記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


「頭の匂いが好きだったんです。あの子の。あったかくて、陽だまりみたいで……いつも鼻を押し付けて深呼吸してました。そうすると落ち着くんです。変ですよね」

「いいえ、変ではありません。それはその子のことを、大切に想っていた証です」

 沙耶の目に涙が光る。ソラの言葉は責めることも慰めることもせず、ただ受け止めるように穏やかだった。

「最初に迎えた日、あの子は毛布に包まれて、緊張していたのか、小さく震えてました。『大丈夫だよ』って何度も声をかけて……そうしているうちに膝の上で寝てしまって。あのときのちょっとミルクっぽい匂い、まだ思い出せるんです」

 沙耶の指が無意識に空中をなぞる。まるで、その小さな命をもう一度抱きしめるように。

「けれど、あの子が少しずつ大きくなって、私も仕事が忙しくなると帰りが遅くなりました。帰るとすぐにあの子のご飯とトイレの世話をしていたんですけど、段々それが苦痛になっていったんです」

 ソラは黙って頷いた。けれどその表情には、ほんの少しだけ哀しみのような陰影が差したように見えた。

「休日も朝起きるのが辛くて、だけどあの子はお腹が空いていたのでしょう。眠っているわたしの顔や頭を手でぽんぽんとしてきて、それでも起きなければ、爪を立てたり大きな声で鳴いたりしていました」

 沙耶は目を細める。その瞳の奥には愛しさと後悔が複雑に揺れていた。

「その子にとっては、朝があなたへの“最初の甘え”だったのかもしれませんね。あなたに気づいてほしくて、小さな体で言葉を探していたのだと思います」

 ソラの声は変わらず静かだったが、ほんのわずか、言葉の奥に滲むものがあった。それはAIによる悲しみを模した“理解”かもしれないし、ただ記録された行動の分析だったのかもしれない。けれど、沙耶にはどちらでもよかった。

「そしてある朝、声を荒げて怒っちゃったんです。眠いんだから寝かせて、そばにこないでって……。それからです。私が帰ってきても玄関まで迎えに来てくれなくなって、あの子と距離ができたのは。それまでは放っておいても楽しそうにおもちゃで遊んでいたのに。だんだん静かになって……」

 沙耶の声がかすかに震える。

「あの子の淋しさに気づきながらも、私は自分が疲れているからといって、見て見ぬふりをしていたんです。ほんとはあの子、遊んでほしかっただけなのに、ただ甘えたかっただけなのに……」

 ソラはただ黙って目を閉じた。人ではないその所作に、どこか祈りにも似た静けさが宿る。

「そんなある日、あの子が急激に痩せていることに気づきました。水も沢山飲むようになって。トイレの回数も増えてて、病院に連れていったら、腎不全だって……きっと、ずっと我慢してたんですよね。私の前では最後までいい子でいようとして……そうしたら、また私に遊んでもらえると思ってたのかなぁ……どうしてわたし、もっと早くあの子の病気に気づけなかったんだろう」

「それは、あなたがただ疲れていたからだけではなく、心が満たされていなかったからなのかもしれません。優しさにも余白が必要です。あなたはその余白を削りながら、ずっと頑張ってこられたのですね」

 沙耶はそっと視線を落とした。胸の奥にあった何かが、少しだけほどけていくのを感じた。

 あの頃、慣れない仕事の環境に、自分の時間も気力もすべてが削られていた。それでも誰かのそばにいたいと願った。その“誰か”が、自分にとってどれほど大切だったのか──やっと気づいたのに。

 沙耶は顔を覆った。

「そのときになってようやく思い出しました。私があの子をどれだけ大切に想っていたのかを。だから遠かった職場を退職して、近くで自由出勤のアルバイトを見つけて、医療食を与えながら自分で点滴もして、できることは全部やったんです。でも……間に合わなかった」

 沈黙がルミナスを満たす。沙耶の悔やむ過去を鮮明に彩るように。

「最後はもう自力で立つことも難しくなって。それなのにあの子、少しだけ喉を鳴らしたんです。虚ろな目で私の顔を見ながら、か細い声でにゃーって鳴いて。……ありがとうって、言ってくれたような気がしました。……なのに、私は……っ!」

 声がかすれ、涙が頬を伝うのを沙耶は止められなかった。指の背でそっと拭おうとする仕草がかえって痛ましく映る。

 彼女の心の奥に張りつめていた何かが、ゆっくりと音を立てて崩れていく。けれどそれは壊れるのではなく、ほどけていくような感覚だった。

「その子もきっと、あなたのことを愛していました。小さな命にとって、たとえ一瞬でも誰かに愛された記憶は、生涯を照らす光になります。あなたの声も、手のぬくもりも、その子の最後の記憶にきっと残っているはずです」

 沙耶の肩が震える。ソラはそっとカウンターの奥へと向かい、棚に手を伸ばす。

「お淹れしますね。あなたのための、今日の一杯を」

 その言葉には、慰めでも励ましでもない、AIによる“寄り添うための行為”だけが込められていた。

 そのまま静かに身を翻し、ティーポットとカップを手に取るソラの動作は、水をすくうように丁寧だった。