チェロを抱えると、世界が少しだけ静かになる。
 それは音を奏でるための構えだけれど、佐伯陸(さえきりく)にとっては、まるで盾のようだった。

 教室の隅。アンサンブル授業の初日。
 心音、奏多、澄香、そして陸──四人が揃った音楽室には、どこか張り詰めた空気が漂っていた。

 「とりあえず一回、合わせてみる?」

 最初に声を出したのは澄香だった。
 澄香の笑顔は相変わらず明るくて、でもどこか無理をしているように見えた。

 心音は少し戸惑いながらもうなずく。奏多は、無言のままピアノの前に座った。

 そして、音が──始まった。

 

 不器用だけど、でも確かに。
 4つの音が一斉に重なったとき、陸は思った。

 「バラバラだな……」

 誰もが少しずつ、どこかを気にしている音だった。
 心音のヴァイオリンは揺れていて、澄香のフルートは明るすぎて、奏多のピアノは冷たい。

 陸のチェロだけが、何かを埋めるように低く鳴っていた。

 心音の音──
 あのとき、あの夕暮れの講堂で、ひとりで弾いていた心音の旋律。
 まだ中学生だった自分は、その音にすがるように立ち止まった。

 あのときから、心音の音だけは、心のどこかにずっと残っている。

 

 初回の練習は、うまくいったとは言えなかった。
 演奏が終わった瞬間、誰も口を開かなかった。

 「うーん……、ちょっとテンポがバラけてたね」
 澄香がそう言って、場を和ませようとする。
 心音は
「ごめんなさい」
と、首をすくめた。

 ──謝るのは、君のせいじゃない。

 陸は言葉にできなかった。
 けれど、心音の手元をじっと見つめていた。

 小さく震える指先。
 それでも弓を離さずに持ち続けるその姿が、たまらなく綺麗だった。

 奏多が一言、ぼそりとつぶやいた。

 「君たちのテンポが安定すれば、合わせやすくなると思う」

 澄香の表情がわずかに曇る。心音も黙ってうつむいた。

 陸は、奏多の言葉が正しいと思った。でも同時に、言い方が冷たすぎるとも思った。

 

 帰り際。
 心音が音楽室に忘れ物をして戻るのを見かけた。

 「……一緒に戻ろうか?」
 声に出したのは、それが初めてだったかもしれない。

 心音は少し驚いた顔をして、でもふわりと笑って言った。

 「うん、ありがとう」

 その笑顔が、胸の奥で小さな音を立てて響いた。

 不協和音でもいい。
 たとえ誰の気持ちも、届かなくても。

 せめて、陸は自分のチェロだけは──
 心音の旋律を、やさしく支える音でありたい、そう願っていた。