恐れていたことが起こった。
『礼音くん、今日出勤できたりする!?』
朝8時、礼音のスマートフォンに施設長から電話があった。
『山田さんが来ないんだよ! 早番の予定なのに! 山田さんのSNSを見たら、昨日から関西のテーマパークに行ってるみたい! 何度電話しても出ないし、他の職員に当たってみたけど、出勤できる人がいなくて……』
いつもは穏やかでゆったり話す施設長が、まくし立てていた。電話の向こうでは、少年少女の声がする。施設長は早くに奥さんを亡くし、中学生の息子と娘を育てているシンパパだ。事務所は土日当番制なので、施設長は基本的に土日は休日である。おそらく施設長は、出勤している介護職員から連絡を受け、自宅から他の職員とやりとりしている。
普段から日曜日に出勤できる職員が少なく、礼音も毎週日曜日出勤できると伝えているが、優しい施設長は礼音に無理をさせないように気を遣っていた。そんな施設長が、切羽詰まって礼音に助けを求めている。
「行って差し上げて」
施設長の声がスマートフォンから漏れ、朔人が反応した。
「人員配置が関わる業務と、遊びの予定、どちらが重要なのか、あなたはわかるでしょう」
わかるけど。礼音は反射的に、むっとしてしまった。朔人は泣きそうな表情をしていた。仰ることはわかるけど、あんたがそれを言うのか。そんな、泣きそうな顔で。
『夜勤者が退勤してから、次の夜勤者が出勤するまでの6時間……駄目、だよね? ごめんね。他の人を探すね。僕、今日は下の子の送迎で1日出られなくて……』
「あ、いえ……」
礼音に来てほしい時間帯は、10時から16時の6時間。農業高校のイベントには、行けそうにない。
「……行きます」
『本当にありがとう! 助かる! 山田さんは厳しく指導するから、今日はお願いします』
安心し切った施設長が、電話を切った。家の中が静まり返る。
「あの」
朔人が口を開く。
「厚かましいのは承知していますが、本当に、僕なんかの予定より、高齢者を
優先するのが筋かと……あなたが決めることなのに、口を出してしまって、申し訳ありません」
むっとした気持ちが、少しだけ萎んだ。彼は、理解しようとしてくれたんだ。礼音が何に腹を立てたのか、ということに対して。
「俺さ、楽しみにしてたんだよ」
「……はい」
彼の返事が、萎んで聞こえた。
「でも、山田さんのせいで台無しになった。今日はピンチヒッターになって、格好良く働いてくるよ。その代わり、我儘を言わせて。トマトの苗と美味しそうなパンがあったら、欲しい」
「……我儘なんかじゃないです。買ってきます」
少しだけ、彼の表情が和らいだ。せめて彼ひとりだけでも、行ってきてほしい。
ビアンキを全力で漕ぎ、アルバイト先の老人ホームに向かう。途中で、例の農業高校の前を通り過ぎ、満車の駐車場と化した校庭を目の当たりにしてイベントの規模に驚いた。これは、本当に、行ってみたかった。アルバイトが終わってもやっているだろうか。
「礼音くん、ありがとう! 本当に助かる!」
「おつかれさまです。申し送り、お願いします」
「はいよー」
寝不足でハイテンションな夜勤職員から申し送りを受け、礼音は夜勤帯の記録に目を落とす。おむつ対応の利用者様は、夜間用の大きなパッドを使ったため、夕方に夜勤入りした職員にパッド交換してもらうことになった。トイレ介助や移乗は、他のユニットの職員を呼んで行うこと。礼音ひとりでは絶対に行わないように。夜勤者から、口を酸っぱくして言われた。
「礼音くんがいると、穏やかでいられるわ」
介助の手伝いに来てくれた、他のユニットの職員が、大きく溜息をついた。
「山田さんがいると、いつも苛々しちゃうの。礼音くんは穏やかな子だから、安心して見守り業務を任せられるわ」
「でも、俺は見守り業務しかできませんし」
「完璧に見守り業務をしてもらえるから、安心できるの。これが山田さんだと、すぐに危ないことを始めるから、気が気じゃないわ。明日、山田さんが来たら、あたしからもきっちり指導するわ」
半分くらい山田海の悪口が入っているが、本音のようだ。
昼過ぎに施設長の息子が来て、「お父さんに頼まれたから」と、出勤の職員にシュークリームと煎餅の差し入れをしてくれた。施設長はかなり心配しているのだと、職員一同思ってしまった。
夜勤職員が出勤して、入れ替わりで礼音は退勤した。ビアンキで農業高校の前を通るころには、イベントは終了していた。
『礼音くん、今日出勤できたりする!?』
朝8時、礼音のスマートフォンに施設長から電話があった。
『山田さんが来ないんだよ! 早番の予定なのに! 山田さんのSNSを見たら、昨日から関西のテーマパークに行ってるみたい! 何度電話しても出ないし、他の職員に当たってみたけど、出勤できる人がいなくて……』
いつもは穏やかでゆったり話す施設長が、まくし立てていた。電話の向こうでは、少年少女の声がする。施設長は早くに奥さんを亡くし、中学生の息子と娘を育てているシンパパだ。事務所は土日当番制なので、施設長は基本的に土日は休日である。おそらく施設長は、出勤している介護職員から連絡を受け、自宅から他の職員とやりとりしている。
普段から日曜日に出勤できる職員が少なく、礼音も毎週日曜日出勤できると伝えているが、優しい施設長は礼音に無理をさせないように気を遣っていた。そんな施設長が、切羽詰まって礼音に助けを求めている。
「行って差し上げて」
施設長の声がスマートフォンから漏れ、朔人が反応した。
「人員配置が関わる業務と、遊びの予定、どちらが重要なのか、あなたはわかるでしょう」
わかるけど。礼音は反射的に、むっとしてしまった。朔人は泣きそうな表情をしていた。仰ることはわかるけど、あんたがそれを言うのか。そんな、泣きそうな顔で。
『夜勤者が退勤してから、次の夜勤者が出勤するまでの6時間……駄目、だよね? ごめんね。他の人を探すね。僕、今日は下の子の送迎で1日出られなくて……』
「あ、いえ……」
礼音に来てほしい時間帯は、10時から16時の6時間。農業高校のイベントには、行けそうにない。
「……行きます」
『本当にありがとう! 助かる! 山田さんは厳しく指導するから、今日はお願いします』
安心し切った施設長が、電話を切った。家の中が静まり返る。
「あの」
朔人が口を開く。
「厚かましいのは承知していますが、本当に、僕なんかの予定より、高齢者を
優先するのが筋かと……あなたが決めることなのに、口を出してしまって、申し訳ありません」
むっとした気持ちが、少しだけ萎んだ。彼は、理解しようとしてくれたんだ。礼音が何に腹を立てたのか、ということに対して。
「俺さ、楽しみにしてたんだよ」
「……はい」
彼の返事が、萎んで聞こえた。
「でも、山田さんのせいで台無しになった。今日はピンチヒッターになって、格好良く働いてくるよ。その代わり、我儘を言わせて。トマトの苗と美味しそうなパンがあったら、欲しい」
「……我儘なんかじゃないです。買ってきます」
少しだけ、彼の表情が和らいだ。せめて彼ひとりだけでも、行ってきてほしい。
ビアンキを全力で漕ぎ、アルバイト先の老人ホームに向かう。途中で、例の農業高校の前を通り過ぎ、満車の駐車場と化した校庭を目の当たりにしてイベントの規模に驚いた。これは、本当に、行ってみたかった。アルバイトが終わってもやっているだろうか。
「礼音くん、ありがとう! 本当に助かる!」
「おつかれさまです。申し送り、お願いします」
「はいよー」
寝不足でハイテンションな夜勤職員から申し送りを受け、礼音は夜勤帯の記録に目を落とす。おむつ対応の利用者様は、夜間用の大きなパッドを使ったため、夕方に夜勤入りした職員にパッド交換してもらうことになった。トイレ介助や移乗は、他のユニットの職員を呼んで行うこと。礼音ひとりでは絶対に行わないように。夜勤者から、口を酸っぱくして言われた。
「礼音くんがいると、穏やかでいられるわ」
介助の手伝いに来てくれた、他のユニットの職員が、大きく溜息をついた。
「山田さんがいると、いつも苛々しちゃうの。礼音くんは穏やかな子だから、安心して見守り業務を任せられるわ」
「でも、俺は見守り業務しかできませんし」
「完璧に見守り業務をしてもらえるから、安心できるの。これが山田さんだと、すぐに危ないことを始めるから、気が気じゃないわ。明日、山田さんが来たら、あたしからもきっちり指導するわ」
半分くらい山田海の悪口が入っているが、本音のようだ。
昼過ぎに施設長の息子が来て、「お父さんに頼まれたから」と、出勤の職員にシュークリームと煎餅の差し入れをしてくれた。施設長はかなり心配しているのだと、職員一同思ってしまった。
夜勤職員が出勤して、入れ替わりで礼音は退勤した。ビアンキで農業高校の前を通るころには、イベントは終了していた。

