我ながら、つまらない人間だと、栗須朔人は自覚している。特に頭が良いわけではなく、これといった趣味もない。同年代に比べて本は読んでいると思うが、同年代の者と比べたことがないので定かではない。家庭菜園と料理と掃除洗濯は、昔からのルーティンなので、好きとか嫌いとか考えたこともない。服のセンスも皆無なので、無難な服装を選んでいる。自分の中で一番壊滅的な欠陥は、人と関わることができないことだ。
 つまらない人間なのに、どういうわけか人が寄ってくる。昔から朔人のことを知る叔父や従弟だけでなく、近所のおじちゃんやおばちゃん、学校の先生、ろくに口をきいたこともない同級生、バスの乗り方がわからない見知らぬ人、朔人の容姿だけを見て声をかけてくる人、なぜか朔人を、中身のある親しみやすい人だと勘違いしている。
 こんな朔人でも、昔から好きなことがあった。国語の資料集を見ることだ。中学生のときの国語の副教材に惹かれ、普段の読書と同じ感覚で国語の資料集を読んだ。進学できるくらいの成績を修めることができたのは、各教科の資料集のお蔭だ。国語、理科、社会科、技術家庭科、体育のペーパーテストは教科書よりも資料集で勉強した。反面、資料集のない数学と英語は苦労した。
 資料集好きに救われた結果、進路を考える際に教員を視野に入れた。教員になって、自分のように机にかじりついてお勉強ができない子にも、資料集を通じて学ぶことの面白さを伝えたいと思ったからだ。
 教員を志望することに関してはどの大人からも背中を押してもらえたが、志望動機は完膚なきまでに否定された。副教材を主にして指導することは違法行為だから考え直せ、と。教員志望は変えずに志望動機を変えなさい、とこてんぱんにされた。表向きは、教育者の父の影響で教員を目指すことにしたが、本当の理由は変えていない。
 教員志望なら塾講師のアルバイト、と世間でイメージされているようだが、朔人は大学に入学した当初はディスカウントストアでレジ担当をしていた。コミュニケーションに慣れるには、これが入門だと思っていたからだ。思い込みだった。コミュニケーションは、入門どころか応用の連続だ。他のスタッフがいても、客は朔人に声をかけてくる。話しかけやすいらしい。高卒の店長から言われたことがある。大学生は人生勝ち組だよな、金があるし、仕事に本腰入れる必要がないもんな、と。そのたびに、父から何度も言われた言葉を思い出していた。


 ――高卒で就職するという選択肢もあるんだぞ。その選択肢を真っ先に排除しようなんて視野の狭いことは、考えていないだろうな。


「……ねえねえねえ! 聞いてるの!?」
 金切り声に耳を突かれ、朔人は我に返った。
「もう、わけわかんない! なんで、あたしだけこんな扱いされるの!?」
 朔人の目の前で泣きながら怒るのは、昨年度末までバイト講師をやっていた山田(まりん)だ。教員採用試験に合格せず老人ホームに就職したと聞いたが、ここ3日間この学習塾に押しかけて老人ホームでの扱いの酷さを嘆いている。塾長や事務員、事務アルバイトの朔人が代わる代わる話を聞いている。
「学生のアルバイトの子は、おむつ換えもトイレの手伝いも食事を食べさせるのも免除されているのに、あたしはやらさせるんです。あたしは記録を書いたりイベントを企画したいって言っても、先輩にまずは下の世話とシーツ交換を覚えろって強要されて、あんまりですよ。施設長に訴えても、まずは先輩に教わってって先輩をかばって、あたしを悪者にするんです。土日も早番も遅番も無理だって言うと、それならパートに契約変更するって、横暴ですよ。それに、先週の土日に関西のウニバ……テーマパークに行って、日曜日は仕事の予定だったから、ウニバでイベントの企画書を書いていました。それなのに、日曜日は無断欠勤だって、頭ごなしに怒られました。真面目に仕事をして、企画書も出したのに、受け取ってもらえませんでした。酷いですよね。何度も面談してパワハラを訴えたのに、あたしが懲戒解雇されました。なんで、あたしだけこんな目に……」
 山田海は、大声で泣き始めた。もう3日間、この調子だ。バイト講師だった頃より、マイペースに拍車がかかっている。またここで雇ってもらいたいのだろうが、塾長は山田海を再雇用する気は一切ない。
 山田海劇場を目の当たりにして、朔人は亡くなった父のことを思い出した。父も、一度思い込むと暴走するタイプの人間だった。よくまあ私立高校の校長が務まったものだと、朔人は感心する。
「あたし、明日また老人ホームに行ってきます。こんな終わらせ方できません。労働基準監督署や弁護士も考えなくちゃ。じゃあ、またね。お邪魔しました」
 山田海は涙をたたえて学習塾を後にした。
「朔人くん、今日もごめんね。今日なんか、呼び出して急遽来てもらって」
 塾長が申し訳なさそうに朔人に謝る。
「毎日正午から21時まで居座るなんて、普通できないよ。次に来たら、がつんと言うけど、それでも続くようなら、警察に相談かな。まともに取り合ってもらえないと思うけど」
 ですね、と朔人は言いそうになった。
「本当に、ありがとう。今日は帰ってゆっくり休んでね」
「申し訳ありません。お先に失礼します。塾長も、しっかり休んで下さい」
「ありがとう。朔人くんみたいな優しさが、山田にもあったらなー」
 連日の山田海の対応に、塾長は疲れている。本音が出ていた。
 朔人が帰宅すると、エレキベースの練習をしていた礼音が心底驚いた顔をしていた。
「珍しいな、早く帰ってくるの」
 迷惑でしたか、と朔人は素で訊きそうになった。
「たまには早く食べよう! 俺、カレーつくったんだ!」
「あ……ありがとうございます!」
 急に塾長に呼ばれたから、夕飯の準備を忘れていた。まさか、彼が料理してくれたとは。
「……働くのは大変ですね」
「何? 急にどうしたの」
 朔人が礼音に軽く腕をまわすと、礼音は体を委ねてくれた。彼は一切、アルバイト先の愚痴をこぼさない。健気な彼が、朔人は愛おしくなる。