ピピピ、とスマホが鳴る。
 俺はスマホに手を伸ばすと、アラームを止めた。薄目を開けて時間を確認すると、画面に表示されていた時刻は、八時だった。

 今日は土曜日。真が家に遊びに来る日だ。
 俺はガバッと布団をはいで、まだ微睡んでいたい空間から、なんとか抜け出す。
 本棚で微笑んでいる兄貴に向かって「おはよう」と声をかけると、部屋のカーテンを開けた。背伸びをしながら、空を見上げる。青空は見えず、どんよりとした雲が広がっていた。

 部屋を出て、リビングのドアを開く。「母さん」と声をかけたが、部屋はシン……と静まり返っていた。食卓テーブルの上には、ラップに包まれたおかずとおにぎりのお皿、その下にメモが添えられていた。
 俺はそのメモを手に取り、書かれた内容を読む。メモをテーブルに置くと、冷蔵庫を開けペットボトルの水を取り出した。食器棚からコップも取ってテーブルに戻りる。ラップを外して、俺は朝食を食べ始めた。

(母さんたちはもう出かけたのか。早いな……)

 テーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばし、テレビをつける。
 適当な情報番組をBGMにしながら、俺はポケットのスマホを取り出した。普段なら「食事中にスマホを触るなんて!」と母さんに怒られる案件だが、今日は誰もいない。たまにはいいだろう。

 スマホを開くと、吾妻と真と俺の三人で作ったグループSNSに、新着のメッセージが届いていた。
 メッセージの送り主は吾妻。『合コンの服はこれで行こうと思うけど、どう?』といった内容だった。

 鮮やかな赤色のシャツが目をひく。
 吾妻という明るいキャラクターにはピッタリだと思った俺は『いいんじゃね?』と返した。すると、すぐに既読がついて、真から『吾妻に似合ってるよ』というメッセージが届く。

 真──二時間後には会う相手の名前を見て、うっと息が詰まる。

 俺は急ぎ朝食を食べ終えた。シンクにお皿を下げ、軽く洗い、テーブルの上をウエットティッシュで拭くとテレビを消して、自分の部屋に戻る。
 窓を開け、床に積みっぱなしだった漫画本を本棚に戻した。学習机の上やベッド周りを整え、掃除機を掛けた後は、スプレータイプの消臭剤を撒く。

(いくらなんでも、浮かれすぎだろ……俺……!)

 いそいそと掃除をして、ピカピカになった部屋を見た俺は、何をやっているんだと頭を抱えた。
 初めてできた彼女が家に遊びに来るのを待つ中学男子か!? と、思わず自分にツッコミを入れずにいられない。
 右手で自分の顔を覆う。……手のひらに伝わる熱は熱かった。

 スマホで時計を確認すると、あと少しで九時といったところだった。
 駅前まで迎えに行くにはまだ早すぎるが、それまでになんとか、この熱を落ち着けなければならない。

「……シャワーでも浴びるか」

 滝行もどきで頭を冷やそう。そう考えた俺は、着替えを手に取った。

『──合コンの服はこれで行こうと思うけど、どう?』

 吾妻のメッセージがふと脳裏によぎる。手に取ったTシャツを、無意識に広げていた。特に何の変哲もない黒いTシャツだ。いつもの俺であれば、この上にパーカーを着て終わる。

「…………」

 クローゼットの中を開ける。他にちょっと見栄えのいい服はあっただろうか?
 カチャカチャとハンガーを動かし、一枚一枚服を再チェックする。

(いやいや、家で遊ぶのに気合いを入れるのもどうなんだ?)

 ハタッとそのことに気づいて、服を選ぶ手が止まった。
 ああ、やっぱり浮ついている。そう思った俺は、黒いTシャツと下着を持って、急ぎ階段を駆け下りて、浴室に入った。

 **

「おじゃましまーす」
「真は先に上に行ってて。俺の部屋は覚えてる……よな?」
「うん。大丈夫」
「飲み物持ってくるけど、何がいい? ラインナップは前回と同じ」
「それじゃあ、ブラックコーヒーお願いしてもいい?」
「おっけー。わかった」

 真が階段を上っていく。俺はキッチンへ向かい、飲み物を準備した。真にはブラックコーヒー、俺はカフェオレ。マグカップを両手に持って階段を上る。
 部屋の前で「開けて」と声をかけると、真がドアを開けてくれた。
 整えられた部屋に足を踏み入れ、「どうぞ」と言ってマグカップをテーブルに置く。
「ありがと」と真が言い、それに手を伸ばして口をつける。俺もそれにならって、カフェオレをひと口飲んだ。


 俺は滝行もどきという名のシャワーを浴びたあと、着替えて、家を出た。
 九時五十分。モニュメントの前で立って真を待っていると、「あのーすいません」と見知らぬ女性から声をかけられた。どうやら道に迷ったらしい。話を聞くと、どうやら彼女は駅の出口を間違えたようだった。出口を間違えている──そのことを説明していると、真がやってきた。

「朝陽~! おはよう~! ……って、どうしたの?」
「ああ、おはよう。いや、どうやら道に迷ってるみたいだったから、それを教えてたところ」
「ふ~ん……そうなんだ?」

 真が女の人のほうを見る。すると、彼女はビクッと身体を揺らした。
 慌てたように「ありがとうございました」と言うと、小走りに去って行く。
 俺は彼女のうしろ姿を首をかしげながら眺める。すると、真がいつもの優し気な声色から一変して、わずかに低い声を出した。

「……ったく、油断も隙もないなぁ。朝陽はもうちょっと気をつけて?」
「お、おう?」

 わけもわからないまま、そう返事をする。真が歩き始めたので、俺はその背中を追いかけた。
 うちに向かって歩いてる途中で、実はあの女の人、ナンパだったらしいと真に教えてもらった。

「……わかんなかった。ナンパって……マジ?」
「マジ。だって道に迷ったっていうなら、駅が目の前にあるんだから、駅員さんに聞いたほうが確実じゃない? たぶん、オレが来なかったら、『よかったら案内してもらえませんか?』って言われてたと思うよ」

 真がナンパされるっていうのならわかる。けど、まさか自分がされる側になると思ってなくて、まったく疑いもしなかった。歩きながらそのことを真に伝えると、呆れ顔と深いため息が返ってきた。

「朝陽って自分のことわかってなさすぎ。高身長で顔つきは男らしく、声も低くてかっこいい。女子からすると、自分のこと守ってくれそう……って雰囲気がめちゃくちゃ出てるんだよ?」
「……そう、なのか?」
「そうだよ」

 そんなこと初めて聞いた。パチパチとまばたきを繰り返す。真はまた深いため息を吐いた。ボソボソと何か喋っていたけれど、俺は聞き取れなかった。

「え? なに? もっかい言って?」
「こっちの独り言だから気にしないで。あーあ! 朝陽にモテ期が来ちゃいそうだよな~!」

 真が両手を上げ、背伸びをするような仕草で歩き出す。
 そのとき、なんとなく後ろを振り返った俺の視界に、一台のバイクがこちらへ向かってくるのが映った。

 前を向くと、真の手は下ろされかけていて、左手が道路側にはみ出していた。
 危ない——そう思った俺は、とっさに真の肩を掴み、自分のほうへ引き寄せる──直後、バイクが俺たちのすぐ脇をすり抜けていった。
 俺はほっと息をついて、真の肩からそっと手を離した。

「悪い。バイク来てたから」
「…………」
「真? どうした?」
「そういうとこ! 朝陽の、そういうとこがさあ……もう、ずるい!」

 真が突然わけのわからない言葉を発する。「ああああ」と言うと両手で顔を覆って、今度は天を仰ぎだした。ブツブツと「学食のときも……」とか何とか言っている。俺のそういうとこって、何だろう?

 そんな会話を交わしながら、ようやく家に到着する。俺の部屋に入って、温かい飲み物でまず一息ついた。

「さてと、真さん? 今日はお前にホラーゲーム、やってもらうからな?」

 俺はノートパソコンを取り出し、起動させ、ゲームを立ち上げた。

「ほほう? 受けて立ちましょう」

 真はそう言って不敵な笑みを浮かべる。

 俺は昨晩、真が家に来たあと、何をするのかずっと考えていた。そうして導き出した答えは、『ホラーゲームをやってもらう』ことだった。前回は俺だけがプレイして、真はやっていなかった。だから、ちょうどいいと思った。

(け、決して、涙目になった真の顔が見たいとか、困ってしがみつかれるのを期待してるとか、そんなこと考えてないんだからな……!)

 誰にも何も聞かれていないのに、心の中で言い訳する。
 真がゲームスタートボタンを押す。俺はちょっとだけドキドキしながら、真の横顔を見守った。

 ──数分後。

 真のスーパープレイを目の当たりにし、自分の目論見が外れて、俺が涙目を浮かべることになったのは言うまでもないのだった