気がつけば、店内は桜良ひとりになっていた。
コーヒーはもう冷め切っていて湯気も消えている。修星に向けた言葉たちが、ひとつひとつ、桜良の胸を締めつける。
『行って来なよ』 『また会えるじゃん』 『遠くないよ』
『別に大丈夫』 『気にしなくていい……』
カップに手を添えたままじっと動かずにいた桜良の瞳から、一粒の涙が落ちた。
——ぜんぶ、うそだよ。
……きっとどれも、優しさの仮面をかぶった『さよなら』だったんだ。
カフェ・ルミナスの窓の外で、風がそっと春を運んでいる。涙はとめどなく溢れていく。
そんな桜良のもとへ、ソラが静かに近づいていく。手には空になったカップと同じものがもうひとつ、微かに湯気を立てていた。
「温かいものを。……どうぞ」
そう言って、ソラはテーブルに新しいカップを置いた。
「ありがとう……ございます」
桜良は涙を拭い、カップを両手に包み込む。
「……本当は、引き止めたかったんです。でも、もしもわたしが『行かないで』って泣いて伝えてたら、きっと、修星を苦しめてた……」
「よく、我慢されましたね。立派です」
ソラは桜良の言葉を待つように、穏やかな眼差しを向ける。
「でも、ちゃんと『好き』を伝えられたから、十分かなって……うぅっ!」
最後は言葉にならない声だった。言い終えると、桜良はまた大粒の涙をこぼした。そんな桜良を見て、ソラが静かに言葉を紡ぐ。
「わたしも、かつて同じように──ある大切な人を見送ったことがあります」
その声に、桜良は顔を上げた。ソラの瞳はやさしい光を湛えていた。
「その人は、小さな頃からずっとそばにいた大切な存在でした。ある日、事情があってわたしのほうから姿を消したけれど……心の中に残ったものは、今も消えていません。そして──ようやく、再会を果たすことができました」
「……再会、したんですか」
桜良がぽつりと呟く。ソラは小さく頷いた。
「ええ。ただ、それまでに長い時間がかかりました。いくつもの季節を越えて……ようやくです」
桜良は目の前のカップを見つめながら言った。
「わたしは……そんなふうに待てるかな。忘れられてしまうかもしれないって思うと……胸が苦しくなる」
「忘れることは、想いが消えることと同じではありません。わたしも再会を果たしたとはいえ、今はその人に、忘れられていますから」
「え? それってどういう……」
最後まで聞く前にソラはにこりと微笑みながら片目を閉じると、これ以上は内緒と言わんばかりに口元に人差し指を添える。
ソラのその動作は柔らかくもどこか芯が通っていて、桜良の胸の奥にすっと染み込んでいった。
「ですが、想いは形を変えて、静かに人の中に残り続けます。たとえ記憶に残らなくても、心が覚えていることがあるのです。それは、ときに夢として現れることもあるでしょう」
ソラの言葉に、桜良は一瞬だけまぶたを伏せた。
それからそっと目を開き、ゆっくりと問いかける。
「……心って、本当にそんなに、ちゃんと覚えていてくれるものなんですか?」
「ええ。とても静かに、でも確かに。時には忘れたふりをして、胸の奥にしまい込んでいても……ふとした瞬間に、風の匂いや、誰かの声に重なって、よみがえることがあります」
「……なんか、わかるかも。季節のにおいとか、音楽とか。意味もなく涙が出そうになるときがあります」
ソラは優しく頷いた。
「それはきっと、心が今もその記憶を抱いている証です。そしてその記憶は、あなたの大切な一部になっています。それはきっと、彼も同じです」
桜良はしばらく何も言わずにカップを両手で包んだまま、うつむいていた。けれど、やがてぽつりとつぶやくように口を開いた。
「……わたしって、弱いなって思ってたんです。泣いてばかりで、過去にしがみついてばかりで……でも、それじゃいけないのかもしれないって、少しだけ思えました」
「涙を流せるのは、心がまだ生きているからです。強くなろうとする気持ちも、忘れないでいようとする気持ちも、すべて“優しさ”のかたちです」
桜良は顔を上げ、少しだけ笑った。
「ソラさん、ありがとう。……なんだかわたしも頑張れそうな気がします」
「悲しみを抱えているということは、それだけ心がまだ、誰かを大切に思っている証です。そして朝の光のように、どんな痛みのあとにも、必ず始まりは訪れます。……きっと桜良さまにも、新しい風が吹いてくる日がやってきますよ」
その言葉に、桜良の瞳がほんのわずかに潤む。
けれど、今度は拭わなかった。
その涙の意味を、受け止められる気がしたから。
目の前のカップに視線を落とすと、コーヒーからほのかに立ちのぼる湯気がふわりと揺れていた。
桜良はゆっくりとカップを持ち上げ、そっと口元に運んだ。
その瞬間、胸の奥に微かな温もりが広がっていく。
まるでちいさな光の粒が、凍えていた心にぽとりと降りてきたかのように。
——ああ、やっぱりソラさんのコーヒーは優しいな。
そんな思いが胸に満ちていった。
「わたしも……行かなきゃ」
「はい。きっと桜良さまにも、特別な春が訪れます」
ソラがやわらかく微笑む。
「そして“心が求める一杯”、見つかりますように」
桜良は小さく頷き、窓の外を一度だけ見やってから店の扉へと向かった。
春の風がそっと吹き込んできた。
カラン、と鈴が鳴った。
その音は、消えゆく記憶のかけらのように、店内にふわりと残っていた。


