大学内で見かけても、彼は声をかけてこない。それが心地良い。金曜3限の「世界遺産の建築学」で見知らぬ女子に席をどかされてしまった自分に隣をすすめてくれたときも、馴れ馴れしく話しかけてこなかった。左右から無粋な視線は感じたが、指摘するようなものではなかった。学内で彼と接したのは、その一度きりだ。強矢剛生という彼の友人だって、たまたまあのときだけ隣の席をすすめてくれただけだ。次の週の金曜3限は、別の席を使った。彼も、強矢剛生も、朔人に話しかけてこなかった。
 4限が終わると、外は小雨が降っていた。傘は持っていないが、駐車場まで走れるくらいの雨足だ。軒下からダッシュしようと意を決した直後、その意はいとも簡単にへし折られた。少し離れたところで雨宿りしていた強矢剛生と目が合った。剛生は軽く会釈し、顔を背けた。以前のような、朔人の容姿に呆気にとられたような表情ではなかった。人と関わるのを避ける朔人でさえ、見逃すなと直感した。
「おつかれさまです」
 朔人から声をかけられると思っていなかったのか、剛生は無言で目を見張った。その目は、泣き腫らしていた。
「僕は車通学(くるま)なんです。乗っていきますか?」
 剛生は答えず、その場に泣き崩れた。他の学生が、何事かと一瞬驚き、すぐに自分のスマートフォンに目を落とす。
 大きな体を屈めて嗚咽をこぼす剛生の背中を、朔人はただ(さす)る。ごめんなさい、と謝る剛生に、朔人は、大丈夫です、と返した。
 強矢剛生と初めて会ったとき、見た目に反して優しく無垢な性格を目の当たりにし、その優しさを搾取されそうな人だと思った。一方的にこき使われ、ある日突然心を折られてしまうのではないかと、朔人は勝手に想像していた。その想像が的中してしまったのではないかと、自分に酔った予想をしてしまう。
「……家に、帰らなくちゃいけないのに、足が動かないんです。ここでだらだらする時間がないのは、わかっているのに」
 そんな日もありますよ、と気楽な言葉をかけられるほど、朔人は根が明るい人間ではない。剛生が握りしめるスマートフォンに、立て続けにメッセージが送られてくるのを、朔人は見てしまった。


 ――バスに乗ったか?
 ――5時16分の電車で帰ってきなさい。
 ――返事しなさい。
 ――メッセージ見てるよね?
 ――何が気に入らないの?
 ――大学に行かせてやったのに、何が不満なんだ?
 ――学費も馬鹿にならないんだぞ。
 ――せめて連絡しなさい。
 ――変な友達とつるんでいると解釈しても構わないということだよな。


 両親と思しき人から、次々とメッセージが送られてきている。こんな内容では返事する気も起こらないのではないか、と朔人は思ってしまった。論理的に反論できないが、朔人だってこんな内容が送られてきたら逃げたくなる。
 朔人は少し思案し、冗談めかして提案した。
「この後、デートしませんか?」
 なっ、と剛生は息を呑み、言葉を失った。赤面しなかったことが、朔人はちょっと残念だと思ってしまった。剛生の逞しい外見とは裏腹に純粋無垢な性格が、朔人はつい、からかってしまいたくなるのだ。とはいえ、心が折れたような剛生を独りにしておくのは良心が痛む。今の剛生は、かつての自分にそっくりだ。あのときの自分は、叔父に手を差し伸べられて立ち直ることができた。剛生に手を差し伸べられるのは、今のところ自分だけだ。
「すみません。ふざけてしまいました」
「……意外です。真面目な印象だから」
「真面目、ですか」
 真面目だとは、誰からも言われたことがなかった。つまらない人間だとか、世間知らずだとは言われてきたし、自覚しているが。
「あの……もっと弱音を吐いても良いですか?」
「良いですよ。場所を変えましょうか」
 朔人も剛生も世間知らずなもので、相談事をするときに腰を下ろせる場所に見当がつかない。学内の休憩スペースはパソコンやタブレットで陣取る学生で満席になっている上、騒がしくて小声で話すことができない。ファミレスも然り。ふたりきりでカラオケボックスは、気まずい。家に連れて行くことも考えたが、あの家に礼音以外の他人を上げたくない。
「あ……礼音から返信来ました。市役所の近くのラーメン屋さんなら、店のご主人も常連客も良い人だし口が固いから、むしろそのおじさん達にも話を聞いてもらった方が良いって」
 いつの間にか、剛生は礼音に相談していた。礼音は5限の講義の最中のはずだ。(いぶか)しむ朔人に、剛生はメッセージのやりとりを見せてくれた。相手は礼音に間違いない。メッセージを拝見している間に、新たなメッセージが来た。俺も合流する、と。
 するなよ、と朔人も剛生も声を合わせて突っ込みを入れてしまった。その間にも、剛生の両親と思しき人達から絶えずメッセージが送られてきている。