記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


 しばらくして詩織はそっと席を立ち、ビビのリードを手に扉の方へと向かう。

「今日はありがとう。それから、騒がせてごめんなさい。……また来てもいいかしら」

「もちろんです。お待ちしております」

 ソラの穏やかな声に詩織は微笑み、小さく頭を下げた。その背を見送りながら円香がぽつりとこぼす。

「騒いだのは私だけなんだけどね。どうせ私なんて犬以下よ」

「おいおい」

 アケミが苦笑する。

「でも……ビビか。あの子は悪くなかったかもね」

 そのやりとりを聞いていたソラが、カウンターの奥から声をかけた。

「円香さまが話された怖かった日の記憶。あなたがそのトラウマを言葉にしてくださったこと。そして今日、ビビと共に過ごした時間。それがどれほど勇気のいることか、私は知っています。けれど今日、その日を抱えて生きてきたあなたがもしも少しでも安らげたなら。それは私にとってなによりも尊い(あかり)です」

 その言葉をカウンター越しに聞いていた円香は、少しだけ眉を動かした。

「……変な店ね。AIのくせにまるで心があるみたいな言い方してさ」

 その呟きには、皮肉とも照れ隠しともつかない響きがあった。


 数日後の午後、アケミは再びルミナスを訪れていた。

『少しだけでいいから、彼女と話をしたいの。できるかな?』

 『詩織さまの静けさは、いつも誰かの声を待っている気がします。あの方は、いつだって心を開いてくださる方ですから』

 ソラとのやりとりを思い出しながら、店内を見渡す。

 この店に通い慣れた自分だからこそ見過ごせなかった。詩織もきっと、ここに自分だけの居場所を見つけたひとり。そして、おそらくは――円香もまた。

 ソラと軽い挨拶を交わすと、一番奥の静かな席へと進んでいく。

 詩織のそばにはビビが詩織を護るように身を横たえていた。アケミの足音が近づくと、やわらかな耳がそっと揺れる。

 少し躊躇うように立ち止まったあと、アケミは小さく息をつき、ゆっくりと向かいの椅子を引いた。詩織の前に腰を下ろすと、両手を膝の上で組み少しだけ深呼吸する。

「詩織さん……。この前は、友達が失礼なことを言ってすみませんでした」

 伏し目がちにこぼれた声でそう言いながら、アケミは小さく頭を下げた。

「あの子、悪気はないんだけどちょっと不器用なとこがあって。自分の気持ちをうまく言えないだけなんです」

 詩織はゆるやかに首を横に振って、やわらかな笑みを浮かべる。

「大丈夫です。円香さんの気持ちも、ちゃんと伝わってきていましたよ」

 アケミはほっと息をついた。

「ありがとうございます。ビビがもうすぐ引退するって聞こえてきて、あの子なりにもいろいろ思うところがあったみたいです」

 詩織は小さくうなずき、目を閉じたままゆっくりと口を開いた。

「犬が苦手な方にとっては、たとえ盲導犬であっても同じように怖い存在かもしれません。私のほうこそ、驚かせてしまってごめんなさいね」

 その優しい声に、アケミの胸の奥にふっとぬくもりが灯る。

「詩織さんって、なんかすごいですね。話してるだけで心がほどけていく気がします」

 笑顔でそう言ったアケミに詩織は静かに微笑み返し、バッグの中から一枚のレター用紙を取り出した。

「これ、あの日綴っていたエッセイです。よければ円香さんにも読んでいただけたら嬉しいです。ビビのことを気にかけてくださっていたみたいなので」

 アケミは小さく頷き、それからそっと手を伸ばす。

「……ありがとうございます。必ず伝えますね」


 その晩、円香の部屋はしんとした静けさに包まれていた。

 アケミはテーブルの上にやわらかな花影が揺れるレター用紙を置く。

「読んでみて。たぶん損はしないから」

 円香は一瞬だけ視線を落とし、ためらいがちにレター用紙を手に取る。指先に触れたそれは息づくようなあたたかさを帯びていて、まるで詩織の声が耳元でそっと囁いてくるようだった——。

『あなたと歩き始めて、もう八年が経ちました。

 はじめの頃は、ただ頼るだけで精一杯。見えない世界の中で、あなたの足音だけが私の地図だったのです。

 けれど、いつの間にか——あなたの歩調に私の心が合ってきた頃から、私は世界を信じてみようと思えるようになった。

 風の匂い、雨音のやわらかさ、街のざわめきに混ざった子どもの声。 見えなくても、たくさんの幸せがそこにあることを、あなたが教えてくれた。

 あと少しで、あなたは引退する。その日が近づくたびに、胸がぎゅっと苦しくなる。私のそばにもういなくなるのだと想像するだけで、涙がこぼれそうになるの。

 でもね、ビビ。 あなたと過ごしたこの八年は、ただの盲導犬との日々じゃない。私が世界とつながり直した、大切な時間だった。どんな思い出よりも、あたたかく、誇らしい時間。

 だから今、私はこの気持ちを残したいと思う。これは、あなたへの——手紙のようなエッセイです』

 円香は最後まで読み終えたあともしばらく言葉が出なかった。アケミはなにも言わずに、隣で両膝を抱えて座っている。

 やがて、円香の唇が小さく動いた。

「……どうして、あんなに凛としていられるんだろう。怖かったはずなのに、あの人はなにも見えないのに。あの子の隣だとちゃんと前を向けるんだね。……私とは大違い」

 アケミがふっとやわらかく笑う。

「でもさ、読んだでしょ。詩織さんも最初から強かったわけじゃないって。怖かった日々があって、それでもビビと一緒に少しずつ歩いてきたんだよ」

 円香は黙ったまま小さくうなずく。そしてぽつりと続けた。

「……私にも見つかるかな。そんなふうに思える相手が」

 アケミが不貞腐れたような声で言った。

「あんた、あたしの存在無視してない?」

 窓の外、風が葉を揺らす音に、ふたりの笑い声が溶けていく。

 その暖かさの中で円香はそっと感じていた。——たとえ心に距離があっても、その間にひとひらの優しさを置くことはできるのかもしれない、と。

 そして今、その優しさが自分にもそっと触れてくれたような気がした。
 ふと見上げた夜空には、雲の切れ間から月明かりが射し込んでいた。


【本日の一杯】

◆ソルティ・キャラメル

産地:月影の谷で実った、塩風に育まれた琥珀豆。潮騒が、豆の奥に微かな記憶を宿します

製法:低温でゆっくり焙煎し、最後にひと粒の岩塩を添えて。甘さの中に、ほんの少しの揺らぎを残しました

香り:焦がしキャラメルのような、やわらかな甘さ。懐かしい誰かの声を思い出すような、ぬくもりの香り

味わい:やさしい甘みに、ほのかな塩味が寄り添う。まるで、言葉にできない想いが胸に滲むような、深い一杯

ひとこと:「心に距離があっても、その間に、ひとひらの優しさを置くことはできる——。この味が、その記憶とともにありますように」