キーンコーンと昼休みのチャイムが鳴る。
 俺はチャイムが鳴った途端、席を立った。カバンの中から財布を取り出していると、前の席の吾妻が後ろを振り返った。

「朝陽は今日も学食?」
「そう。だからちょっとダッシュで行くわ」
「おっけー」

 吾妻がヒラヒラと手を振る。俺も軽く手をあげると、教室のドアを開けて、学食へと急いだ。
 ここのところ、昼食は弁当をやめ、学食通いになっている。


 ──真が家に遊びに来た日の夜。

 父さんと母さんが帰ってきて、母さんが夕飯の準備をしていたとき、包丁で指をざっくりと切ってしまった。
 翌日、朝イチで病院に行ったところ、指はガーゼと包帯でグルグル巻きにされて帰ってきた。
 傷が治るまでは水に濡らさないようにと、医者から言われたらしい。

 朝ごはんは、トーストや目玉焼き程度なら自分でもできる。
 夕飯も、少し寒くなってきたから、温かい鍋にすれば、手間もかからないし、特に問題はなかった。
 しかし、お弁当となると、おかずを何種類も詰めたり、おにぎりを握ったり──怪我した指にはどれも負担がかかる。

 どれくらいで包帯が取れるようになるのかわからないが、母さんの負担を減らすという方向に決まった現在、俺の昼飯はコンビニでパンや弁当を買うか、学食を食べるかの二択になっていた。

 真と顔を合わせづらかった俺は、それを口実にして学食へ通うことを選んだ。
 激戦区となっているあの場所で、弁当持参で席を取ろうものなら、周囲から睨まれることは間違いない。だから、ふたりが俺についてくることはなかった。真には申し訳ない気持ちもあったが、今は自分の心の整理をしたくて距離を取らせてもらった。

 あの日から、俺はずっと一歩引いた場所にいる。
 気づけば、そんな日々が二週間も続いていた。


「おばちゃーん!ラーメンひとつ!」
「あいよっ!」

 大声でラーメンを注文する。食堂のおばちゃんの、明るい声が返ってきた。
 おばちゃんから番号札を受け取った俺は、受取口のほうへと移動する。

 そういえば、ここで困っていた真を助けたのが始まりだったんだよな。

(…………)

 真は、たぶん……俺が避けていることに気づいてる。
 あいつの昼飯は、コンビニで買ったパンやサンドイッチが多い。俺が食堂に通い出したのなら、真も「行く」って言ってもおかしくないんだ。優しいやつだから、何かを感じ取って、そっとしておいてくれているのだと思う。

 出来上がったラーメンのトレイを受け取る。俺は空いている席を探した。すでに席は満員だ。席を立ったと思えば、すぐにその席は埋まってしまう。ウロウロとして、ようやく席に座れた頃には、ラーメンは伸びきっていた。

(……まっず)

 スープを吸い、柔らかくなりすぎた麺を啜る。コシも何もないこの麺は、まるで今の俺そのものだ。
 頼りなくて、情けなくて……いつまでもウジウジとしている自分に反吐が出る。
 写真立ての中にいる兄貴にすら、八つ当たりしそうになった。
 生きていたら、文句の一つも言えたのに──なんて、言いそうになってしまった。そんな自分に向かって「馬鹿野郎」と叱咤を飛ばす。兄貴だってきっと死にたくなんてなかったはずだ。

 ──自己嫌悪。

 一つ何かを考えれば、また一つ嫌なことが頭に浮かんで、それがぐるぐると自分の身体の中を巡る。
 ズボンの中が震える。俺はスマホを取り出した。メッセージの主は吾妻。俺が真を避けていることに気づいたのか、とっくの昔に気づいていてしびれを切らしたのか、『どうした? 話聞こうか?』とグループじゃなく、俺宛てに個別で届いたメッセージだった。

 はぁ、とため息を吐く。柔らかくなりすぎた麺を全部腹の中に収めると、俺は席を立った。トレイを返却口に持っていくと、学食の外に出る。上履きのまま渡り廊下から中庭に出た。すぐ近くにあるベンチに座って、今にも雨が降り出しそうな空を眺める。

(男らしくねぇなぁ……)

 もういっそのこと、全部、真にぶちまけてしまおうか。
 俺が真を好きなこと。真が好きなのは自分の兄であること。兄の配信チャンネルで、俺が『コウ』のフリをして、配信を続けていること。

(どんな顔するかな……? 好きな人がすでに死んでいることに悲しむ? それとも、俺が兄貴のフリをしていたことに怒る?)

 配信を休んで二週間が経ち、あと数日もすれば三週間目に突入する。
『コウ』とフレンドのリスナーからは、『どうした?』と心配するメッセージもチラホラと届いていた。このままでは、コウとして配信を続けることもできない……。

 俺は自分の両頬をパンッと強く叩く。
 ポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。

『話がしたい。放課後、ちょっと時間ある?』

 真に向けたメッセージ。あとは送信するだけ。
 親指が震える。もしかすると、これが俺たちの関係をゼロに戻す一歩になるかもしれないと考えると、なかなか指が動かなかった。

(男らしくねぇなぁ……)

 頭を抱えて、地面を見つめる。俺の足と足の間を小さなアリが一匹歩いていた。
 ポツ──頭に何かが当たった感触がある。さらにポツリと当たった。今度は手だ。

 雨が降り始め、次第に空から降ってくる雨粒の間隔が短くなっていく。俺も濡れないうちにベンチから立ち上がって、屋根のある渡り廊下へと戻った。
 昼休みのチャイムが鳴るまで、俺は渡り廊下の柱に寄りかかり、手の中にあるスマホをずっと眺めていたのだった。