からん——。
静かな鈴の音が、店内に控えめな余韻を残す。
いつになく賑わっているカフェ・ルミナス。その奥のカウンター席ではアケミが他愛のない会話を交わしていた。アケミの隣には長い髪をきっちり結い上げた女性、円香が座っている。白のカーディガンに膝丈のワンピース、ブランド物のトートバッグを椅子にかけ、どこか不機嫌そうにカップを見つめていた。
「円香、ここ雰囲気いいでしょ? 最近のお気に入りなんだ」
「ふーん……まあまあかな」
円香はぶっきらぼうに答えつつも、ちらりちらりと店内を見渡していた。アケミが隣で小さく笑うのを横目で見ながら、そっとカップを持ち上げる。
カウンターではAI店主のソラが忙しそうにしながらも一人ひとりの客へ丁寧に対応している。その所作は滑らかで、まるで風景に溶け込むようだった。
そして再び扉が開き、店内に新たな客が訪れた。
落ち着いたベージュのコートに身を包んだ女性。その傍らにはやわらかなクリーム色の盲導犬——ビビが女性を護るようにして入ってくる。
「いらっしゃいませ。……おかえりなさい、詩織さん」
ソラの声にその女性——詩織は小さく微笑んだ。
「こんにちは。今日は随分賑やかですね。お席、空いてますか?」
「もちろんです。ご案内しますね」
詩織とビビがゆっくりと歩みを進める中、ざわめきが一瞬だけ広がる。
「わぁ、かわいい」
「あの犬、すごいお利口さん……」
「盲導犬かな?」
若い女性客がビビに手を伸ばそうとした瞬間、ソラが穏やかに制した。
「申し訳ありません。この子は今お仕事中なんです。どうか、そっと見守ってあげてください」
若い女性は「ごめんなさい」と小さく謝り手を引っ込める。
そのやりとりを見ていた円香が、驚いたように椅子を引いて立ち上がった。
「ちょっと! 犬なんて店に入れていいわけ? 衛生的にも最悪じゃない」
店内の空気が一瞬で凍りついた。
詩織が足を止め、哀しそうに顔を伏せる。
「ちょっと、円香……」
アケミが困ったように眉をひそめた。はっとしたようにして円香も俯き目を伏せる。
するとソラがゆっくりと円香の元へ歩み寄ってきた。
「申し訳ありません、円香さま。ビビさんは盲導犬として十分な訓練を受けたパートナーです。円香さまのお気持ちもきちんと受け止めたうえで、お席もできる限り配慮させていただきます。どうか、この場だけでもお許しいただけないでしょうか?」
円香は唇を噛みながら視線を逸らした。
「……好きにして」
その言葉にソラはそっと微笑み、詩織とビビを店の奥の静かな席へと案内した。
アケミが囁くように訊ねる。
「あんた、そういえば昔から犬苦手だったっけ? でもあの子は盲導犬なのに、それでも駄目なの?」
「……仕方ないでしょ。盲導犬でもほんとに怖いんだから」
円香の声はわずかに震えていた。
「私、小さい頃に野良犬に襲われたことがあるの。公園でひとりで遊んでたら急に吠えながら走ってきて……。転んで足を擦りむいて、泣きながら必死に逃げたのよ。何度も噛まれて、血がたくさん出て、ようやく通りがかったおじさんが追い払ってくれたけど、病院で検査もしたわ。それ以来、犬を見るだけで体が強ばるの!」
円香の声は次第に大きくなり、周囲の客もちらりとこちらに視線を向けてくる。アケミが慌てて声をひそめた。
「ちょ、円香、声、声……。落ち着いて」
円香がはっとして口をつぐむ。そして小さな声で「……ごめんなさい」と呟くと、奥の席で詩織がこちらへ顔を向けているのに気がついた。
「……あの、聞こえてしまってごめんなさい。でもお気持ちお察しします。そのとき、本当に怖かったんですね」
詩織の言葉に円香はぎこちなく頷く。
「ちょっと違うかもだけど、私も目が見えなくなり始めた頃は毎日が怖かったです。目が見えないことでなにもできなくなるんじゃないかって。……でも、ビビがいてくれたから、私はまた歩けるようになった。この子は本当におとなしくて優しい子です。でも、ビビの存在があなたの傷に触れてしまうのであれば、今日はこれで失礼しますね」
「あ、いえ……大丈夫です。いてください」
円香はどこか慌てるように言い、それからぽつりとつけ加えた。
「……すみません」
ソラが円香に優しく声を掛ける。
「円香さま。もし今でもその記憶が胸の奥で疼くのなら、どうかご自分を責めないでください。それは、誰にとっても深い傷になるものですから」
その言葉に円香は目を伏せたまま小さく答えた。
「……そうかもしれない、けど」


