朔人がアルバイト先で独活をもらってきた日のことだった。
駅前の学習塾で事務職のアルバイトをしている朔人は、自家用車を運転して片道10分の自宅に帰った。自宅といっても、叔父が相続した家を、大学在学期間に朔人が管理の名目で使わせてもらっているだけだ。叔父は普段は、東京にマンションを買い、そこを拠点に生活している。叔父が相続した家に住むようになり、今日で満2年。家の中も庭も、完全に朔人の仕様になった。
この市は駅前こそ栄えているが、駅を離れればすぐに背の低い建物と広い道路という田舎特有の街並みになり、朔人の家は山に入りかけた坂道の途中で、鬱蒼と木が生い茂る。22時を過ぎた今など、土地全体が眠りに就いたように暗く静まり返っている。
朔人が自宅の駐車スペースに車を駐めて降りると、外灯をつけておいた玄関前にうずくまる人影を見つけた。その人は、朔人に気づくと顔を上げ、玄関前のタイルに正座した。
「高溪大学、人間社会学部、社会福祉学科の久世礼音といいます。お願いします、何日か泊めて下さい!」
高溪大学は、朔人も在籍している大学だ。朔人は人間文化学部、日本文学科である。学科が違うこの久世礼音という男とは、接点がないはずだ。
「ドッキリじゃないです! 詐欺でもないです! これ、学生証!」
礼音が見せてくれた学生証は、確かに本人のものだった。大学も学部学科も自己申告通り。朔人と同じ学年で、この春で3年生になる。顔写真は、高校卒業時のものらしく、写真の方が若干幼く髪が短い。
「アパートの契約が明日で切れちゃうんです! 明日から次の部屋が見つかるまで、泊めて下さい!」
朔人は迷いに迷い、隠しカメラでもないか視線を巡らせてしまう。玄関前には、ミントグリーンのスポーツタイプの自転車と、大き過ぎるギターケースが立てかけられている。礼音という男は自分とは違うタイプの人間だと、朔人は自虐してしまう。と同時に、ギターケースを背負って自転車でこの坂道を上ってきたであろう礼音をこのまま帰らせるのが気の毒になってしまった。
「……何日か、ですよ」
朔人は礼音の脇を抜けて玄関を解錠し、振り返った。庭の桜が何輪か綻んでいるのが見えた。
「じゃあ、また明日来ます」
礼音が立ち上がる。朔人は彼の腕を掴んで止めた。
「泊まっていったらどうですか? ここは駅前でありません。この時間、この辺りはもう、真夜中同然です。僕としても、こんな危ない時間にお客様を帰らせるわけにはゆきませんから」
礼音が無言で朔人を見上げる。朔人は身長が高い訳では無いが、礼音は意外にも、小柄だった。
「いや、でも、申し訳ないし」
「こんな暗い中で事故にでも遭ったら、元も子もないでしょう。そのギターも自転車も、あなた自身も、何があってからでは遅いです」
こんな夜更けに礼音を帰らせるわけにはゆかない一心で、朔人は言葉を選びながら説得を試みる。よくよく見ると、礼音は丸顔で、おばちゃん受けしそうな大人しい顔立ちをしている。黒髪の襟足は長いが、サイドの髪は伸ばしていない。メッシュを入れているのを見つけ、朔人は礼音をちょっと苦手だと思ってしまった。親しくない者の家を訪ねるフットワークの軽さ、お洒落な自転車、ギターケース、メッシュ……陽キャ要素しかない。
「とにかく、入って下さい! 夕飯を用意しますから!」
「ちょっと待って! ビアンキも入れたいんだけど!」
「わかりました! 入って!」
自転車を抱えた礼音を、朔人は玄関に入れた。
駅前の学習塾で事務職のアルバイトをしている朔人は、自家用車を運転して片道10分の自宅に帰った。自宅といっても、叔父が相続した家を、大学在学期間に朔人が管理の名目で使わせてもらっているだけだ。叔父は普段は、東京にマンションを買い、そこを拠点に生活している。叔父が相続した家に住むようになり、今日で満2年。家の中も庭も、完全に朔人の仕様になった。
この市は駅前こそ栄えているが、駅を離れればすぐに背の低い建物と広い道路という田舎特有の街並みになり、朔人の家は山に入りかけた坂道の途中で、鬱蒼と木が生い茂る。22時を過ぎた今など、土地全体が眠りに就いたように暗く静まり返っている。
朔人が自宅の駐車スペースに車を駐めて降りると、外灯をつけておいた玄関前にうずくまる人影を見つけた。その人は、朔人に気づくと顔を上げ、玄関前のタイルに正座した。
「高溪大学、人間社会学部、社会福祉学科の久世礼音といいます。お願いします、何日か泊めて下さい!」
高溪大学は、朔人も在籍している大学だ。朔人は人間文化学部、日本文学科である。学科が違うこの久世礼音という男とは、接点がないはずだ。
「ドッキリじゃないです! 詐欺でもないです! これ、学生証!」
礼音が見せてくれた学生証は、確かに本人のものだった。大学も学部学科も自己申告通り。朔人と同じ学年で、この春で3年生になる。顔写真は、高校卒業時のものらしく、写真の方が若干幼く髪が短い。
「アパートの契約が明日で切れちゃうんです! 明日から次の部屋が見つかるまで、泊めて下さい!」
朔人は迷いに迷い、隠しカメラでもないか視線を巡らせてしまう。玄関前には、ミントグリーンのスポーツタイプの自転車と、大き過ぎるギターケースが立てかけられている。礼音という男は自分とは違うタイプの人間だと、朔人は自虐してしまう。と同時に、ギターケースを背負って自転車でこの坂道を上ってきたであろう礼音をこのまま帰らせるのが気の毒になってしまった。
「……何日か、ですよ」
朔人は礼音の脇を抜けて玄関を解錠し、振り返った。庭の桜が何輪か綻んでいるのが見えた。
「じゃあ、また明日来ます」
礼音が立ち上がる。朔人は彼の腕を掴んで止めた。
「泊まっていったらどうですか? ここは駅前でありません。この時間、この辺りはもう、真夜中同然です。僕としても、こんな危ない時間にお客様を帰らせるわけにはゆきませんから」
礼音が無言で朔人を見上げる。朔人は身長が高い訳では無いが、礼音は意外にも、小柄だった。
「いや、でも、申し訳ないし」
「こんな暗い中で事故にでも遭ったら、元も子もないでしょう。そのギターも自転車も、あなた自身も、何があってからでは遅いです」
こんな夜更けに礼音を帰らせるわけにはゆかない一心で、朔人は言葉を選びながら説得を試みる。よくよく見ると、礼音は丸顔で、おばちゃん受けしそうな大人しい顔立ちをしている。黒髪の襟足は長いが、サイドの髪は伸ばしていない。メッシュを入れているのを見つけ、朔人は礼音をちょっと苦手だと思ってしまった。親しくない者の家を訪ねるフットワークの軽さ、お洒落な自転車、ギターケース、メッシュ……陽キャ要素しかない。
「とにかく、入って下さい! 夕飯を用意しますから!」
「ちょっと待って! ビアンキも入れたいんだけど!」
「わかりました! 入って!」
自転車を抱えた礼音を、朔人は玄関に入れた。

