。家庭科の調理実習の範囲を超えた料理の合間を縫って学校の宿題や予習をやらざるを得なかった。各教科の資料集を読むことを覚えたのは、このときだ。資料集の図を視覚で覚えることが、教科書を読むより身につく気がした。勉強時間が少ない割に成績を落とさなかったのは、資料集のお蔭だ。そこそこの高校に受験して奇跡的に合格できた。
 中学校の卒業式の朝と高校の入学式の前日の2回、父が過労で倒れた。1日入院して点滴するだけで済んだが、朔人はまたしても自分の門出に参加することができなかった。


 高校に入学すると、朔人は自分の金から食品や日用品を買うことと、生活費を家に入れることを父に求められた。放課後はコンビニのアルバイトと家事で時間が消えた。
 壊れていた親子関係が粉塵レベルで崩壊したのは、朔人が高校2年生の2月のことだった。男子の間で、バレンタインデーを目前に、朔人は誤解から軽く妬まれたのだ。朔人の恵まれた外見と、厳しい父親のもとでアルバイトに勤しむ姿は高校でも好感を呼び、朔人に好意を寄せる者が少なからずいた。それは、恋愛感情というより、推しとか支援したいとか、尊敬の念であったが、仲が良かった男子達は、俺達を出し抜いて告白される気だな、と朔人を非難した。どういうわけか、それが朔人の父の耳に入り、父が朔人の高校に乗り込んできたのだ。「倅《せがれ》が同級生にいじめをさせている。自ら被害者になるような言動をさせたことで学校に迷惑をかけて、大変申し訳ない。倅は退学させる」と。学校側は、そんな事実はないと主張し、朔人を退学させない、という姿勢を取った。それが父の怒りの火に油を注ぐことになり、父は自分が校長を務める私立高校のホームページで、自分の息子が自らいじめの被害者になり気に入らない同級生を加害者に仕立て上げたと、動画を配信した。息子は退学させ自分は責任を取って校長を辞する、と。この動画はちょっとした騒ぎになり、校長の言い分はおかしいと朔人の父は非難された。
 朔人を守ろうとすぐに行動に出たのは、叔父だった。朔人を自分の家に匿い、父と学校への対応をしてくれた。朔人は父と無理矢理離される形となり、叔父の家から高校に通えることになった。朔人の父は年度末で私立高校の校長を辞し、引きこもってしまった。朔人は3年の春でコンビニのアルバイトを辞め、大学受験の勉強をすることになった。その頃、たびたび父から電話やメールが来るようになった。高卒で就職するという選択肢もあるんだから早々にその選択肢を捨てるな、と。教員になるという目標を諦めたくなった朔人は、地方の大学に入学を決め、叔父が相続した家を管理する目的でその家から大学に通うことになった。
 高校の卒業式は、叔父とその妻の千鶴が来てくれた。千鶴は白血病の治療のため芸能界を引退したが、公にはしていなかった。幸い、高校生に真野千鶴の認知度は低く、保護者からも気づかれなかった。碧衣は小学校を休めなかったため、悔しがりながら登校したらしい。
 朔人が引っ越しする前日、父が自殺した。遺書には、朔人が迷惑と負担ばかり押しつけ心を病まされた、と書かれていた。朔人は警察から事情聴取をされ、引っ越しの予定が遅れ、大学の入学式も欠席した。
 大学では、意識せずに人と関わらなくなった。アルバイト先のスタッフや、大学の教授や職員とはフラットにやりとりできるが、親しい学生はいない。無理に関わることもないと朔人は思うようになった。誰かと親しくなったことで、いじめの加害者に仕立て上げるような構図は、もう勘弁してほしいから。