大きなガラス越しの光が、ひっきりなしに行き交う人波の合間を縫うようにロビーの床を柔らかく照らしている。
季節の境目──まだ少し冷たい風が吹く頃の光は、まるで薄いフィルムをかけたように、慌ただしい空間をほんのりと包み込んでいた。
桜良と修星は並んで空港のロビーを歩いていた。修星が引くスーツケースのキャスターが白い床に乾いた音を刻んでいく。その響きが妙に頼りなく感じられた。
ふたりの間に流れるひとときの静寂。すぐ近くにいるのに、どこか遠く感じられる──そんな距離。
スーツケースを預けて、あまり来ることのない空港の中を散策したあと、保安検査場へ向かう途中のラウンジでふたりは腰を下ろした。案内アナウンスが流れ、どこかのゲートで搭乗が始まったことを知らせていた。早起きした疲れと、もうすぐ来る別れの予感が、ふたりの間に静かな重力を生んでいる。
「……昨日さ」
修星がふいに口を開いた。
「ソラさんのコーヒー、すごくあったかくて、胸に染みたよな」
「うん。なんていうか、心の奥まで届く感じだったね」
桜良はそっと頷いた。
「最後に、ちゃんと話せてよかった」
「ううん、わたしの方こそ。ちゃんと伝えられてよかった……気持ち、全部」
修星が鞄から小さくて古びたフィルムカメラを取り出すと、どこか愛おしそうな眼差しを向けてそっと撫でる。少し角がすり減っているけれど、でも手に馴染むぬくもりが残っているようだった。
「これ、持ってて。俺がカメラを好きになったきっかけの、最初の一台なんだ」
そう言いながら、桜良に向けてそっと差し出す。
「……いいの?」
「うん。桜良に今のこの街を残しておいてほしい。俺がいない間の景色とか、季節の匂いとか、それから、これで撮ってほしいんだ、桜良の毎日を」
カメラを受け取る桜良の指が、ほんの少しだけ震えていた。けれど、それを隠すように桜良はそっと笑ってうなずいた。
「ありがとう。たくさん撮るね。……いつかきっと、見せに行くから」
館内放送が出発時刻の接近を知らせる。空港独特の機械的な声が、現実をはっきりと切り取っていた。少しざわめき始めたロビーの空気が、ふたりの間に柔らかな境界を引く。
「行ってくる。絶対、夢叶えてみせるから」
「うん。わたしも、ここで必ず夢を見つけて歩く。だから大丈夫」
立ち上がった修星の隣で、桜良もゆっくりと立ち上がる。ふたりの視線がまっすぐに重なる。どちらも笑っていたけれど、そこにあるのは簡単には言葉にできない想いだ。
「……泣かないで、ね?」
修星が言う。優しい声で、でもどこか自分にも言い聞かせるように。
「うん。もう泣かない。ちゃんと笑って見送るって、昨日から決めてたから」
それでも瞳はわずかに潤んでいた。最後の数秒、ふたりは言葉を交わさなかった。互いのぬくもりを確かめるようにそっと手を重ねていた。
修星は深く息を吸い込んでから、振り返らずに出国ゲートへと歩き始めた。
桜良はその背中を見送りながら、そっとカメラを胸に抱きしめた。涙はもう出なかった。ただ、心の奥でなにかがそっと音を立てて動き出した気がした。
ゲートの手前で、修星がふいに振り返る。
風が吹いた。髪が揺れた。桜良はなんとか笑ってみせた。修星は少し照れたような笑顔と共に声を張った。
「必ず帰ってくるから! 約束する!」
「うん! 行ってらっしゃい、修星!」
その声に修星はもう一度だけ頷いてふたたび歩き出した。午後の光が彼のシルエットを淡く包み込み、やがてその姿はゲートの向こうへと消えていった。
涙は流さなかった。ただ穏やかな時の中で静かに微笑んでいた。それは約束の笑顔だ。その笑顔には、ふたりの未来への祈りが宿っている。
修星の背を見送ると、桜良は展望デッキまで足を運んだ。
彼に託されたカメラを胸に抱いたまま、小さく深呼吸をする。いつもの街の空とは違う、広くて高い空がそこにあった。少しだけ背伸びをして、彼女はまっすぐ前を向いた。
どこまでも広がる空の下、ひときわ大きな機体がゆっくりと移動している。 尾翼に描かれたエンブレムがきらりと陽を返す。あれが修星の乗った飛行機だ。
見える風景はどこか夢の中のように感じるくらい静かだった。音は遮られ、ただ視界の中で光と風がゆらめいている。遠ざかっていく機体を見つめながら、桜良は両手で胸元のカメラを抱きしめる。
——修星は夢を追いかけて、あの空の彼方へと飛んでいくんだ。
見上げた空にはいくつかの雲が漂っていた。そのすき間から覗く青がどこまでも清らかで、まるでこれから始まる未来の色のように思えた。
機体は加速し、やがて大地を離れる。桜良の胸にも風が吹いたような感覚が走る。
——飛んだ。
その瞬間ふいに涙がこぼれた。だけどこの頬を伝う雫は決して悲しみだけじゃない。それはきっと、ひとつの終わりと、新しい始まりの両方を孕んだ優しい涙だ。
桜良はふと胸に抱えていたカメラを見下ろした。
その少し古びたフィルムカメラに触れるたび、彼のぬくもりが残っているような気がする。
桜良はそっとファインダーを覗く。空へと舞い上がる白い機影が、画面の中心に映る。
——この瞬間を残しておきたい。
カメラのシャッターを切る音が、風にやさしく溶けた。それはまるで、ふたりの記憶にそっと印をつけるような音だった。
修星が旅立つ空と、彼を想う今のわたし。そのすべてがこの一枚の中に刻まれた気がした。
桜良はファインダーから目を離し、そっとまぶたを閉じた。
胸の奥にあたたかな決意が灯っている。
空に舞い上がる機影はしだいに小さくなっていく。やがてそれは陽の光に溶けるようにして見えなくなった。
桜良はその場に立ち尽くし、しばらく空を見つめ続けた。そしてまたそっと目を閉じる。まぶたの裏に彼の笑顔が浮かんでいた。あの声も、あの手の温もりも、全部ここに残っている。
風がそっと髪を揺らした。それはまるで、遠い空の彼方から吹いた風のようだった。
「……行ってらっしゃい、修星。わたしもここでがんばるからね」
【本日の一杯】
◆セピア・メモリーズ
産地: 記憶と夢の狭間、誰かの胸の奥にそっと灯る風景。黄昏が息づく、過去と現在のあわい
製法: 時間と思い出をゆっくりと抽出し、静かに熟成。過ぎゆく季節のひとしずくを集め、静寂のうちに蒸らして
香り: 乾いたノートのような紙の香りに、微かなチョコレートと木漏れ日の余韻。微睡むような木漏れ日と、遠い午後に交わした約束の余香
味わい: ほろ苦さと甘やかさが交錯し、心の奥に静かに染み入る。ほろ苦い別れの中に、かすかな甘みと、言葉にならない温もりを残して
ひとこと:「時の彼方に沈んでも、忘れられない記憶があります。一瞬のまなざし、つないだ手のぬくもり──それは、あなたの心に残る「さようなら」にそっと寄り添う風のようなもの。別れの朝、あなたがくれたあの静けさは、私の中で今も温かく、澄んでいます。この一杯が、記憶の頁をそっとめくる風になりますように。きっと誰にも、そっと春の光が差し込んできます」


