夕方の音楽室は、放課後の喧騒が嘘のように静かだった。
 淡い西陽がステンドグラスのように床に模様をつくっている。

 心音は、深呼吸をしてから、そっと扉を開いた。

 「……神谷くん」

 グランドピアノの前に座っていた奏多が、振り返る。
 その表情には、どこか驚きと、少しの迷いがあった。

 「話せるかな、少しだけ」

 心音の声は、思ったよりも震えていなかった。

 奏多はゆっくりと立ち上がり、頷いた。
 ふたりの距離は、まだ少し離れている。それでも、前よりは近い気がした。

 「昨日……澄香に会ったの。あなたのこと、少しだけ聞いた」

 奏多の目が、かすかに揺れる。

 「……そっか。澄香は、全部話したんだね」

 「ううん、“全部”じゃなかったよ。
 あなたの口から、聞きたいと思ってたから」

 奏多はしばらく黙っていた。
 やがて、ポケットから小さな鍵を取り出すと、楽譜棚の一角を開け、中から一冊のノートを差し出した。

 「これ、見てもいい?」

 心音は頷く。中には、びっしりと書き込まれた手書きの楽譜。
 どのページも、たくさんの書き直しと、消しゴムの跡。
 ──そして最後のページにだけ、こう書かれていた。

 >《タイトル:Unspoken Harmony(言葉にならない和音)》
 >for Vn. & Pf.(ヴァイオリンとピアノのための二重奏)

 心音は息をのんだ。

 「これ……わたしたちの、曲?」

 「そう。……あの日、初めて君のヴァイオリンを聴いたあと、ずっと頭の中に響いてた。
 言葉じゃなくて、旋律でしか伝えられないと思ったから、書いたんだ」

 静かな沈黙が落ちた。けれど、その沈黙にはもう、不安はなかった。

 「なんで言ってくれなかったの?」

 心音の声は、まるで問いかけというより、そっと差し出すような柔らかさだった。

 奏多は、ピアノの前に戻りながらつぶやいた。

 「怖かったんだ。……また失うのが。
 音楽も、誰かの気持ちも。だから、ずっと“演奏”でごまかしてた」

 その横顔に、心音はそっと近づいて座る。
 気がつけば、ふたりの距離はもう、手を伸ばせば届くほどになっていた。

 「じゃあ……次は、演奏じゃなくて、ことばで伝えてみて。
 わたしは、ちゃんと聴くから」

 奏多は、しばらく心音の瞳を見つめていた。
 そして、かすかに息を吸い、ピアノの鍵盤に指を置く。

 ──けれど、音は鳴らなかった。

 奏多は、言葉で、静かに告げた。

 「ありがとう、心音。……君に、出会えてよかった」

 その一言だけで、心音の胸に、いくつもの旋律が流れ出した気がした。
 それは、たしかに音ではなく、ふたりの心が重なった瞬間だった。