市役所近くのラーメン屋に着く頃には、雨足が強くなっていた。
「礼音くんのお友達だって? 礼音くんから、さっき電話があったよ。礼音くんも来るってさ」
70歳はとっくに過ぎたと思われる痩身の男性が、テーブル席を勧めてくれた。礼音の言う、店のご主人だ。飴色に塗装された木材のテーブルと椅子は、老舗の良き雰囲気が出ている。
「すみません。車に乗せてくれただけじゃなくて、俺に構ってくれて」
「構いませんよ。デートですから」
「礼音も来るっていうのに」
「三角関係でしょうか」
親しい人間以外で、冗談を交わして笑ったのは、初めてかもしれない。思い返せば、冗談を交わせるような家庭環境ではなかった。母は冗談が言えるほど心に余裕のある人ではなかったし、父は心に余裕があっても冗談を心底忌み嫌っていた。
「何か頼みますか?」
「あ、じゃあ……」
お品書きを受け取った剛生は、次第に顔色が悪くなり、手が震えてしまう。
「ごめんなさい! ごめんなさい……!」
剛生は椅子から立ち上がり、出入りに向かう。そこで鉢合わせたのは、ずぶ濡れの礼音だった。兄ちゃん達元気だな、と店のご主人がのんびりと感想を述べた。
「剛生!? 剛生!」
礼音は、びしょ濡れのレインコートを着たまま、剛生の腰に抱きついた。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
「礼音! 服! 水浸し!」
剛生は色んな意味でパニックになってしまった。
「これ? ロードバイク用のレインコートと、ヘルメットの下に被る帽子。良い買い物をしたよ。バイト代、かなりとんだけど」
礼音は帽子とレインコートを脱ぎ、慣れたように出入り口のハンガーに引っかける。
「で、剛生が反抗期なんだって?」
「言い方」
朔人は思わず突っ込みを入れてしまった。
「以前から、ご両親がヤバそうなイメージはあったんだけどね」
礼音は剛生を席に戻し、自分は朔人の隣に座った。
「5限はどうしたんですか?」
「休講になった。先生のパソコンが調子悪くて動かないらしい。今日の講義の内容は、後日紙媒体で配布するから手書きのレポートを書くように言われた。なんだかんだで、紙が最強なんだな」
礼音は、お品書きを広げる。急に礼音のペースになり、剛生は休憩するような深呼吸をした。深呼吸したいのは、朔人も同じだ。礼音のマイペース具合に、救われた。彼がいなかったら、剛生と落ち着いて話せない。
兄ちゃん達サービスだ、とご主人が持ってきたのは、烏龍茶と餃子。剛生は、自分の前に出された餃子の皿に目を落とした。
礼音が、美味い、と自分の餃子を食べ始めるが、剛生は自分の餃子に手をつけない。深く溜息をついて、口を開いた。
「俺は、スーパーで売られている9個で100円の餃子しか食べたことがありません。5人家族で9個を分け合っていました。祖父母と両親が2個ずつ、俺は1個。それが、我が家の普通です」
高校に進学すること自体、家族から大反対されました。中学の担任が根気強く両親を説得してくれたお蔭で、俺は高校に進学できました。でも、祖父母はそれを根に持ち続けています。勉強する時間があったら働いてくれ、と。
うちは町工場をやっていますが、経営は上手く行っていて、経済的にも苦しくはないです。だからかえって、無駄遣いしたくないと思われたみたいです。俺も働いて売り上げに貢献してほしいと。高校に通いながら、少しでも時間があると、工場の手伝いをしました。機械は触れないので、掃除だとか、事務作業とか、洗濯とか。後継者は特に考えていなかったみたいです。親戚じゃなくても、良い人材があれば抜擢するし、いなければ父の代で工場を畳むと。
大学進学は、予想通り反対されました。社会福祉士になりたいと言っても、そんなことをしなくても仕事は目の前にあるだろう、と頭ごなしに否定されました。
俺の味方は、お姉ちゃんと呼ばせてもらっている、5歳上の従姉でした。お姉ちゃんは高校を卒業してすぐに、うちで事務員として働いていました。今は別の仕事をしてしますが、当時は俺と一緒になって俺の親を説得しようとしてくれました。俺が社会福祉士になれば、介護の必要が出たら行政の手続きがスムーズになる、と根気強く話を盛ってくれたお蔭で、俺は大学受験できました。
大学進学の条件は、大学以外の外出禁止、スマホのやりとりは全て親に見せること、メッセージは全てすぐに読んですぐに返事をすること、現金は持たず、親がスマホから確認できるキャッシュレス決算にすること、大学の課題より工場の手伝いと家事を優先すること、大学卒業後は養育費と学費を返済し生活費も入れること。去年までは我慢できていましまが、今年から我慢するのが難しくなって……
この前、タンブラーを買おうかという話をした気がします。水筒が壊れて漏れるようになったから新しいものを買うことは、親から許可が出ていたんです。駅ビルの中の店でタンブラーを探していたら、従姉のお姉ちゃんに偶然会いました。お姉ちゃんは、そこの店員だったんです。俺が追い詰められているように見えたみたいで、かなり心配されました。お姉ちゃんは伯母さん……父のお姉さんにも俺の話をしてくれて、俺の連絡先を知りたがっていました。お姉ちゃんは、自分の連絡先と伯母さんの連絡先をメモに書いて渡してくれました。
その日から親も、俺がいつもと何となく違うことに気づいたみたいで、過剰にメッセージが送られるようになりました。今も、スマホはマナーモードにしていますが、メッセージも電話も絶えず送られてきています。この場所が知られるのも、時間の問題です。
俺が我慢できれば済む話なのに、我慢できなくて、どうしたら良いかわからない。今、そんな状態です。
「酷い親だな。そんなのは、家族とは言わない」
朔人が思ったことを、礼音ははっきり言い切った。そのお蔭で、朔人も言いやすくなる。
「お姉さんと伯母さんに、頼りましょう。そのために、お姉さんは連絡先を教えてくれたのでしょう。おふたりは、近くにお住まいですか?」
「はい……この市に住んでいるけど」
「喜んで助けてくれると思いますよ。僕なんか、些細なことで叔父に頼りっぱなしです。叔父には申し訳ないと思いますが、叔父は嫌な顔をしません。むしろ、連絡をしてくれたことに感謝してくれます」
なぜか礼音が、うんうんと頷いた。
「多分、あなたのご両親は荒れると思います。でも、あなたを守ってくれる人もいます。守ってくれる人に頼って下さい。僕は、あなたが間違っていると思いません」
剛生は目を潤ませ、下を向いた。パスケースからメモを引き出し、スマートフォンに入力する。
「電話、してきます」
兄ちゃんが恥ずかしくなければこの席で電話しちまいな、と店のご主人に言われ、剛生は席を立たずに電話をかける。もしもし伯母さんですか、と電話口で訊ね、返事を聞いた剛生の表情が、緩んだ。
「迎えに行くから、友達とラーメン食べてきなさいって」
「剛生、良かったじゃん」
「ふたりに背中を押された気がする」
「何もしていませんよ」
「大学から連れ出して、話を聞いてくれましたよね」
「そうでした。デートでしたね」
「そうですよ」
礼音は烏龍茶に噎せ、目を見開いた。
「……あんた達、いつの間にかそんなに仲良くなったのか?」
親より親みたいな伯母に迎えに来てもらい、剛生は店を後にした。伯母が3人分の会計をしてくれた。
「……バンドの練習、明日に延期だって」
「この雨ですもんね」
残されたふたりは、まだテーブル席でだらだらしている。
「あんた、剛生とデートしたのか?」
「妬いていますか?」
「……まさか」
「そうでも言わなければ、あの人を連れ出すことができませんでしたから」
「俺達は、剛生の友達らしいぞ」
「そうみたいですね」
友達。もう朔人には一生縁のない言葉だと思っていた。目の前の彼は、友達という言葉で括れない存在だ。恩人とか、それ以上の。剛生の事情を聞いて、朔人は自分の過去を思い出した。3年前、高校2年の2月のことだ。
「礼音くんのお友達だって? 礼音くんから、さっき電話があったよ。礼音くんも来るってさ」
70歳はとっくに過ぎたと思われる痩身の男性が、テーブル席を勧めてくれた。礼音の言う、店のご主人だ。飴色に塗装された木材のテーブルと椅子は、老舗の良き雰囲気が出ている。
「すみません。車に乗せてくれただけじゃなくて、俺に構ってくれて」
「構いませんよ。デートですから」
「礼音も来るっていうのに」
「三角関係でしょうか」
親しい人間以外で、冗談を交わして笑ったのは、初めてかもしれない。思い返せば、冗談を交わせるような家庭環境ではなかった。母は冗談が言えるほど心に余裕のある人ではなかったし、父は心に余裕があっても冗談を心底忌み嫌っていた。
「何か頼みますか?」
「あ、じゃあ……」
お品書きを受け取った剛生は、次第に顔色が悪くなり、手が震えてしまう。
「ごめんなさい! ごめんなさい……!」
剛生は椅子から立ち上がり、出入りに向かう。そこで鉢合わせたのは、ずぶ濡れの礼音だった。兄ちゃん達元気だな、と店のご主人がのんびりと感想を述べた。
「剛生!? 剛生!」
礼音は、びしょ濡れのレインコートを着たまま、剛生の腰に抱きついた。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
「礼音! 服! 水浸し!」
剛生は色んな意味でパニックになってしまった。
「これ? ロードバイク用のレインコートと、ヘルメットの下に被る帽子。良い買い物をしたよ。バイト代、かなりとんだけど」
礼音は帽子とレインコートを脱ぎ、慣れたように出入り口のハンガーに引っかける。
「で、剛生が反抗期なんだって?」
「言い方」
朔人は思わず突っ込みを入れてしまった。
「以前から、ご両親がヤバそうなイメージはあったんだけどね」
礼音は剛生を席に戻し、自分は朔人の隣に座った。
「5限はどうしたんですか?」
「休講になった。先生のパソコンが調子悪くて動かないらしい。今日の講義の内容は、後日紙媒体で配布するから手書きのレポートを書くように言われた。なんだかんだで、紙が最強なんだな」
礼音は、お品書きを広げる。急に礼音のペースになり、剛生は休憩するような深呼吸をした。深呼吸したいのは、朔人も同じだ。礼音のマイペース具合に、救われた。彼がいなかったら、剛生と落ち着いて話せない。
兄ちゃん達サービスだ、とご主人が持ってきたのは、烏龍茶と餃子。剛生は、自分の前に出された餃子の皿に目を落とした。
礼音が、美味い、と自分の餃子を食べ始めるが、剛生は自分の餃子に手をつけない。深く溜息をついて、口を開いた。
「俺は、スーパーで売られている9個で100円の餃子しか食べたことがありません。5人家族で9個を分け合っていました。祖父母と両親が2個ずつ、俺は1個。それが、我が家の普通です」
高校に進学すること自体、家族から大反対されました。中学の担任が根気強く両親を説得してくれたお蔭で、俺は高校に進学できました。でも、祖父母はそれを根に持ち続けています。勉強する時間があったら働いてくれ、と。
うちは町工場をやっていますが、経営は上手く行っていて、経済的にも苦しくはないです。だからかえって、無駄遣いしたくないと思われたみたいです。俺も働いて売り上げに貢献してほしいと。高校に通いながら、少しでも時間があると、工場の手伝いをしました。機械は触れないので、掃除だとか、事務作業とか、洗濯とか。後継者は特に考えていなかったみたいです。親戚じゃなくても、良い人材があれば抜擢するし、いなければ父の代で工場を畳むと。
大学進学は、予想通り反対されました。社会福祉士になりたいと言っても、そんなことをしなくても仕事は目の前にあるだろう、と頭ごなしに否定されました。
俺の味方は、お姉ちゃんと呼ばせてもらっている、5歳上の従姉でした。お姉ちゃんは高校を卒業してすぐに、うちで事務員として働いていました。今は別の仕事をしてしますが、当時は俺と一緒になって俺の親を説得しようとしてくれました。俺が社会福祉士になれば、介護の必要が出たら行政の手続きがスムーズになる、と根気強く話を盛ってくれたお蔭で、俺は大学受験できました。
大学進学の条件は、大学以外の外出禁止、スマホのやりとりは全て親に見せること、メッセージは全てすぐに読んですぐに返事をすること、現金は持たず、親がスマホから確認できるキャッシュレス決算にすること、大学の課題より工場の手伝いと家事を優先すること、大学卒業後は養育費と学費を返済し生活費も入れること。去年までは我慢できていましまが、今年から我慢するのが難しくなって……
この前、タンブラーを買おうかという話をした気がします。水筒が壊れて漏れるようになったから新しいものを買うことは、親から許可が出ていたんです。駅ビルの中の店でタンブラーを探していたら、従姉のお姉ちゃんに偶然会いました。お姉ちゃんは、そこの店員だったんです。俺が追い詰められているように見えたみたいで、かなり心配されました。お姉ちゃんは伯母さん……父のお姉さんにも俺の話をしてくれて、俺の連絡先を知りたがっていました。お姉ちゃんは、自分の連絡先と伯母さんの連絡先をメモに書いて渡してくれました。
その日から親も、俺がいつもと何となく違うことに気づいたみたいで、過剰にメッセージが送られるようになりました。今も、スマホはマナーモードにしていますが、メッセージも電話も絶えず送られてきています。この場所が知られるのも、時間の問題です。
俺が我慢できれば済む話なのに、我慢できなくて、どうしたら良いかわからない。今、そんな状態です。
「酷い親だな。そんなのは、家族とは言わない」
朔人が思ったことを、礼音ははっきり言い切った。そのお蔭で、朔人も言いやすくなる。
「お姉さんと伯母さんに、頼りましょう。そのために、お姉さんは連絡先を教えてくれたのでしょう。おふたりは、近くにお住まいですか?」
「はい……この市に住んでいるけど」
「喜んで助けてくれると思いますよ。僕なんか、些細なことで叔父に頼りっぱなしです。叔父には申し訳ないと思いますが、叔父は嫌な顔をしません。むしろ、連絡をしてくれたことに感謝してくれます」
なぜか礼音が、うんうんと頷いた。
「多分、あなたのご両親は荒れると思います。でも、あなたを守ってくれる人もいます。守ってくれる人に頼って下さい。僕は、あなたが間違っていると思いません」
剛生は目を潤ませ、下を向いた。パスケースからメモを引き出し、スマートフォンに入力する。
「電話、してきます」
兄ちゃんが恥ずかしくなければこの席で電話しちまいな、と店のご主人に言われ、剛生は席を立たずに電話をかける。もしもし伯母さんですか、と電話口で訊ね、返事を聞いた剛生の表情が、緩んだ。
「迎えに行くから、友達とラーメン食べてきなさいって」
「剛生、良かったじゃん」
「ふたりに背中を押された気がする」
「何もしていませんよ」
「大学から連れ出して、話を聞いてくれましたよね」
「そうでした。デートでしたね」
「そうですよ」
礼音は烏龍茶に噎せ、目を見開いた。
「……あんた達、いつの間にかそんなに仲良くなったのか?」
親より親みたいな伯母に迎えに来てもらい、剛生は店を後にした。伯母が3人分の会計をしてくれた。
「……バンドの練習、明日に延期だって」
「この雨ですもんね」
残されたふたりは、まだテーブル席でだらだらしている。
「あんた、剛生とデートしたのか?」
「妬いていますか?」
「……まさか」
「そうでも言わなければ、あの人を連れ出すことができませんでしたから」
「俺達は、剛生の友達らしいぞ」
「そうみたいですね」
友達。もう朔人には一生縁のない言葉だと思っていた。目の前の彼は、友達という言葉で括れない存在だ。恩人とか、それ以上の。剛生の事情を聞いて、朔人は自分の過去を思い出した。3年前、高校2年の2月のことだ。

