朝比奈美月は、ほとんど音を立てずに椅子へ腰を下ろした。

 音楽室の空気が、わずかに緊張する。

 神谷奏多の表情も、いつもの無関心とはどこか違っていた。
 静かに何かを噛みしめるように、彼は視線を楽譜に落とす。

 (……知ってる顔だった、明らかに)

 心音はピアノ越しに見える二人の“沈黙”に、妙な違和感を覚えていた。
 初対面とは思えない、けれど言葉の少ない距離感。

 「この曲、イ長調のピアノ五重奏ですね。ソロよりも、内声のバランスが大事なタイプ」

 美月が、何の迷いもなく言った。

 「私、オーボエは好きです。特に、こういう“綺麗すぎない”曲のほうが」

 (綺麗すぎない、か……)

 その言い回しに、奏多がわずかに眉を動かした。

 澄香はフルートを磨きながら、さりげなく問いかける。

 「朝比奈さんは、神谷くんと知り合いなの?」

 心音も、その答えを待つように目を向けた。

 美月は、一瞬だけ目を伏せ、そして微笑んだ。

 「……中学の頃、少しだけ。同じ音楽教室に通っていました」

 「へえ……」

 その言葉に、心音の胸の奥が、わずかにきしむ。

 (同じ教室……昔から一緒に演奏してたの?)

 神谷奏多は何も言わなかった。
 否定もしなければ、肯定もせず。
 ただ、静かにピアノの鍵盤に手を置いていた。

 

 その日の放課後、心音は楽譜を抱えて帰り道を歩いていた。
 空は茜色に染まりかけている。

 (私、何を気にしてるんだろう……)

 神谷と美月の間に、過去があった。それだけ。
 だけど、胸の奥が苦しくて、妙に落ち着かなかった。

 (演奏に集中しなきゃ……私たちは、アンサンブルなんだから)

 自分に言い聞かせるように呟いたときだった。

 「……日向」

 振り返ると、そこに神谷奏多が立っていた。

 「え……神谷くん?」

 「少しだけ、話せる?」

 驚きながらも、心音は頷いた。
 二人で歩いたのは、音楽科棟の裏庭。春の風が、制服の袖を揺らす。

 「朝比奈のことだけど……」

 奏多が、先に口を開いた。

 「昔、同じ教室にいた。でもそれだけ。特別な関係じゃないよ」

 「……どうして私に、それを?」

 「分からない。でも……なんか、日向が、気にしてるように見えたから」

 心音は小さく目を見開いた。
 ほんの数秒、言葉が出なかった。

 「……見てたんだ、私のこと」

 「そりゃ、見るよ。同じグループだし」

 その言い方はぶっきらぼうだったけれど、どこか優しかった。
 風が吹いた。髪が揺れ、心音の目に前髪がかかる。

 「……じゃあ、これからも、私の音……ちゃんと聴いてくれる?」

 問いかけた声は、自分でも驚くほど小さくて震えていた。

 神谷奏多は、少しだけ視線をそらし、やがて答えた。

 「……ああ。お前の音、ちゃんと聴く」

 胸の奥に、温かくて切ないものが灯る。
 でも、それが何かは、まだ分からなかった。