教室の中は混沌としていた。
 宙に浮かぶ記憶の欠片たちが、まるで意志を持っているかのように飛び交っている。ある欠片は机の上で回転し、ある欠片は天井近くで光の尾を引きながら軌道を描く。そして時々、欠片同士がぶつかり合うと、閃光と共に映像の断片が空間に投影される。
『——おはよう』
『昨日のテスト、どうだった?』
『また明日ね』
 重なり合う声。断片的な会話。日常の一コマ一コマが、万華鏡のように次々と現れては消えていく。
「だれの記憶?」
 山田さんが息を呑む。
「3年2組の生徒全員のだと思う」
 佐々木が答える。
「午前中に一斉に症状が現れて、記憶の欠片が暴走した」
 僕は教室の入り口で立ち尽くす。美しくて恐ろしい光景に圧倒されていた。でも同時に、既視感のようなものも感じていた。どこかで似たような光景を見たことがあるような——
「田中君」
 山田さんが僕の袖を引く。
「これ、見て」
 彼女が差し出したのは、新しい記憶の欠片だった。さっき屋上で見せてくれたものとは違って、表面が激しく脈動している。
「触れてみて」
 恐る恐る指先で欠片に触れる。すると——
『——これは始まりに過ぎない』
 男性の声が聞こえた。知らない声だった。映像はぼんやりとしていて、誰が話しているのかは分からない。でも声の主は明らかに大人で、何か重要なことを話している。
『記憶の物質化現象は、彼らの成長過程で必然的に起こる変化だ。問題は、この変化を制御できるかどうか——』
 映像が途切れる。
 僕は手を引く。
「これって——」
「未来の記憶」
 山田さんが頷く。
「でも普通の未来予知じゃない。もっと遠い未来、それも確定した未来の記憶」
「確定した未来?」
「そう。必ず起こる未来」
 佐々木が振り返る。
「お前ら、なにを話してる?」
 僕は佐々木に記憶の欠片を見せる。
「山田さんの症状、未来予知なんだ」
 佐々木の表情が変わる。
「未来予知って——まさか」
 そのとき、教室の中で異変が起こった。浮遊していた記憶の欠片たちが、突然一箇所に集まり始めたのだ。まるで目に見えない力に引き寄せられるように。
「なにが起こってるの?」
 山田さんの声が震える。
 集まった欠片たちは、やがて一つの大きな光の塊を形成した。そしてその中心から、ゆっくりと人影が現れ始める。
 最初はぼんやりとしたシルエットだった。でも徐々に輪郭がはっきりしてきて——
「嘘だろ」
 佐々木が呟く。
 現れたのは、僕だった。
 いや、正確には「僕のような誰か」だった。顔立ちは確かに僕に似ていたけれど、年齢は明らかに上で、表情も全く違っていた。大人びていて、どこか悲しげで、そして——諦めたような表情。
「だれ?」
 山田さんが震え声で訊く。
 光の中の「僕」が口を開く。
『君たちに伝えなければならないことがある』
 その声は確かに僕の声だった。でも僕が話した覚えはない。
『記憶の断片化現象——それは病気じゃない。成長の証だ』
「成長の証?」
 僕は思わず声に出す。
 光の中の「僕」が振り向く。そして現在の僕と目が合う。
『そう。君たちは変化している。人間から、別のなにかへと』
 別のなにか——その言葉が頭の中で響く。
『でもその変化は、必ずしもよいものじゃない』
 光の「僕」の表情が曇る。
『記憶を失うということは、過去の自分を失うということだ。そして過去を失った者は——』
 映像が揺らぐ。
『——未来も失う』
 その瞬間、教室の電気が消えた。非常灯だけが点いて、薄暗い赤い光が室内を照らす。
 光の「僕」は消えていた。記憶の欠片たちも、床に落ちて転がっている。
「なんだったの、今の」
 山田さんが呟く。
 僕は答えられなかった。あの「僕」は一体何者だったのか。なぜ僕の姿をしていたのか。そして——
「田中」
 佐々木が深刻な表情で僕を見る。
「お前、なにか隠してることはないか?」
「隠してること?」
「この症状が始まる前のこと。なにか変わったことはなかったか?」
 僕は記憶を辿ろうとする。でも記憶の多くは既に欠片になって外に出してしまっている。思い出せるのは断片的なことばかりだった。
 でも——
「あった」
 僕は思い出す。
「一ヶ月前、変な夢を見た」
「夢?」
「未来の夢。大人になった自分が、過去の自分になにかを伝えようとしている夢」
 山田さんと佐々木が顔を見合わせる。
「それって——」
 山田さんが言いかける。
 そのとき、校内放送が流れた。
『全校生徒に連絡します。記憶断片化現象の症状が見られる生徒は、至急体育館に集合してください。繰り返します——』
 僕たちは黙って放送を聞く。
 症状のある生徒を集める理由は何なのか。そして、これから僕たちに何が起こるのか。
「行こう」
 佐々木が立ち上がる。
 僕と山田さんも頷く。
 体育館へ向かう廊下で、僕は床に落ちている記憶の欠片を一つ拾い上げる。誰のものかは分からないけれど、何となく大切な気がした。
 そして思う。
 あの光の中の「僕」が言った言葉。
『記憶を失うということは、過去の自分を失うということだ。そして過去を失った者は、未来も失う』
 もしそれが本当なら——僕たちはもう、元の自分には戻れないのかもしれない。