最初に変化を感じたのは、心臓の鼓動だった。
 いつもより遅く、でも力強く響く鼓動。それに合わせるように、周囲の時間の流れがゆっくりになっていく。
 黒いスーツの男たちの動きが、まるでスローモーションの映画のように見える。装置から放射される電磁波も、目に見える波長となって、ゆっくりと僕たちに向かってくる。
「これが——」
 山田さんが驚嘆の声を上げる。
「時間操作」
 僕が答える。
 でも力の制御は想像以上に困難だった。少し意識を緩めると時間の流れが元に戻り、集中しすぎると今度は時間が完全に停止してしまいそうになる。
『落ち着け』
 頭の中で未来の僕の声が聞こえる。
『力に振り回されるな。君が時間をコントロールするんだ』
 僕は深呼吸する。そして仲間たちと手を繋ぎ直す。
 三十人の意識が一つになった瞬間、時間の流れが安定した。遅くもなく、速くもなく、でも確実に僕たちの意志の下にある時間。
「今だ」
 僕が叫ぶ。
 僕たちは一斉に動いた。スローモーションの世界の中で、僕たちだけが通常の速度で行動できる。
 男たちの間を縫うように走り抜け、装置に近づく。
「この装置を破壊すれば——」
 鈴木が装置のパネルに手を伸ばす。
 でもそのとき、装置から新たな電磁波が放射された。今度は記憶の抽出ではなく、時間操作の妨害を目的とした波長だった。
 僕たちの時間制御が乱れる。世界の時間の流れが不規則になり、一秒ごとに早くなったり遅くなったりする。
「うわあ!」
 何人かの生徒が体勢を崩す。
 男たちが通常の速度で動き始める。
「時間操作妨害装置、作動中」
 リーダーが機械的に報告する。
「対象の異常能力を無力化した」
 僕たちは劣勢に追い込まれた。時間操作が使えなければ、僕たちはただの中学生だ。
 でもそのとき、山田さんが立ち上がった。
「みんな、私に集中して」
 彼女が叫ぶ。
 彼女の瞳が光っている。未来視の能力が発動したのだ。
「三秒後、左の装置が火花を散らす」
 山田さんの予言通り、三秒後に装置の一部から火花が散った。
「七秒後、リーダーが転ぶ」
 予言通り、リーダーが配線に足を引っかけて転倒する。
「十二秒後、天井の照明が落ちる」
 照明器具が軋んだ音を立てて落下する。
 山田さんの未来視は完璧だった。そして僕たちはその予知を利用して、男たちの攻撃を回避していく。
「馬鹿な」
 リーダーが困惑する。
「未来予知など不可能なはずだ」
 でも山田さんの能力はそれだけではなかった。
「みんな、私の言う通りに動いて」
 彼女が指示を出す。
「田中君は右に三歩、鈴木君は装置の後ろに回って、佐々木君は——」
 僕たちは山田さんの指示に従って行動する。まるで綿密に計算されたダンスのように、完璧なタイミングで動く。
 そして気づく。山田さんは単に未来を見ているだけではない。最適な未来を選択して、僕たちをその未来に導いているのだ。
「これって——」
「可能性操作」
 山田さんが説明する。
「無数にある未来の可能性の中から、最も都合の良いものを選んで実現させる能力」
 なんて恐ろしい能力だろう。未来そのものを書き換える力。
 でも男たちも黙っていない。新しい装置を持ち込んできた。
「可能性固定装置」
 リーダーが宣言する。
「未来の分岐を強制的に一つに固定する」
 装置が作動すると、山田さんの表情が青ざめた。
「見えない」
 彼女が震え声で言う。
「未来が一つしか見えない」
 固定された未来——それは僕たちが捕らえられ、記憶を抽出される未来だった。
「どうする?」
 鈴木が焦る。
 僕は必死に考える。時間操作は妨害されている。未来操作も封じられた。もう手段は残されていないのか。
 でもそのとき、思い出した。時間の狭間で未来の僕が言った言葉。
『君たちの記憶は、時間そのものと結びついている』
 記憶——そうだ。僕たちの本当の力は記憶にある。
「みんな!」
 僕が叫ぶ。
「記憶の欠片を集めて!」
 生徒たちが一斉に記憶の欠片を取り出す。数百個の光る玉が、体育館の空中に浮かび上がる。
「なにをしているんだ?」
 リーダーが警戒する。
 僕は記憶の欠片の一つに触れる。昨日の夕食の記憶。母と一緒に食べた、温かい家庭料理の記憶。
 でも今度は記憶を体内に戻すのではなく、外に向けて投射した。
 記憶の欠片が光の矢となって、装置に向かって飛んでいく。そして装置に触れた瞬間――
 装置の中に僕の記憶が流れ込んだ。機械でありながら、温かい家庭料理の味を理解しようとして、回路が混乱を起こす。
「そうか!」
 山田さんが理解する。
「機械は感情を処理できない!」
 他の生徒たちも真似をする。友達との笑い声の記憶、初恋の甘酸っぱい記憶、家族への愛情の記憶——無数の感情を含んだ記憶が、冷たい機械に流れ込んでいく。
 装置が異音を立て始める。感情という、論理では処理できない要素に対処しきれずに、システムが暴走を起こしている。
「装置が——」
 リーダーが慌てる。
 時間操作妨害装置が停止した。可能性固定装置もシャットダウンする。感情の記憶に汚染された機械は、もはや正常に機能できない。
「今だ!」
 僕が叫ぶ。
 僕たちは再び時間操作を発動する。今度は妨害されることなく、完璧に制御された時間の流れ。
 そして山田さんの未来視も復活する。
「見えた!」
 彼女が興奮して叫ぶ。
「彼らの本部の場所が見えた!」
「本部?」
「地下五十メートル。この学校の真下に巨大な施設がある」
 学校の地下に——僕は驚愕する。毎日通っていた学校の足元に、そんな秘密基地があったなんて。
「でも」
 山田さんの表情が曇る。
「時間がない。一時間後に、最終実験が始まる」
「最終実験?」
「町中の子供たちから記憶を抽出する、大規模な実験。失敗すれば——」
 山田さんが言いかけて止まる。
「言って」
 僕が促す。
「町全体が時間の檻に閉じ込められる」
 背筋が凍る。僕たちだけの問題ではない。町に住むすべての人々が危険にさらされているのだ。
 黒いスーツの男たちが撤退を始める。装置も回収していく。
「次は本部で会おう」
 リーダーが捨て台詞を吐く。
「君たちの時間は、あと一時間だ」
 男たちが去った後、体育館に静寂が戻る。
 でも僕たちに休んでいる時間はない。
「行こう」
 僕が立ち上がる。
「本部を止めに行こう」
「でもどうやって?」
 鈴木が訊く。
「地下五十メートルなんて、エレベーターでもないと——」
 そのとき、田所が口を開いた。さっきから隅で震えていた彼が、ようやく立ち上がる。
「君たちを——」
 田所が震え声で言う。
「君たちを地下に案内する」
「田所さん?」
「私は——」
 田所が涙を流す。
「私は彼らに脅されていただけなんだ。家族を人質に取られて——」
 田所の告白に、僕たちは言葉を失う。
「本当はこんな実験、やりたくなかった」
 田所が続ける。
「でも断れば、妻と娘が——」
 山田さんが田所に歩み寄る。
「大丈夫」
 彼女が優しく言う。
「私たちが助けます。奥さんと娘さんも」
「本当か?」
 田所の目に希望の光が宿る。
「本当です。でも協力してください」
 田所が深く頷く。
「わかった。君たちを地下施設に案内しよう。でも——」
 田所が不安そうに付け加える。
「本部の警備は厳重だ。大人でも侵入は困難だろう」
「大丈夫」
 僕が自信を持って答える。
「僕たちには時間操作がある」
「それに」
 山田さんが微笑む。
「未来視で警備の隙を見つけられる」
 田所が感動したような表情を見せる。
「君たちは——本当にただの中学生なのか?」
 僕は考える。確かに僕たちはもう、普通の中学生ではない。記憶の物質化を経験し、時間操作を身につけ、未来を見通す力を手に入れた。
 でも本質的には変わっていない。友達を大切に思い、家族を愛し、正しいことをしたいと願う、普通の子供たちだ。
「僕たちは僕たちです」
 僕が答える。
「記憶があって、感情があって、仲間がいる。それだけです」
 田所が微笑む。初めて見る、心からの笑顔だった。
「そうだな。それが一番大切なことかもしれない」
 田所が体育館の壁際に向かう。そして隠されたパネルを開けて、秘密の階段を露わにする。
「ここから地下施設に行ける」
 田所が説明する。
「でも一度入ったら、もう後戻りはできない」
 僕たちは覚悟を決める。
「行こう」
 僕が仲間たちに呼びかける。
「みんなの記憶を守るために」
 三十人の生徒が頷く。そして一人ずつ、暗い階段を降り始める。
 階段は想像以上に長く、深かった。五十メートルという深さを実感する。途中で田所が解説してくれる。
「この施設は十年前から建設が始まった」
 田所が言う。
「記憶研究の名目で、巨額の予算が投入されている」
「十年前から?」
 山田さんが驚く。
「そうだ。君たちの世代に現れる現象は、実は予測されていたんだ」
 僕は背筋が寒くなる。僕たちの記憶の物質化は、偶然の現象ではなかったということなのか。
「でも彼らの予測にも誤算があった」
 田所が続ける。
「君たちの力は、彼らが想定していたよりもはるかに強力だった」
 階段を降りきると、巨大な金属製の扉が現れる。
「ここからが本部だ」
 田所が言う。
「でも警備が——」
 そのとき、山田さんが手を上げる。
「待って。未来が見える」
 彼女が集中する。
「三十秒後に警備員が持ち場を離れる。そのタイミングで扉を開けば——」
 山田さんの指示通りに行動すると、警備員がちょうど巡回に出たところだった。僕たちは無事に施設内に侵入する。
 廊下は白い壁と蛍光灯で照らされていて、まるで病院のような雰囲気だった。でも至る所に監視カメラが設置されている。
「カメラは?」
 鈴木が心配する。
「大丈夫」
 僕が答える。
「時間操作で録画を停止させる」
 僕たちの時間操作は、もはや完璧にコントロールできるレベルに達していた。監視カメラの録画機能だけを選択的に停止させ、警備システムを無力化していく。
 廊下の奥から、機械音や人の話し声が聞こえてくる。
「あの先が実験室だ」
 田所が指さす。
 僕たちは慎重に進む。そして実験室の入り口で、衝撃的な光景を目にした。
 巨大な円形の部屋の中央に、透明なカプセルが数十個並んでいる。そしてカプセルの中には——
「子供たち?」
 山田さんが小声で叫ぶ。
 そうだった。カプセルの中には、僕たちと同じ年頃の子供たちが眠っている。頭部には無数の電極が取り付けられ、脳波がモニターに表示されている。
「彼らは——」
 田所が説明する。
「最初の実験の被験者たちだ。もう半年も眠り続けている」
「半年も?」
「記憶を抽出されて、意識を失った」
 田所の声が震える。
「彼らの記憶は、あのコンピューターに保存されている」
 田所が指さした先には、部屋の壁一面を覆う巨大なコンピューターシステムがあった。無数のランプが点滅し、膨大なデータが処理されている様子が分かる。
「あれが——」
「記憶データベース」
 田所が頷く。
「数百人分の記憶が蓄積されている」
 僕は恐怖と怒りを感じる。眠っている子供たちは、記憶を奪われた被害者だったのだ。
 でも今は感情に流されている場合ではない。
「どうすれば止められる?」
 僕が田所に訊く。
「メインコンピューターを破壊すれば——」
 田所が言いかけた時、
「そうは問屋が卸さない」
 冷たい声が響いた。
 僕たちが振り返ると、実験室の入り口に一人の男が立っていた。白衣を着た、中年の研究者。でもその目は冷酷で、まるで機械のように感情がない。
「プロジェクトリーダーの加藤だ」
 男が自己紹介する。
「君たちの来訪は予想していた」
 加藤の背後から、黒いスーツの男たちが現れる。今度は数十人の大部隊だった。
「田所君」
 加藤が冷笑する。
「まさか裏切るとは思わなかった」
 田所が震える。
「私は——もうこんなことは続けられない」
「続けられない?」
 加藤が笑う。
「君にそんな選択権はない。君の妻と娘のことを忘れたのか?」
 田所の顔が青ざめる。
 でも山田さんが前に出る。
「奥さんと娘さんは無事です」
 彼女が宣言する。
「私に見えています。今、警察に保護されています」
「なに?」
 加藤が動揺する。
「私たちが通報したんです」
 山田さんが続ける。
「未来視で人質の居場所を特定して」
 それは嘘だった。でも山田さんの確信に満ちた声に、加藤も戸惑っている。
 その隙に、僕が行動を起こす。
 時間操作を発動し、加藤と男たちの動きを遅くする。そして仲間たちに指示を出す。
「みんな、記憶の欠片を使って!」
 三十人の記憶の欠片が、実験室の空中に舞い上がる。そして眠っている子供たちのカプセルに向かって飛んでいく。
「なにをしている!」
 加藤が叫ぶ。
 でも僕たちの行動は止められない。記憶の欠片がカプセルに触れると、眠っている子供たちの脳波が活発になり始める。
「これは——」
 加藤が驚愕する。
「記憶の逆流? そんなことは理論的に不可能だ!」
 でも現実に起こっている。僕たちの記憶が、眠っている子供たちの意識を呼び覚ましているのだ。
 一人、また一人と、カプセルの中の子供たちが目を開ける。
「みんな!」
 僕が叫ぶ。
「起きて!」
 子供たちがカプセルから出てくる。最初はふらつきながらも、徐々に意識を取り戻していく。
「僕たち——どこにいるの?」
 一人の男の子が訊く。
「地下の実験施設」
 僕が答える。
「でももう大丈夫。一緒に逃げよう」
 救出された子供たちが、僕たちの仲間に加わる。今度は総勢八十人の集団になった。
 加藤が絶望的な表情を見せる。
「もう手遅れだ」
 彼が呟く。
「最終実験を前倒しする」
 加藤が壁のスイッチを押す。すると施設全体に警報が鳴り響く。
「全職員に告ぐ」
 加藤がアナウンスする。
「緊急事態発生。最終実験を即時実行する」
 施設の奥から、巨大な機械音が響いてくる。
「最終実験?」
 僕が訊く。
 山田さんが未来視を使う。そして顔を青ざめさせる。
「見えた——」
 彼女が震え声で言う。
「町全体を覆う巨大な記憶抽出装置。十分後に稼働開始」
「十分後?」
「そうなったら——」
 山田さんが続ける。
「町の住民全員の記憶が抽出される。そして時間の檻が発生する」
 時間の檻——もしそれが起これば、この町は永遠に時間の外側に取り残される。
「止めなきゃ」
 僕が決意を固める。
 でも加藤が立ちはだかる。
「止めることはできない」
 彼が宣言する。
「装置は既に稼働を始めている」
 そのとき、施設が激しく揺れた。上から土埃が落ちてくる。
「なに?」
 山田さんが天井を見上げる。
「時間の歪みが始まってる」
 彼女が警告する。
「装置の予備稼働で、既に時空に亀裂が入ってる」
 僕たちに残された時間は、もうわずかだった。
 でも諦めるわけにはいかない。
 この町の、すべての人の記憶と未来を守るために——
 僕たちは最後の戦いに臨む。
「みんな、聞いて!」
 僕が大声で叫ぶ。八十人の子供たちが僕を見つめる。
「今から僕たちがやることは、この町の運命を決める。一人ひとりの記憶が、みんなの未来を救う武器になる!」
 施設の振動が激しくなる。時間の歪みが拡大していることが分かる。
「でも僕一人じゃできない」
 僕が続ける。
「みんなの力が必要だ。僕たちの記憶を、一つにまとめよう」
 山田さんが僕の意図を理解する。
「集合記憶の形成」
 彼女が呟く。
「個人の記憶を統合して、巨大なエネルギー体を作るの?」
「そうだ」
 僕が頷く。
「八十人分の記憶の欠片を合体させる。それだけの力があれば——」
 加藤が僕たちの計画を察知して、阻止しようとする。しかし既に遅かった。
 八十人の子供たちが一斉に記憶の物質化を実行する。色とりどりの記憶の欠片が宙に舞い上がり、実験室の空間を埋め尽くす。
 家族との温かい食卓の記憶。友達との楽しい時間の記憶。初めて自転車に乗れた時の達成感。運動会で転んだ時の悔しさ。祖父母の優しい笑顔。夏祭りの賑わい。雨の日の静けさ。
 無数の記憶が光となって渦を巻き、徐々に一つの巨大な球体を形成していく。
「これは——」
 加藤が言葉を失う。
「理論上は可能だが、実際に見るのは初めてだ」
 記憶の球体がさらに大きくなる。直径は十メートルを超え、虹色の光を放ちながら脈動している。
「みんな、集中して!」
 僕が指示を出す。
「記憶に込められた感情を、最大限に解放して!」
 子供たちが目を閉じ、深く集中する。すると記憶の球体から、暖かい光が溢れ出した。
 それは単なる光ではない。八十人分の愛情、友情、希望、勇気、そして生きる喜びが結晶化した、感情の光だった。
「これを装置の中枢部に送り込む」
 僕が宣言する。
「機械は感情を処理できない。この光で、すべてのシステムを無力化する」
 山田さんが未来視で施設の構造を把握する。
「中枢部は三階層下」
 彼女が報告する。
「でも警備が厳重で——」
「大丈夫」
 僕が答える。
「記憶の球体を分離させて、同時攻撃を仕掛ける」
 僕は記憶の球体に意識を集中し、八つの小さな球体に分割する。それぞれが虹色の軌跡を描きながら、施設の各所に向かって飛んでいく。
「阻止しろ!」
 加藤が部下に命令する。
 黒いスーツの男たちが銃を構えるが、記憶の球体は物理的な攻撃を受け付けない。弾丸を素通りして、施設の奥深くへと進んでいく。
「無駄だ」
 僕が加藤に言う。
「記憶は物質であると同時に、概念でもある。物理法則を超越している」
 一つ目の球体が警備システムに到達する。暖かい記憶の光が冷たい機械を包み込むと、システムが次々とシャットダウンしていく。
 二つ目、三つ目の球体が電源装置と通信設備を無力化する。
 そして最後の球体が、施設の最深部にある中枢コンピューターに到達した。
「やめろ!」
 加藤が叫ぶ。
「十年間の研究成果が——」
 しかし、もう止めることはできない。
 記憶の光がメインコンピューターを包み込むと、巨大なシステムが悲鳴のような音を上げて停止する。保存されていた数百人分の記憶データが、本来の持ち主たちの元に戻っていく。
「記憶が——戻ってる」
 救出された子供の一人が驚く。
「失くしたと思ってた記憶が、全部戻ってきた」
 他の子供たちも同様に、奪われていた記憶を取り戻していく。そして涙を流しながら喜びを表現する。
 施設全体が大きく揺れる。今度は時間の歪みが修復されることによる振動だった。
「時空の亀裂が修復されてる」
 山田さんが報告する。
「装置の停止で、正常な時間の流れが戻ってきた」
 加藤が床に崩れ落ちる。十年間の研究が、子供たちの記憶によって無に帰したことを悟ったのだ。
「なぜだ——」
 加藤が呟く。
「記憶など、単なる情報の集合体のはずだ。感情など、脳内の化学反応に過ぎない」
 田所が加藤に歩み寄る。
「君は最も重要なことを理解していなかった」
 田所が優しく言う。
「記憶は情報ではない。生きた証なんだ」
「生きた証?」
「そうだ」
 僕が答える。
「記憶には、その人が生きてきた時間と経験と感情のすべてが込められている。それは単なるデータじゃない。魂の一部なんだ」
 加藤の目に、初めて人間らしい感情が宿る。
「私は——間違っていたのか」
「間違いはだれにでもある」
 山田さんが言う。
「大切なのは、今から正しい道を歩むこと」
 そのとき、施設の上から声が聞こえてきた。
「警察だ! 応答しろ!」
 山田さんの未来視通り、警察が施設を包囲していたのだ。
「みんな、上に上がろう」
 僕が仲間たちに呼びかける。
「もう終わった」
 八十人の子供たちが階段を上がっていく。途中で、田所が僕の肩に手を置く。
「君たちのおかげで、私は家族と再会できる」
 田所が感謝を込めて言う。
「本当にありがとう」
「僕たちこそ」
 僕が答える。
「田所さんがいなければ、ここまでこれませんでした」
 地上に出ると、既に夜が明けていた。朝日が町を照らし、新しい一日の始まりを告げている。
 警察官たちが僕たちを保護し、救急車で健康チェックを受ける。みんな無事だった。