その日の放課後、心音はまっすぐ帰宅することも、どこかに立ち寄ることもできなかった。
 ただ、足の向くままに歩いて、気がつけば公園のブランコに座っていた。

 少しだけ、冷たい風。
 でも、それがかえって気持ちを落ち着かせてくれる。

 (あのとき……澄香は、なんて言おうとしたの?)

 奏多の口から聞いた「まだ伝えてない」という言葉が、頭の中で何度も反響する。
 心音は、彼を信じたいと思う一方で、どうしてこんなに心がざわつくのか、わからなかった。

 すると、携帯が震えた。

 《From: 澄香》

> 「……話したいことがあるの。
 明日のお昼休みに、音楽室に来て。」



 心音はしばらく画面を見つめたあと、そっと返信を打った。

> 「わかった」





 そして翌日。昼休み。

 音楽室の扉を開けると、そこにはひとり、澄香が立っていた。
 ピアノの前ではなく、教室の中央で、まるで誰かを待つように。

 「来てくれて、ありがとう」

 そう言って、澄香は深く一礼した。
 いつもの強気な笑顔ではなく、どこか素直なまなざしだった。

 「心音さん、昨日のこと……聞いてたんでしょ?」

 「……はい。少しだけ」

 正直に言うと、澄香は微笑んでうなずいた。

 「奏多が隠してるのは、ね……“彼がピアノを弾けなくなった時期”のこと」

 心音の目がわずかに見開かれる。

 「中学の終わりごろ、彼は音楽をやめようとしてた。……というか、やめさせられそうになってたの」

 「……どうして?」

 「彼のお父さん、昔はピアニストだったの。でも怪我で演奏を諦めて……その反動で、奏多にすごく厳しくて。
 “音楽なんて、飯の種にならない”って」

 心音は息をのんだ。

 「でもね、奏多は──あの人は、音をやめなかった。
 心を閉ざしてたけど、ピアノだけは、手放さなかったの」

 澄香の目が、まっすぐこちらを見据える。

 「だから、今でも誰かにすべてを話すのは、怖いんだと思う。
 本当は、心音にだけは……伝えたかったんじゃないかな」

 静かに、沈黙が降りた。

 その沈黙の中に、たしかに“音”が聞こえた気がした。
 奏多の、震えるような音が。

 「……ありがとう、話してくれて」

 心音は深く頭を下げた。
 そして、ゆっくりと顔を上げたとき──その目は、もう迷っていなかった。

 「わたし、もう一度、ちゃんと向き合いたい。彼の音と、彼自身と」

 そう言った心音の背中に、澄香はそっと小さく「がんばって」と呟いた。