ビアンキを漕ぎながら思い出すのは、休憩時間にスマホを見ながら知ってしまった、痛ましい事実だ。なぜ彼が、あんな目に遭わなければならなかったのか、元凶となった人物が、腹立たしい。
 怒りというか、焦りというか、自分でもよくわからない感情の勢いで坂道を上り、すっかり自分の家と化した彼の家に着く。駐車スペースには、見知らぬ車があった。
「ただいまー……」
 恐る恐る声をかけて家の中に入ると、おかえり、と渋い声が答えた。礼音はビアンキを玄関に入れ、声のしたリビングに向かう。
「よお、おかえり」
「クリス・リヒト!?」
 炬燵にいたのは、映画監督のクリス・リヒトだ。栗須朔人と初めて会ったとき、この映画監督に名前が似ていると思ったが、それ以降はすっかり忘れていた。10年以上前に、年下の女優、真野千鶴と結婚し、一人息子がいるとテレビの情報で知った。
「初めまして、かな。朔人の叔父の、真野理比人(りひと)です」
「初めまして、ですよね……? 久世礼音です。住まわせて頂いて、感謝しかないです」
「感謝してるのは、俺の方だよ。手放すのがもったいなくて相続したけど住むあてのなかった家を使ってくれて、ありがたいよ」
「それは……」
「バイトに行ってたんだって? おつかれ。何か食うか?」
「え、いや、大丈夫です」
 写真やテレビでしか見たことがないクリス・リヒトが目の前にいることも衝撃的だが、それと同じくらい信じ難い光景に、視線が行ってしまう。朔人が男子を背中から抱っこして猫背で炬燵に入っているのだ。男子は小学校中学年くらい。炬燵のテーブルには、この辺りの店では扱っていないお洒落な洋菓子や、ティーカップが無造作に置かれている。お茶の途中のようだ。DVDプレイヤーが稼働し、テレビは映画を流しっぱなしだ。それも、「砂の器」。レポートを書くために見なくてはならない作品だ。
「こいつ、正論をぶっかましておいて、自分もダメージ食らったんだって? 相当疲れたみたい。俺の息子を抱き枕にして寝ちまったよ」
「放っといて良いんですか? 彼、教員志望らしいですよ」
「まあ、碧衣……俺の息子に対しては、昔からこうだから」
 お父さん良いんですか。理比人は随分甘い父親で、叔父だ。そもそも、礼音には父親とか親族の何たるかがわからない。
「ありがとな、朔人に関わってくれて。あいつ、昔から色々あって、人と関わるのを避ける子だったから、碧衣以外に受け入れられるような人がいて、叔父さん安心したよ」
「昔から、色々」
 ウェブで見た情報が、脳裏をよぎる。理比人は礼音のわずかな表情の変化を見逃さなかった。
「すみません。実は、ネット記事を見てしまいました」
 礼音は正直に、ウェブで見た記事のことを話した。
「それは事実だ。当時から公表されていたことだしな。でも、あれは表面的なことだけ。当事者にとっては、もっと根が深い問題で、どんな対応をしても防ぐことができなかった。今も朔人は、あの出来事を引きずって、苦しんでいる。俺も苦しいが、こいつはそれ以上に傷ついて、未だに癒えていないんだろうな」
 法事で帰省したという日、帰宅して荒れていた朔人を思い出した。彼は今も苦しんでいる。
「あんたは一緒に背負おうとしなくて良い。でも、朔人が話を聞いてほしそうだったら、耳を傾けてほしい。俺にとっては可愛い甥で、息子みたいなものなんだ。壊れてほしくない」
 礼音は、はい、とだけ返事をした。話を聞いてほしそうだったら耳を傾けてほしい、なんて言われなくてもわかっている。そんな生意気なことは、言えないが。
「そういえば、家賃や水道光熱費はどうやって叔父さんに渡せば良いですか?」
「そんなもん、要らないよ! この家を管理してもらっているんだ。むしろ、俺が謝礼を払いたいくらいだ」
「でも、俺はエレキベースをやっていて、アンプに使う電気代とか、甘えるわけにはいかないです」
「ベースやってんの!? 格好良いな」
(たしな)む程度ですが」
 老人ホームの職員やバンドメンバーと接しているうちに身に着けた語彙で綺麗に謙遜した。
 理比人は映画を停止する。
「親馬鹿で申し訳ないけど、少し碧衣に聴かせてやってくれないか? 楽器の生演奏を聴かせられる機会がなかなかないもんで」
「良いですよ、少しだけなら」
 この流れだと演奏せざるを得ないのは察していたが、理比人の頼み方は上手かった。子どもに生演奏を聴かせてあげたいと言われれば、断れないが嫌な気もしない。実際、子どもの頃から音楽の生演奏に触れる機会のある人は、なかなかいないだろう。礼音は自分の過去を思い出したくないが、音楽が身近になったことと自分から音楽を続ける気になったことは前向きに捉えている。
 碧衣は朔人に抱き締められて寝ている。礼音はベースとアンプを準備し、アンプをリビングのコンセントにつないだ。チューニングをしながら、いつも指慣らしに使うフレーズを奏でる。ぴょこっと、碧衣が顔を上げた。何となく朔人に似ている、綺麗な顔をした男子(ショタ)だ。目を輝かせ、礼音を見上げる。礼音が軽く一曲やると、碧衣は満面の笑みで拍手した。聴かせて良かったと思った矢先、碧衣は朔人に擦りついて、礼音を見上げてにやりと笑った。この男子(ショタ)め。近頃の子どもは、ませている。
 大喜びだった碧衣と裏腹に、理比人は腕組みをして難しい顔をした。
「……あんた、もしかして」
 声を潜めて言われたのは、礼音がこの地で隠していた事実だ。映画監督なら芸能界に詳しい。察知されてもおかしくなかった。
「……何かあったら、いや、何もなくても俺を頼ってくれ。この家の住人になってくれているんだから、俺にとってはあんたも家族だ」
「ありがとうございます、監督」
「ジジイで良いよ」
「ほんと、お世話になります……おじさん」
 結局、家賃や水道光熱費のことは有耶無耶にされた。理比人は碧衣に声をかけ、帰り支度をする。
「明日、碧衣は学校だから、帰るわ。朔人は寝かしてやってくれ」
 碧衣は朔人の腕から離れ、礼音の腕を掴む。力こそ強くないが、礼音は不意を突かれ、バランスを崩し、朔人にとびついてしまった。にやり、と碧衣が笑った。
「良いじゃん。碧衣のふりをして抱きついてやれ」
 理比人まで、調子に乗ってあんなことを言う。
 親子が帰ると、ふ、と朔人が笑みをこぼした。吐息が礼音の顔にかかる。くすぐったい。でも、少しだけ、このままでいたい。
「もう少し、碧衣くんに癒やされたかったのですが、あなたにしておきます」
 あろうことか、朔人は礼音の体に腕をまわしてくる。
「あんた、いつから起きていやがった!?」
「碧衣くんが逃げちゃったときですね」
「大丈夫か、性癖」
「大丈夫じゃないかもしれないです。あなたのお蔭で」
 彼の綺麗な顔が目の前にある。彼の指が、礼音の白髪染めのインナーカラーの髪を梳く。髪を梳く手が、礼音の頰に触れる。彼の唇が、礼音の鼻に近づく。礼音は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。
 俺はこの男と、どうにかなってしまいたい。
 顔を上げ、口づけを受け入れ、自分の気持ちを再確認した。
 俺は、この男が好きだ。