選手たちが指示を出す声が、グラウンド中に響いている。

 人工芝のフィールドの中で、選手たちは目まぐるしく動き、瞬間的にポジションを入れ替え、次のプレーへと繋げていく。

 これはもう、従来のサッカーとは別物だった。

 このサッカーでは、ペナルティエリア外では、タックルも、スライディングも禁止されている。バックパスも許されず、攻撃の手を緩める暇さえない。
 オフサイドの概念は廃止され、攻撃は縦へ縦へとまるでレールの上に乗った電車のように走っていく。
 さらに、ペナルティエリアの外から放たれるシュートは、ゴールが決まれば通常の2倍、2点の得点が入る。

 それが――、【ファストサッカー】。
 サッカーをよりスピーディーな試合展開にするという概念から生まれた新世代の球技。

 そしてそのフィールドに、今、一人の高校生が立とうとしている。

 かつて、人々は彼を【フィールドの魔術師】と呼んでいた。

 一瞬で試合の流れを変えるシュートと正確なパス。
 そして、フィールド全体を支配するような存在感。
 17歳にしてアンダー18日本代表の10番を背負い、世界を目指していた天才プレイヤー。

 だが、彼は突然日本代表から姿を消した。原因不明の自己免疫疾患が彼を襲ったのだ。

 全身を襲う痛みから、立ち続けることすら困難になる難病。激しい運動を長時間続ければ、痛みによって呼吸が乱れ、意識が遠のく。
 
 医師は彼にこう言い放った。

「君の体では、もうサッカーは続けられないよ」

 そして、フィールドの魔術師はサッカーを諦めた。
 夢を、仲間を、未来を、すべてフィールドに置き去りにして。

 ――だが、彼はまだ諦めていなかった。

 それから半年。
 リハビリ中の彼が挑戦しようとしているのは、新たな競技、ファストサッカー。

 そこでは、持久力よりも一瞬の判断がプレーを支配する。

 かつて「フィールドの魔術師」と呼ばれた少年は、今再びピッチに立つ。自身が最高のプレイヤーであることを証明するために――。

 これはサッカーの夢を諦めかけていた天才高校生、雨宮新太(あまみやあらた)の復活の物語である。

◇◇◇

「このフィールドで、俺は選手として復活する――」

 俺(雨宮新太)は、明峰学園高校に新設されたファストサッカー部のグラウンドに立っていた。
 半年間の沈黙を破り、再びボールを足元に置く。緊張と興奮で全身が震えていた。

 だが、このファストサッカーは、俺のよく知っている普通のサッカーではない。

 ペナルティエリア外では、接触プレーは一切禁止。オフサイドルールは無く、バックパスが禁止されている。そして、ペナルティエリア外からのゴールには、通常の2倍、2点が与えられる。選手交代の制限が無く、攻守が目まぐるしく入れ替わるこのサッカーでは、各プレイヤーは常に全力で行動することが求められる。
 
 接触プレーがほとんど無く、ペナルティエリア外からのロングシュートが重視されるこのファストサッカーなら、病に冒されている今の俺でもなんとかプレーができる。
 そう思って、俺はこのファストサッカー部に入部したんだ。

◇◇◇

 三ヶ月後――。

「新太、3分限定で後半いくぞ。だが、ペース配分は考えなくていい。お前の全てを出し切ってこい」

 監督の声が響く。

 ――3分。
 俺が今、連続して出場できる最大時間。それでも、このファストサッカーなら、わずか3分間の出場でも試合の流れを変えられる。

 俺はそう信じている。

 俺はサッカーを辞めたくて辞めたわけじゃない。病気でサッカーが続けられなくなっていただけだ。今まで溜まってきた鬱憤を、この試合で全て晴らしてやる。

「3分間、全力で暴れてやるよ」

 俺たちのチームのキックオフで後半が開始した。

 目の前の相手は、全国屈指の攻撃陣を誇る強豪、大成高校。相手にとって不足は無い。俺は最初から本気でいかせてもらう。

 味方からパスを受けた俺はそのボールを、わざと大きくトラップする。ミスと勘違いして近づいてきた選手を素早く切り返してかわす。
 そのまま俺はペナルティエリアの近くまでドリブルで一気に駆け上がる。
 そして、最後は、飛び出してきたキーパーの頭上を超えるループシュート。俺の蹴ったボールは、綺麗な放物線を描いて、ゴールへと吸い込まれていった。

「新太が決めた! ギリギリペナルティエリアの外、2点だ!」

 仲間たちが絶叫しながら俺に近寄ってくる。

「よっしゃああああ!」

 俺は感情を爆発させながら大声で叫んだ。

 あの病気のせいで今の俺に持久力はない。身体も細くなった。だが、俺のテクニックは、まだ死んではいなかった。

 この新しいサッカーでなら、俺はもう一度「フィールドの魔術師」でいられる。

 たとえ、それが3分間だけの魔法だとしても――。

◇◇◇

「やっぱ、お前はすげえわ。良い意味でも、悪い意味でもな」

 大成高校との試合終了後、ロッカールームでチームメイトの日野征一郎(ひのせいいちろう)に声をかけられた。

 身長180cm。大きな身体を持ちながら、繊細なプレーや俊敏な動きもできる実力派のフォワード。
 彼は入部以来、チームのエースストライカーとして活躍していた。

「1つ1つのシュートが、まるで獲物を狙うスナイパーみたいだ。3分間だけで、エリア外からのシュートを3本も決めちまうんだからな。普通にすげえよ。だがな――」

 征一郎は肩をすくめると、視線を真っ直ぐに向けてきた。

「90分のうちのたった3分しか試合に出られないなんて、話にならねえ。レギュラーになれない部員たちの中には、俺たちはお遊びでファストサッカーやってんじゃねえんだよって、文句を言ってる奴もいる」

 征一郎の鋭い言葉に、ロッカールームの空気が一瞬で凍りついた。
 
 だが、彼の発言は正論だ。この新しいサッカーは、すべてにおいて瞬時の判断が求められる。トランジション、つまり攻守の切り替えが頻繁に起こるからだ。そんなゲームを90分間プレーしているチームメイトたちに、3分間しかプレーできない自分を受け入れる理由なんて、どこにもない。

「だったら、俺を出せば試合に勝てるってチーム全員に証明する」

「どうやって?」

「――3分で勝利を決める。俺にできるのは、それだけだ」

 征一郎がふっと笑った。

「面白えじゃん。じゃあその魔術師っぷり、次の試合で見せてくれよ」

◇◇◇

 俺は、寮の自室で今日の試合の動画を見ながら、自分の動きを再確認していた。

「今の俺が目指すのは、戦況を覆す切り札(ジョーカー)ってとこか」

 かつての俺は、司令塔と呼ばれていた。
 フィールドの中で、味方を動かし、相手を翻弄し、ゲーム全体を掌握していた。

 けれど、今は違う。
 俺はもう、試合をコントロールすることはできない。

 だからこそ、いまの俺にできるのはただひとつ――。
 チームの「切り札」として、与えられた出場時間で流れを変えること。
 
 ならば、俺は3分間という時間制限の中で全力を出して、チームを勝利に導いてやる。

 その覚悟を決めた夜、監督から、新しいメッセージが届いた。

『来週の貞徳学園高校との練習試合に、U18日本代表、柏拓人(かしわたくと)が参加することが決まった』

「拓人……」

 柏拓人は、かつての俺のチームメイトだった。
 俺と共にU18日本代表を支えた、天才ミッドフィルダー。

 だが、俺がフィールドから消えたその日から、彼は一切、俺に連絡をよこさなかった。

 そして、今回、俺たちの敵として戦うことになった。

◇◇◇

 貞徳学園高校との練習試合当日――。

 試合が行われるサッカーフィールドには、練習試合にも関わらず多くのファンが詰めかけていた。彼らのお目当てはもちろん、U18日本代表のエース、柏拓人である。

「フィールドの貴公子様のお出ましだ」

 拓人の黒色のロングヘアが風に舞う。
 堂々とした佇まい、無駄のない動き、そして冷静な表情。

 彼はかつて、俺と並んで「フィールドの貴公子」と呼ばれたプレイヤーだ。
 そして今回、そのフィールドの貴公子が俺たちの敵として立ちはだかる。

◇◇◇

「監督に聞いたぞ。お前、本気なのか?」

 試合前、征一郎が俺に問いかける。
 今日は俺の出場時間が3分と制限されているわけではない。俺は監督から事前に話をされていた。

「新太は、柏拓人と限界まで勝負したいんだったな。それなら、今日のミーティングでお前自身が今やれる限界の時間を自己申告しろ。他の部員は俺が説得してやる」

 今日の練習試合は、俺自身が出場時間を決められるように、監督が配慮してくれた。あとは、俺の覚悟次第だ。

「本気だ。今日は5分間、全力でプレーさせてもらう」

「はあ?」

 征一郎が驚いたように目を見開く。

「無理すんな。3分超えたら、お前の体、マジで危ないんだろ?」

「それでもいいんだ」
 
 俺は覚悟を決めた目で、征一郎の目をまっすぐに見据える。

「今回は拓人がいる。あいつに伝えたいんだ。俺はまだ、終わってないって」

 征一郎はしばらく黙り込んだ後、大きくうなずいた。

「わかった、全力でやってこい。もし、お前が限界になったら、俺たちが全力でお前のことをサポートするから、心配すんな」

「征一郎、ありがとう」

 俺は征一郎の言葉に胸が熱くなり、涙が溢れ出した。

◇◇◇

 そして、練習試合のキックオフの笛が鳴った。
 前半、貞徳学園の攻撃で試合が始まった。

 パスを受けた貞徳学園の選手がうちのディフェンダーたちに囲まれて思わず足を止める。

「1、2、3……」

 審判がストップウォッチを眺めながら冷静に経過時間を確認していく。
 
「10秒経過! バイオレーション!」

 貞徳学園の選手は10秒間ボールを保持したことで反則となり、俺たち明峰学園の攻撃に変わる。

 ペナルティエリア外で、身体接触が禁止されたファストサッカーでは、守備側がボールを奪う手段が極めて限られる。
 そのための救済措置が、攻撃側に課せられた「10秒」および「20秒」のルールだ。ペナルティエリア外では、ボールの静止保持は10秒以内、ドリブル開始後は20秒以内に次の行動を行うことがルールで規定されているのだ。
 
 俺はベンチで、呼吸を整えながら気持ちを落ち着かせている。
 ピッチにいるかつての戦友、柏拓人からの視線が刺さる。俺をさげすむような、冷たい瞳。俺にはまるで、彼が俺のことを、過去の栄光を失った選手であることを証明するためにここにいるように感じられた。

 それなら、俺が実力でお前に認めさせてやる。このファストサッカーで蘇ったフィールドの魔術師の魔法を使ってな。

◇◇◇

 ゲームは既に終盤に差し掛かっていた。現在、俺たちは貞徳学園に3点差を付けられている。

 試合終了まで残り7分を切った。

「監督、行かせてください。最後の5分で、俺が試合を決めてきます」

「本当に5分、行けるのか?」

「やらせてください。俺が今もフィールドの魔術師だってこと、あいつに証明したいんです」
 
 俺は交代する選手とハイタッチしてピッチの中に入る。そのまま、すぐにフィールドを駆けあがった。そして、味方の位置を即座に把握し、攻撃の起点を作る。

 柏拓人――。あいつのプレーは昔と変わらない。
 冷静で、正確で、そして美しい。まるで精密機械のように完璧なフォームで動いている。
 
 残り5分。
 すでに俺の全身には激痛が走っている。だが、俺には秘策がある。それは、攻撃時にカウントが入る、ファストサッカー独自の技術だ。

 ドリブルを開始してから、終了までのカウントは20秒。ペナルティエリア外では、相手は無理に俺に近づけない。身体に触れば即ファウル。つまり、俺は無敵だ。
 しかし、それはたった20秒間だけの話だ。だから、俺は19秒ギリギリまで粘って勝負を決めるつもりだ。

 (1、2、3……)

 心の中で秒数を刻みながら、追ってきた相手ディフェンダーの動きを読んでフェイントでかわす。
 その様子に痺れを切らした拓人が俺の前に立ち塞がって、パスコースを潰そうとする。

「パスは打たせない。もちろん、シュートもだ!」

「それはどうかな? 勝負だ、拓人!」

 俺はつま先で地面を軽くタップする。
 拓人がその動きに反応する。――その瞬間、彼は俺の魔法にかかった。
 拓人が俺のタップに反応したことで、彼のリズムの感覚が半テンポだけズレた。俺はそのズレを見逃さない。
 
「今だっ!」

「なに!?」

 予想外のタイミングで切り返した俺に拓人の身体は反応できない。ファストサッカーでは、カウントを利用してリズムを取る選手が多い。だから、俺はそれを逆手に取った。カウントとカウントの間のタイミング、いわゆる裏拍子を利用することで、拓人の意表を突いたのだ。

 そのまま俺は彼を振り切ってパスを通す。
 完全にフリーになっていた征一郎にボールが渡り、ペナルティエリアに入らないギリギリの位置まで運んで、シュート。彼の無回転シュートで鋭く飛んでいったボールは、対応しきれなかったキーパーの手を弾き、ゴールネットへと吸い込まれた。

「よっしゃあ! これで1点差だぁ!」

 俺たちのプレーに場内がどよめいた。

「新太の魔法が戻ってきたぁ!」

「いける。新太がいればこのままいけるぞ!」

 仲間たちの声がフィールドに響き渡る。
 だが、ここからが本番だった。

◇◇◇

 ――3分経過。

 全身の痛みで俺の呼吸が浅くなる。
 手足の感覚が徐々に鈍る。
 でも、まだ行ける。

 拓人がボールを持った瞬間、俺は彼を止めるために全力で走った。

「来たな新太。勝負だ。次は負けない」

「望むところだ」

 互いに相手の動きを読み合い、パスコースを取り合う。
 読み合いで時間を無駄にするのは、制限時間がある俺には不利になる。ならば――。

 ペナルティエリア外での接触は禁止されている。
 だから、俺は拓人の動きを予測して、パスコースを消した。

「残念。その動きは読んでいたよ。ここだ!」

「しまった!」

 しかし、拓人が一瞬の隙を突いて送り出したパスを、近くにいた征一郎がカットしてくれた。

「ナイスカットだ、征一郎!」

 俺は思わず叫んだ。

「お前が本気でやってるんだ。俺も本気でやらねえとな!」

 カウンター開始。
 俺は力を振り絞って前線へと駆け上がる。

 全身が痛みで悲鳴をあげている。
 視界が悪くなり始める。
 
 だが、拓人との勝負はまだ終わらない。

 ――残り1分。

 俺の呼吸は乱れ、汗が額を伝う。
 拓人が、真正面から俺に対峙してくる。

「交代しろ、新太。その様子じゃ、もうアディショナルタイムまでは持たない」

 俺は首を横に振って、その提案を拒絶する。

(それでも……俺は、お前に勝つ。例え命を削ってでも、ここで、俺はお前に本当の実力を見せつけるんだ)

 ドリブル開始。
 審判のカウントが始まる。

 俺はわざと拓人の前にボールを転がす。
 拓人が反応してボールを取ろうとする。

 だが、その瞬間を俺は逃さない。素早くボールを手前に引くと、くるりとターンしながら足裏でボールをコントロールする。

「マルセイユルーレットだと!?」

 誰もが予想していなかったであろう大技に、拓人が思わず声を上げる。

 最後に一対一で完璧に拓人を抜き去ることが出来た。

 視界が滲む。
 全身が痛くて辛い。
 周りの風景が、ぼやけて見える。
 
「新太ぁ、俺はここだぁ!」
 
 征一郎の叫ぶ声が聞こえる。
 
 ありがとう征一郎。
 あとは任せた。

「行けええええええッ!!」

 ボールを蹴った瞬間に、俺の意識は飛んだ。

 だが、そのパスが届くのはわかっていた。
 まるで魔法のように、誰もが止まって見とれるような軌道で――。

 そして、また2点。
 征一郎に宣言した通り、俺は短いプレー時間で勝利を確定させた。

◇◇◇

「新太!」

 俺が意識を取り戻すと、俺の周りには征一郎、コーチ、監督、そしてチームメイト全員が集まっていた。

「大丈夫か?」

「はい。心配かけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」

「無事でよかった。俺たち、あの柏拓人のいる貞徳学園に勝ったんだ。お前のプレーが勝利を決めたんだよ!」

「俺は今日、自信と誇りを取り戻せました。それはみんなの協力があったからです。本当にありがとう」

 それを聞いた征一郎が、泣きながら俺の身体を起こしてくれる。

 そして、俺は拓人が、遠くからその様子を静かに見つめているのを感じた。

 完全に意識が戻った俺は、自然と微笑んでいた。

 自分の限界までやりきった。
 わずか5分間だけ――。だが俺はフィールドの魔術師として、確実にこの試合を支配した。

 たとえまた倒れても、何度でも立ち上がってやる。
 俺の夢は、まだ、始まったばかりなのだから。