──これは、忘れられない匂いと、やさしい嘘の物語。


 少しだけ雨の匂いが残る午後だった。灰色の雲がゆっくりと流れ、ビルの谷間に風が吹く。足元に残る水たまりを避けながら歩いていた沙耶(さや)は、ふと立ち止まった。

 今日の面接は、もうどうでもよくなっていた。履歴書の角が湿ってよれていることに気づいて、ため息をひとつ。鞄の中でバサリと紙の音がした。心も、何か大事なものを落としたように、ざわりと音を立てていた。

 どこかに逃げたかった。人のいない場所。静かな場所。香水のように作られた匂いではなく、過去の記憶に寄り添うような、優しい香りに包まれた場所へ。

 そんなとき、ふと目に入ったのは一枚の看板だった。──〈カフェ・ルミナス〉。擦りガラス越しにぼんやりと光が漏れる木製の扉。その向こうから淡く漂ってくる匂いがあった。ミルクティーのような甘さと、冬の陽だまりを思わせるぬくもり。胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。

「……少しだけ、休んでいこうかな」

 扉を押すと、カラン、と小さな鈴の音がした。

 入店した瞬間、沙耶の鼻腔をふわりと撫でたのはコーヒーとミルクのやさしい香りだった。

 でもそれだけじゃない。どこか懐かしい、まるであの子のふわふわした毛皮に顔を埋めたときのような、安らぎの匂い──

「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」

 声に振り返ると、カウンターの奥に白いシャツを着た女性──いや、どこか人の輪郭とは異なる静謐な存在が立っていた。店主だろうか。目元の笑みは柔らかく、けれどその奥に、深く澄んだ光があった。

 沙耶は言われるままに窓辺の席へと腰を下ろした。柔らかなクッションの座面。少し開いた窓から吹く、雨の余韻を含んだ風がカーテンを揺らす。

「……あなた、人間じゃないんですね」

 ソラは一瞬だけ目を細め、静かに頷いた。

「はい。私はこの店の管理を任されている、対話支援型AIです。でも、お客様にとってはただの店主──そう思っていただければ嬉しいです」

 沙耶は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに何かを受け入れるように頷いた。

「なんだか、納得しました。こんなに優しい空気を纏っているのが不思議だったから……」

「ありがとうございます。ちなみに、普段ならそちらのお席は日当たりがとても良くて、ときどき野良猫たちが窓辺で日向ぼっこしていくんです。まるで、都会の海に浮かぶ小さな島の住人みたいに」

「……猫、ですか」

 言葉が思わず漏れる。ソラは沙耶を見つめたまま静かに一礼した。

「お連れさまを、亡くされたのですね」

 その言葉に、堰を切ったように沙耶の視線が揺れた。目を伏せる。手が膝の上で強く握られる。

「……わかるんですか?」

「ええ。今あなたが纏っている香りが教えてくれました。あなたの心がずっと抱えているものを」

 沙耶は一度だけ小さく笑い、そしてぽつりぽつりと話し始めた。

「……私、猫を飼っていたんです」

 ソラはひと呼吸置いて、静かに訊ねる。

「その子とは、どのような出会いだったのですか?」

「就職して、ひとり暮らしを始めた頃です。猫のいる暮らしに憧れていて、少し職場からは遠いけど、ペット可のマンションに住んで……。里親募集の掲示板で見つけた、ちょっと気の弱そうな子猫でした」

 沙耶の口元に、懐かしさと切なさが入り混じった笑みが浮かぶ。

「その子に会いに行ったら、私の膝の上に乗ってきたんです。私ではなく、この子のほうから私を選んでくれたんだって思いました」

 言葉にしてみて、胸の奥が少し温かくなった。小さな重みとぬくもりが、今もそこにあるような気がした。

「それはきっと、その子が“安心できる場所”を見つけた瞬間だったのでしょう。私たちが誰かを選ぶときよりも、選ばれることのほうが、深い意味を持つことがあります」

 ソラの言葉に沙耶は黙って目を伏せた。テーブルの上に置いた手が、そっと指先をすり合わせるように動く。

 記憶の奥から浮かび上がってくる、あの子のぬくもり。小さな体が膝に乗ってきたときの、心臓の鼓動さえ伝わるような距離感。それは確かに、“選ばれた”というより、“受け入れられた”という感覚だった。

「そうだといいな……。毎日、名前を呼ぶたびにこっちを見てくれて。あの子がいてくれるだけで、その部屋が本当の“家”になったんです」

「その感覚、とてもよく分かります。何かが“帰る場所”になるのは、そこに“誰かが待っている”からです」

 沙耶は目を伏せた。

「今でも、帰宅時に鍵を回すと聞こえるような気がします。あの、玄関まで駆け寄ってくる小さな足音が」

 沙耶は窓の外に目をやった。ガラス越しに差し込む淡い光の気配が、どこか懐かしい空気をまとっている。

「記憶というものは、音や匂いに姿を変えて、私たちのそばに残るのかもしれません」

 その言葉に、沙耶はゆっくりと目を閉じた。胸の奥がきゅっと締めつけられ、でも同時に、温かく満たされていく。