どうして、私は笑っているんだろう。

 音楽室の片隅で、石井澄香はこっそり深呼吸した。
 練習が終わり、教室を出ようとしていた心音と陸の背中が並んで見えた瞬間──
 胸の奥に、小さな痛みが走った。

 (別に、何も……おかしくない)

 自分にそう言い聞かせながら、いつものように口角を上げる。
 高校の音楽科。人付き合いも演奏も、うまくやってきたつもりだった。
 クラスの誰とでも話せるし、笑顔だって自然に作れる。

 だけど。
 あのとき、講堂でひとり演奏していた心音の音を聴いてから、何かが変わり始めていた。

 

 最初は、ただ「すごい子がいるな」と思っただけだった。
 小さな体で、心をまるごとさらけ出すような演奏。あんな風に音を出せる人、そういない。

 でも、それだけじゃなかった。
 初めて声をかけた日──心音が恥ずかしそうに笑ったその笑顔が、やけに印象に残っていた。

 そして、気づいたときには、目で追っていた。
 音楽室で、廊下で、講堂の隅で。
 その人が笑っていると、理由もなく安心できて、でも同時に、胸が苦しくなった。

 (私……何やってるんだろ)

 澄香は、ふと窓の外を見た。
 夕暮れの校舎がオレンジに染まり、校庭に長い影を落としている。
 こんな風景も、去年までは一人で眺めていた。

 でも今は違う。
 カルテットじゃなくて、アンサンブル。4人の音が交わる場所に、自分はいる。

 だけど──

 (あの子は、佐伯くんのほうを見てた)

 気づいてしまった。
 心音が演奏中に、何度も陸の方へ視線を送っていたこと。
 あの演奏が、少しずつ溶け合い始めたこと。

 (そんなの、ズルいよ)

 誰にも言えないこの想いを、どうやって抱えればいいのか分からなかった。

 

 その日の帰り道。
 下校時間の音楽棟は静かで、足音だけがやけに響いた。

 そこへ、パタンと扉の閉まる音。
 振り向くと、心音がちょうど校舎の角を曲がったところだった。

 「ここね!」

 思わず呼び止めた。
 自分の声が少し大きすぎたことに気づき、澄香は慌てて微笑んだ。

 「……ちょっと、一緒に帰らない?」

 心音は一瞬驚いた顔をして、でもすぐに頷いた。

 「うん、いいよ」

 並んで歩く帰り道。ふたりとも、どこかぎこちなかった。
 それでも──心音が少し照れたように笑ったとき、胸の奥で、何かがはじけそうになった。

 (言わなきゃ、きっと私はまた笑顔のまま、置いていかれる)

 だから澄香は、ほんの少しだけ声を震わせながら言った。

 「心音って……さ、佐伯くんのこと、気になってるの?」

 心音が足を止める。

 「……え?」

 「ごめん、変なこと聞いたね。でも……なんか、最近、ずっと気になってて」

 心音はしばらく黙っていた。そして、小さく首を横に振った。

 「わからないの。自分でも。
  ただ……私の音に、寄り添おうとしてくれたって、今日言ってくれて……それが、うれしくて」

 その言葉が、まるで矢のように澄香の胸を射抜いた。

 (私も、君の音に寄り添いたかったのに)

 でも、そんな想いは飲み込んだ。
 代わりに、いつものように笑ってみせた。

 「そっか、なら……よかった」

 夕暮れの道に、ふたりの影が静かに並ぶ。
 触れそうで触れない距離。
 音と心がすれ違う、その始まりだった。