記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


 桜良は視線を落とし、テーブルの木目をぼんやりと見つめる。

 ──この場所で最後になるかもしれない。

 そんな思いが胸に淡く広がっていた。

 やがてソラが戻ってきて、やわらかな湯気をまとったカップがふたりの前にそっと置かれた。

「お待たせしました。こちらがおふたりへ贈る本日の一杯──《セピア・メモリーズ》です」

 桜良と修星の前に、それぞれ異なる色合いのコーヒーがそっと置かれる。

 一つはやわらかなミルクにほのかに桜を溶かしたような淡い色をしていて、もう一つはやや深みのあるブラウンにかすかなスパイスの香りが漂うコーヒーだった。

「それぞれのお気持ちに合わせて、お作りいたしました」

 そう言って微笑むソラの声は、どこまでも穏やかだ。

 桜良がそっとカップを手に取ると、指先にじんわりと温かさが伝わる。口に含んだ瞬間、ほろ苦さの中にふわりと甘い余韻が広がった。それはまるで、忘れられない思い出のような味わいだった。

「……懐かしい、味がする」

 桜良がぽつりと呟くと、修星もゆっくりひとくち目を啜る。

「こっちは少し力強くて、背中を押されるような……そんな味だ」

「“セピア・メモリーズ”は、夢への旅立ちを照らすための一杯です。おふたりの心の奥にある色褪せない思い出を、そっと包みこむよう願いを込めて作りました」

 ソラのその言葉に、ふたりはどちらからともなく目を合わせる。言葉はなかったけれど、交わされた視線の奥には、互いを想い合う確かな気持ちが芽生えていた。

「おふたりの心に残る想いが、やさしく響き合いますように」

 ふたりは照れ臭そうに微笑み合う。言葉を交わさなくても、この空間がすべてを語っているように感じられた。

「では、ごゆっくりどうぞ」

 そう言ってソラがカウンターへと引き返していくと、ふたりとも小さく微笑み、そして俯いた。

「……いよいよだね」

 桜良の声に、修星がゆっくりと頷く。

「うん。いろんな人に応援してもらって……行くしかないなって思った」

「胸張って行ってきなよ」

 その言葉はあまりにも自然に、でもどこか力強く口をついて出た。

「日本とも、しばらくお別れだな」

「うん」

 わたしの返事はコーヒーの香りに紛れて、少し震えていた。

「不安もあるけど……でも、頑張ろうと思う。やっぱり、やってみたいんだ」

 その言葉に、わたしはゆっくりと頷いた。

「うん。……わかってるよ」

 彼が夢を追うこと。それを止められないこと。 そんなの、ずっと前から気づいていた。

「桜良は、将来どうするの?」

「わたしはたぶん、この町に残るよ。大学も地元だし」

 いつか一緒に同じ大学へ行くと思っていた。それがわたしの小さな夢、ふたりの夢だと信じていた。けれどその夢は、いつのまにかわたしだけのものに変わっていた。

「そっか」

 ふたりの間に音のない時間が流れる。でもそれは気まずさじゃなくて、心の奥に降り積もっていく静かな時間だ。

「……なあ、桜良」

 修星がわたしの手をそっと握った。

「離れても、俺たちは変わらないよな?」

「……うん」

 ほんとは言いたかった。変わらないよって、信じてるよって。でも、どこかで分かっていた。夢を追って走る人と、夢を求めて彷徨う人とじゃ、きっと世界が変わってしまう。

 ──このままじゃいけないんだ。

 わたしは覚悟を決めて、口を開いた。

「修星、好きだよ。いまでも、これからも、きっとずっと」

 彼は驚いたようにこちらを見て、それから小さく笑った。

「ありがとう。俺も……桜良のことが好きだ。すごく大事に思ってる」

 ──思ってる。 その言葉の“現在進行形”に、わたしは少しだけ希望を感じてしまう。

「本当は、桜良と離れたくないんだ」

 修星の顔が歪む。

「そんなこと言わずにさ、わたしのことは気にせず、行って来なよ」

 しかし、修星は俯いたまま何も答えない。そんな彼に、わたしは言葉を重ねていく。

「また会えるじゃん。ニューヨークなんて遠くないよ。アルバイトして、お金貯めてきっと会いに行くよ。わたしは別に大丈夫だから……ね?」

 ひとつひとつ、言葉を選ぶように紡ぐ。顔に笑みを貼り付けながら、でもその奥で何かを必死に抑えていた。

 修星はじっと桜良を見つめた。

「……ありがとう」

 ——それから何時間が過ぎただろうか? ふたりでたくさん思い出を語り合い、修星がいよいよその言葉を口にする。

「じゃあ俺、そろそろ行かなきゃ」

「……うん」

「桜良はどうする?」

 そう言って、彼は立ち上がる。

「わたしは、もう少しここにいるよ」

 修星はコートを羽織り、「そっか」と呟く。そして、わたしに差し出される右手。わたしもその手を、そっと握り返す。

「見送り、待ってるね」

「もちろん……。じゃあ、気をつけてね」

 扉の鈴が、やさしく鳴った。