彼にとって、自分は何なのだろう。自分にとって、彼は何なのだろう。友人だと言ったら、距離を置かれてしまうだろうか。家主か、同居人が妥当なのだろうか。家族なんて言ったら、殺される。
 綺麗な寝顔が、目の前にある。また昨夜も、不安に押し潰されそうな表情をする彼の隣で就寝した。隣にいるのが栗須朔人だというだけで、罪なことをしている気分になる。これが朔人ではなく、昼食を摂るグループのメンバーや、強矢剛生だったら、不安そうだからという理由だけで添い寝なんか、しない。相手が朔人だから、弱っているところを放っておけないのだ。
 彼が弱るたびに隣で寝る夜が増えると、気がどうにかなって一線を越えてしまうのではないか、そんなおそれを感じつつある。
「もう目が覚めてしまいましたか」
 綺麗な顔が、間近にある。
「おはようございます」
「おはよ……ございます」
 礼音は、自分の顔が熱くなるのが、わかった。これではまるで、昨日の剛生ではないか。顔をそむけようとしたが、近くに肘をついて覗き込まれる。
「今日は大学に行く日でしたっけ」
「そう、です」
 この体勢で今日の予定を聞くのかよ。やめてくれ。一線を越えてしまっても、おかしくない。
「僕もです。1限から3限まで。夜は、アルバイト」
「俺は、2限まで、です。午後からバイト」
 無理無理無理。平静を装うなんて、無理。
「明日は、空いていますか?」
「空いてる、けど」
「一緒に出かけませんか?」
「な!!」
 突然のお誘いに、心臓がパンクしそうだ。
「市内の農業高校で、苗の販売会があるんです。パンや焼菓子の販売もあるそうですよ。昨年行ってみたのですが、研究発表もあって、ちょっとした文化祭みたいでした」
 まるでデートではないか、と早とちりしたが、内容は面白そうだ。
「行ってみたい、かも」
「決まりですね」
 彼は微笑み、礼音にのしかかってきた。寝間着の胸に擦り寄り、柔らかい焦げ茶色の髪をこすりつける。彼には、こんな一面もあったのか。礼音以外に誰も知らない、美しき彼の小動物のような無邪気な一面が。彼の髪を指で梳き、礼音は自分の心が決まるのを確信した。


 2限を終え、礼音は学内の食堂へ向かった。いつものメンバーは、今期の土曜日は来ていない。ひとりで天ぷらそばを食べながら、朔人はどこで弁当を食べているのか気になった。朔人は弁当派で、毎朝弁当をつくる。あなたの分もつくりましょうか、と提案されたことがあるが、礼音が首肯する前に提案した本人から断られた。あなたの付き合いもあるでしょう、と。急に礼音が弁当を持参し始めたら、周囲はざわつき、彼女ができたのかと詮索し始めるだろう。そんな騒ぎは起こしたくない。
 アルバイトの前に、一度帰宅し、アルバイト先で着る服を準備する。礼音のアルバイト先は、大学生が働くには世間的にもかなり珍しいだろう。礼音は2年次の春から、市内の老人ホームで介護のアルバイトをしている。大学では社会福祉士の勉強をしているが、その前に福祉の現場を見ておきたかった。大学受験のときに、志望校を決めるのと同時に、大学に進学したら介護職員初任者研修を受けることも視野に入れていた。介護現場が学生アルバイトを採用することは極めてあり得ないことは肌感覚でわかっている。それでも、初任者研修は履歴書に書けるし、介護現場としては職員の人員配置につながるため、志望動機をかなり練って何件も面接の申し出をした。礼音を採用してくれたのは、バンドメンバーが何度もボランティアで演奏会を開催していた老人ホームだった。結局は縁故採用だったが、バンドメンバーは以前から施設長に礼音の話をしており、そんなに良い子が卒業後にうちに来てくれたらな、と施設長はぼやいていたらしい。施設長としても、礼音は「棚からぼたもち」的な人材だった。
 老人ホームのアルバイトは、たいてい14時から18時の4時間。フルタイム日勤の半分の時間である。掃除やシーツ交換、記録の記入、配膳、自立度の高い利用者様の歩行付き添いが礼音の主な仕事で、介護事故と隣り合わせになるような介助は禁止されている。礼音はまだ学生だから。できることに制限はあるが、仕事は最大限取り組んでいるつもりだ。
 礼音は出勤の打刻をしてから、ロッカールームで仕事着にしているポロシャツとコットンのストレートパンツに着替え、担当しているユニットに入った。
「おつかれさまです。よろしくお願いします」
「お、礼音くん。よろしく。やっぱり、礼音くんは癒やしだわ」
 白髪染めにインナーカラーを奨めてくれたパートのおばちゃんが、心底安堵し切ったように溜息をついた。
「何かあったんですか?」
「久々に何もないのよ。先月まではこんな感じだったのに、今月はずっと嵐のようだったでしょう。ほら、山田さんが来てから」
「山田さん、か」
 礼音も溜息が出てしまった。4月になってこの3週間、職員の目下の悩みは、この春から社会人になった新入職員だ。山田(まりん)という女性職員は、明るくてポジティブだが、指導に困る職員だった。
 山田海は、大学で教員免許を取得したが、教員採用試験に合格できず、この老人ホームに介護職員として入職した。面接のときは第一印象が良く、施設長も事務長も疑いの目を向けず内定を出してしまった。
 勤務初日。出勤して1時間後に、山田海は利用者様の前で嘔吐した。理由は、高齢者の飲み食いする姿が気持ち悪かったから。とても勤務できる状態ではないと判断され、すぐに山田海は退勤させられた。翌日はすっかり回復して出勤したが、食事の配膳はせず、シーツ交換を教えて実践してもらおうとしても「今日は見学です」の一点張りでシーツを持とうともしなかった。認知症状のある利用者様と話そうともせず、理由を聞くと「話が通じないんだもん。話が通じない人とは関わることないって、こないだ読んだ本に書いてありました」と頬を膨らませた。
 最初の1週間は土日休みで日勤をやってもらい、翌週から早番や遅番が予定されていたが、早番は遅刻し、遅番は勝手に早退した。「早起きなんて無理です。遅く退勤したら、飲み会に間に合わなくなっちゃう」というのが山田海の言い訳だった。そんな山田海は、一方的に礼音を敵視していた。アルバイトなのに信用されているのが気に入らないらしい。土曜日の今日は休日の予定で、実際に出勤していない。明日は、初めての日曜日の出勤の予定である。
「礼音くんが正社員だったら、どんなに助かるか」
「いやいや」
 頼りにされているのだろうけど、礼音は謙遜した。まずは、山田海に頑張ってもらわないと、ならない。明日の予定を心待ちにしながら、今日も仕事に取り組む。