週末の午後。
 音楽室の窓からは、澄んだ青空と柔らかな陽光が差し込んでいた。

 心音は、誰もいない教室の隅で静かに弓を持つ。
 あの日の練習以来、彼女の中にはある変化が芽生えていた。

 ──私は、誰に向かって音を奏でたいのだろう?

 答えは、まだ言葉にならない。でも、確かに胸の奥で鼓動と一緒に“何か”が響いていた。

 「迷いが音になる、か……」

 澄香の言葉が頭から離れない。厳しかったけれど、間違ってはいなかった。

 そのとき、扉がノックされ、誰かが入ってきた。

 「ひとりで練習? 真面目ね」

 そこに立っていたのは、澄香だった。
 フルートを抱えて、制服ではなく私服姿――淡いグレーのカーディガンに、白のブラウス。

 「……はい。あの、先日は、すみません」

 心音は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。

 澄香は苦笑した。

 「謝ることなんてない。私こそ、言い方がきつかったかも」

 「いえ……あの言葉、ありがたかったです。私、自分でも気づかないうちに迷ってて……」

 「ならよかった」

 そう言って、澄香は心音の隣の椅子に腰を下ろした。

 「ねえ、心音。奏多とは……もう、付き合ってるの?」

 不意打ちのような問いかけに、心音は目を丸くする。

 「ち、ちがいますっ! そんな……!」

 その慌てように、澄香はふっと笑った。

 「かわいい反応。……安心した、って言ったら変だけど」

 「澄香先輩は……まだ、神谷君のことを?」

 心音の問いに、澄香は少しだけ瞳を伏せた。そして、窓の外へ目をやりながら答える。

 「……うん。嫌いにはなれない。たぶん、これからもずっと」

 その声は、とても穏やかで、どこか悲しかった。

 「でもね、別れた理由は、気持ちがなくなったからじゃないの。
 ──お互い、音楽に夢中になりすぎて、“ふたり”の時間を失ったから。
 どんなに音が合っても、それだけじゃ恋は続かないんだと思う」

 澄香の言葉は、まるで自身に言い聞かせるようでもあった。

 「心音。あなたは、自分の音に“誰か”を重ねられる子だと思う。
 ……私は、そういうふうに演奏できなかったから、少し、羨ましいの」

 「澄香先輩……」

 ふいに、澄香が立ち上がった。

 「試してみる? ふたりで、合わせてみよう。あなたのヴァイオリンと、私のフルートで」

 「えっ、今ここで……?」

 「音でしか伝えられないこと、あると思うから」

 心音は小さくうなずき、ヴァイオリンを構えた。

 澄香のフルートが、優しく空気を切る。
 そこに、心音のヴァイオリンが静かに重なる。

 初めて合わせる音だった。けれど、不思議と調和していた。
 まるで澄香が風で、心音がそれに導かれる光のように──


 ふたりの旋律は、やがてひとつの歌のような色を帯び、教室いっぱいに広がっていった。



 演奏を終えたあと、ふたりはしばらく無言で顔を見合わせた。

 「……いい音だったよ。心音ちゃん」

 「澄香先輩も……とても、きれいな風みたいな音でした」

 ふたりは静かに微笑み合った。

 不協和音だったはずの関係が、少しずつまじりあっていく。

 それは、“恋”ではないけれど、“理解”という名の旋律だった。