記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


「桜良。……俺さ、来週東京に行くことになった」

 リビングのソファに並んで受験勉強していたある日の夕方、彼がそう告げた。結局ふたりは同じ大学を目指していた──はずだった。

「え? 東京? 急にどうしたの?」

 どきんと心臓が跳ねた。うまく呼吸ができなくて、それ以上言葉が出なかった。

「写真のこと。例の海外の人、覚えてる? この前のコンクールのやつ。直接話したいって連絡がきたんだ。向こうが本気らしくて」

 わたしは無言で頷いた。

「桜良にちゃんと話しておこうと思って。まだ決まったわけじゃないけど……でも卒業したら行くことになるかも」

「うん」

 言葉が見つからない。きっと、ここで引き止めてはいけないのだと思った。
 彼の夢を応援しなきゃ。そう思って笑おうとした。でも口角がうまく上がらなかった。

「す……すごいね。修星かっこいい」

「ほんとにそう思ってる?」

「もちろんじゃない。応援してるよ」

 わたしの声は少しだけ震えていた。

「ありがとう、桜良。だけどまだどうなるか分かんないから、受験対策は続けなきゃな」

 修星の声は優しくて温かかった。わたしの気持ちを全部わかっているような、そんな声だった。

 その夜、帰り道に寄ったコンビニの前で彼がふいに手を握ってきた。

「……俺さ、ちゃんとするから」

 その言葉の意味は聞かなかった。 聞いてしまったら、なにかが壊れてしまいそうで。

 重ならない足音は、もう、わたしたちの間に確かにあった。

 けれど、それでも。もう少しだけでも彼に近づきたくて。わたしは彼に置いていかれないよう必死に歩幅を探していた。

 ◇

 ──そして今、高校最後の冬の放課後、わたしたちはいつもの中庭のベンチに座っている。空はすっかり夕暮れ色で、吹奏楽部の演奏もどこか遠く聞こえる気がした。

「日本を発つ前にさ、どこかふたりで行きたいとことかある?」

 修星がぽつりと尋ねた。

「行きたいとこ?」

「うん、高校生最後だし、旅行とか行けたらいいよな」

「……うん、そうだね」

「桜良はどこ行きたい?」

 そう聞かれて思わず口をついて出たのは、自分でも意外な場所だった。

「……ルミナス」

 記憶と夢の珈琲店──なんとなくあの場所が浮かんだ。というより、あの場所以外浮かばなかった。修星は意外そうに目を丸くして、それから笑った。

「え、そんな近くでいいの?」

「うん、卒業式が終わったらルミナスに行きたい。最近勉強が忙しくて行けてなかったし」

「わかった。じゃあ卒業式のあと、ふたりでルミナスへ行こうか」

 その笑顔にほっとした。──まだ同じ景色を見てくれてる。そう信じたかった。でも修星の足音は、いまや遠ざかる音に変わっていた。

 わたしはその音に気づかないふりをして、今日も彼の横を歩く。

 いつかこの歩幅の違いがふたりの距離になる日が来るのだとしても、今はまだ、彼の隣にいたかった……。

 卒業式が終わり、静けさを取り戻した学校の門をふたりで並んで出た。春の気配がほんのりと香る。遠ざかっていく喧騒に背を向けるように、ゆっくりと歩いていく。

「……明日、だね」

「うん……、午後の便で日本を発つよ」

 それだけの言葉が重くのしかかる。その一言が胸の奥に静かに沈んでいくようだった。

 三月の風はまだ少し冷たかった。でもそれよりも心が冷えていくのを、わたしはずっと感じていた。

 卒業式から帰って、一度着替えてから改めて落ち合うことになった。

 制服を脱ぐのがちょっと名残惜しい。せっかくだし、いつもより少しだけお洒落してみようかなとか考えたけれど、結局普段通りの服に着替えた。

 彼に会うのはこれが最後かもしれないな。そう思いながら待ち合わせの駅前に向かう。

 彼はいつものように笑って現れた。 まるでなにも変わらないかのように。

「待った?」

「ううん。わたしもいま来たとこ」

 本当は十五分も前から来ていたけれど、それは言わなかった。だってわたしも、なにも変わらないふりをしていたから。

「じゃあ、行こうか」

 修星の声と同時にルミナスへと歩き始める。付き合い始めてからずっと、ふたりでよく来た場所。そしてあの日、わたしがぽつりと口にした最後に行きたい場所。ほんの冗談のような、でもずっとふたりで一番長い時間を共有した──記憶と夢の珈琲店。

 扉を開けるとやわらかな鈴の音が店内に響いた。午後の陽射しがカーテン越しに淡く差し込んでいる。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 木の床をすべるような足音と共に現れたソラさんに案内されて、いつもの窓際の席へと腰を下ろした。

「お久しぶりです。ソラさん」

 修星が笑顔で挨拶を交わす。たとえ相手がAIだとしても、修星は決して敬意を忘れない。そんなところもわたしが彼のことを好きな理由のひとつだ。

「今日のおふたりは、少し特別な風を纏っておいでですね。春が、ひとつ深くなったような」

 その言葉に桜良と修星は同時に顔を上げた。

「ソラさん。俺たち今日、高校を卒業しました」

 修星が照れくさそうに笑いながらそう言うと、ソラはふたりをゆっくりと見つめてから優しく頷いた。

「ご卒業おめでとうございます。そんな特別な日にルミナスを訪れてくださったことが、私にはなによりも嬉しいです」

「ありがとうございます」

 桜良が小さく微笑む。だけどその瞳にはほんの少しだけ迷いの色が浮かんでいた。

「でも、実はそれだけじゃなくて……」

 修星がそう言いかけたところで、桜良はふと視線を落とす。

「明日から俺、ニューヨークに行くんです。フォトグラファーの仕事で。まだまだ腕は未熟だけど、向こうで本格的に始まるかもしれなくて」

 その声には確かな決意があった。でもそれと同じくらいの迷いがあることを、ソラは見逃さなかった。

 ソラはふたりの表情を交互に見つめ、ひと呼吸置いてから静かに言葉を紡ぐ。

「旅立つ人の眼差しには、必ず、揺らぎという風が宿ります。背を押す風か、あるいは引き止める風か……それはその人だけが知っているものです」

 修星がふっと笑った。

「やっぱり……ソラさんはなんでも分かっちゃうんですね」

 桜良も小さく笑う。その笑みの奥にある寂しさが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

「……このお店って不思議ですよね。なにかを言いにくいときでも、ここに来るとちゃんと話せるような気がして」

 ソラはやわらかく目を細める。

「ありがとうございます、桜良さま。心の奥にある言葉ほど、穏やかで落ち着ける場所を探しているのかもしれません。ここなら安心して話せると、そう感じていただけたなら幸いです」

 ソラがそう言い終えると、店内に一瞬だけ音のない時間が訪れた。修星は手元に視線を落とし、桜良はそっと背筋を伸ばす。ふたりの間を流れる空気に、目に見えない揺らぎの気配が立ちのぼる。

 ソラは声のトーンを少しだけ落として続けた。

「揺らぎの風が心の奥に触れるとき、人は、ほんとうの想いに気づくのかもしれません。もしもこの場所がそのきっかけになれたなら、私も嬉しいです」

 桜良と修星は互いに顔を見合わせることなく、それぞれの思いにそっと身を委ねていた。

 そんなふたりの迷いを優しく受け止めるように、ソラが微笑む。

「今日はおふたりにふさわしいものをお淹れいたしましょうか。新しい一歩の前に、心の輪郭がほんの少し整うような──そんな一杯を」

 修星が小さく深呼吸をして頷いた。

「じゃあ、ソラさんのおすすめでお願いします。俺たちのこと、なんか全部わかってくれてる気がするから」

 桜良も頷いたあと、ふと視線を窓の外に向けた。

「わたしもお願いします。実を言うと、今日はソラさんに選んでもらいたい気分だったので」

 ソラはその言葉を受け止めるように頷いた。

「かしこまりました。心が求める一杯──少々お時間をいただきます」

 その声音には、どこまでも澄んだ余韻が残っていた。