春の風が、校舎の外からそっと吹き込んでくる。
 小さなホールに集まった聴衆は、保護者や教職員、そしてごくわずかな在校生たち。
 年に一度の「室内楽発表会」。アンサンブル専攻の生徒にとって、最初のステージだった。

 日向心音は、緊張に包まれながら楽屋の椅子に座っていた。

 (大丈夫、大丈夫……)

 隣で石井澄香が、明るく微笑んでいる。
 その笑顔に、どこか翳りがあることに、心音はまだ気づいていなかった。

 佐伯陸は静かに楽譜を見つめ、神谷奏多は目を閉じて、自分の呼吸を整えている。
 この4人で過ごした数週間。
 重なった音と、重なりきれない想いと──すべてが、今、ひとつの舞台に向かっている。

 

 ステージの幕が上がる。
 最初の一音を鳴らしたのは、心音のヴァイオリンだった。

 (落ち着いて……ちゃんと、みんなの音を聴いて)

 心音の弓に続いて、澄香のフルートが空気に色をつけ、陸のチェロが低く支える。
 そして、奏多のピアノが4人の音をつなぎとめた。

 音は確かに重なっていた。
 けれど、「完璧」ではなかった。

 (何かが、少しだけずれてる)

 ほんのわずかに噛み合わない呼吸。
 それぞれが誰かを見ていて、誰かを見ていない。

 心音の視線が、思わず陸を探す。
 陸はまっすぐ前を見つめていた。フレーズに迷いはなかった。けれど――そこに、「感情」は見えなかった。

 (さっきのリハまでは、もっと……)

 そう思ったとき、ふと視線を感じた。
 顔を上げると、神谷奏多がこちらを見ていた。

 目が合った瞬間、心音の胸に、なにか熱いものが走った。
 彼は何も言わず、ただひとつの和音を弾いた。

 その音が、心音の中で、なにかを変えた。

 

 ──ひとりで走っても、音楽は成立しない。

 そんな当たり前のことに、心音はようやく気づいた。

 奏多のピアノが寄り添うように響き、澄香のフルートが温かさを足す。
 そして、陸のチェロが少しだけ音量を上げた。

 (今……合ってる。私たち、ちゃんと重なってる)

 四人の音が、初めて“同じ場所”に集まった瞬間だった。
 それは完璧ではない。けれど、心が混ざった。

 言葉では伝えきれない感情が、音に乗って客席に届いていく。
 1フレーズ、1小節ごとに、誰かの想いが溢れ出す。

 終盤の静かなパッセージ。
 心音は最後の一音を弾く前、そっと目を閉じた。

 (ありがとう。みんなと、ここにいられてよかった)

 その想いとともに、最後の音が静かに鳴った。

 ──そして、沈黙。

 やがて、ホールに温かな拍手が満ちていった。

 

 舞台裏に戻った4人は、まだ言葉を交わしていなかった。

 先に口を開いたのは、佐伯陸だった。

 「……悪くなかった。今日の演奏」

 澄香がくすっと笑う。

 「うん、“悪くない”でいいよ。初めてにしては、ね」

 心音も微笑んだ。
 奏多は少しだけ口元を緩め、ピアノ椅子に腰をかけたまま言った。

 「不協和音だったけど……ちゃんと、音楽にはなってた」

 その言葉に、4人はそれぞれの胸の奥で、なにかを感じていた。

 これから、まだすれ違うだろう。
 それでも、今日の一音が、確かに“始まり”になったことを──