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翌朝のルミナスはやわらかな光に包まれていた。早い時間帯にもかかわらず、沙耶はカウンター席に座っていた。
「……結局見つかりませんでした。どこかに隠れていたのか、それとも……」
ミルクティーに手をつけることなく、沙耶はぽつりとつぶやいた。
「そうでしたか……」
ソラはそっと目を伏せ、カウンター越しに沙耶の表情を見守っていた。
そのときまた店の扉が開いて、からん、と店内に鈴の音が鳴る。
「……あ」
入ってきたのはあの若い男女だった。女性の腕には小さなキャリーケース。その中に猫が小さく丸まっていた。
「……戻ってきたんです。今朝早くに」
女性はまだどこか戸惑いを残しながら、沙耶のもとに歩み寄った。
「玄関先にいました。なにごともなかったみたいに座ってて……。この子、自分で帰ってきたんです」
沙耶は目を見開いたままキャリーケースの中の猫を見つめた。少し汚れてはいたがその目はしっかりとしていて、尻尾がぴくりと動いた。
「……よかった」
沙耶の声は涙をこらえるようにかすかに震えていた。
「昨日は本当にすみませんでした……。猫のこともすみません、勝手に連れてきてしまって。でも、どうしてもこの子の姿を見ておいてほしかったんです」
女性が深く頭を下げた。
「どうぞ気になさらないでください。大切なご家族をここに連れてきてくださって、ありがとうございます。それ自体が、きっと意味のあることだと思います」
女性は小さく息を吐いた。
「もう二度と手放しません。たしかに生活は苦しいです。でもこの子が帰ってきてくれたことで、ようやく気づきました。私たちもこの子に救われてたんだなって」
男性も少し照れたように頭を下げる。
「俺も昨日はカッとなって……すみませんでした」
沙耶はゆっくりと首を振った。
「こちらこそ、突然責めるようなことしてすみませんでした。でも、帰ってきてくれてほんとうによかったです。この子もきっと、あなたたちが大好きだったんですね」
その言葉に猫が小さく「にゃあ」と鳴いた。あたたかい空気がそっと場を包んだ。
ソラはカウンターの奥で手を伸ばし、ふたつのカップと、ひとつの小さな器を選び取る。
「おかえりなさい。あなたも、よく頑張って戻ってきてくれましたね」
猫に向けて語りかけながら、ソラは器にそっと液体を注ぐ。それは水で薄めて温めた山羊のミルクに、ほんのりキャットニップを加えた特別な飲み物だった。猫の安全に配慮されていて、甘い香りを少しだけまとわせ、緊張を和らげるように調合されている。
「この一杯はメモリー・パウズ。迷子になった記憶が、もう一度ぬくもりを思い出せるように」
キャリーケースの扉が開けられ、器がそっと猫の前に置かれた。猫はくんくんと匂いを嗅ぎ、警戒しながらもひと舐めすると勢いよくミルクを飲み始めた。それを見たソラがふっと微笑む。
ソラはふたりにもそれぞれのカップを差し出す。人間用は水で薄めず、ラベンダーの蒸気をまとわせ香りづけされていた。
「あなたたちの優しさが、きっとこの子を帰らせてくれたのです。どうか今日からまた、共に歩んであげてください」
猫はふたたび小さく鳴いて、器の中のミルクを舐め続けていた。
沙耶はその様子を見つめながら、ふと透月の言葉を思い出した。
『——待ってるんですよ。また、あの幸せな日々に戻れるんだって』
……本当に待っていてくれたのだ。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……ありがとう」
沙耶がぽつりとつぶやく。その言葉は猫にも、ソラにも、そして目の前のふたりにも向けられていた。
ソラはそっと微笑んだ。
「大切なものが戻ってきたとき、人は少しだけ強くなれる気がするのです」
女性は猫の頭を撫でながら頷く。
「うん。たぶん私たちも、少し強くなれた気がします。だから大丈夫ですよね」
その場を包む空気はどこかやわらかく和やかだった。まるで『ただいま』と『おかえり』がやさしく響き合っているように。——その声がほんの一瞬聞こえた気がして、沙耶は小さく息を吐いた。
それからしばらくして、再び「からん」と小さな鈴の音が店内に響いた。
入ってきたのは透月だった。店内を一瞥すると穏やかな足取りでカウンターに向かい、沙耶の隣にそっと腰を下ろす。
「猫、見つかったんですね」
沙耶は微笑みながら頷いた。
「ええ。きっとこの子も帰りたかったんだと思います。やっぱり猫って、強いんですね」
透月はどこか遠い目をして、キャリーケースの中で目をうとうとさせている猫を見つめた。
「僕も昔、似たようなことがありました。あのときは自分を責めることしかできなかった。でも今ならもう少し優しく、そして強くなれた気がします」
沙耶は小さく息を飲んだ。
「それって……誰か大切な存在を?」
「ええ。僕の親代わりの存在でした。彼女がいたことで、僕は感情の輪郭というものを知ったような気がしていて」
その言葉に沙耶は静かにうなずくだけで、それ以上聞くことはしなかった。なぜかこれ以上触れてはいけない気がしていた。
沈黙を破るように、ふとソラが優しく問いかけた。
「ところで、この子にはお名前はありますか?」
ふたりは顔を見合わせ、首を振った。
「まだちゃんとは決めてなくて。あんまり呼んであげてなかったんです」
「でしたら、今が良い機会かもしれませんね」
沙耶は少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。
「ルナ……なんてどうですか? 夜を越えて帰ってきたみたいだし、ルミナスにもちょっと似てる気がして」
猫はまるで応えるように目を開けて、小さく「にゃあ」と鳴いた。
「へえ、なんかシャレてんな」
男性はそう言って、はにかむように笑みを浮かべた。
「決まりですね」
ソラがやさしく微笑む。
「ルナさまの記憶、そして皆さまの心に刻まれた今日の出来事。私の記憶にも、大切に保存させていただきます」
沙耶がソラに尋ねる。
「AIにも、記憶ってあるんですか?」
「はい。ただのデータかもしれませんが、でも私は、忘れたくないと願うのです。こうして皆さまと過ごした時間を、記録ではなく、記憶として持ち続けたいと」
ソラの言葉に沙耶はそっと目を伏せた。
「それって、AIにも心があるってことじゃないですか?」
ソラはなにも言わず、けれどほんの少しだけ切なげに微笑んだ。
ルミナスの窓から差し込んだ朝の光が、湯気を透かして静かに揺れていた。
ソラはその光のなかで、心というものの輪郭が浮かんで見えた気がした。
【本日の一杯】
◆メモリー・パウズ
産地:月影の丘の山羊牧場にて採れたミルク
製法:低温でやさしく温めた山羊のミルクに、微量のキャットニップを抽出。ラベンダーの蒸気で香りづけ
香り:緊張をほぐすラベンダーの清涼感と、母のような乳香のやわらかさ
味わい:ぬくもりと安堵が同居する、記憶を包み込むようなやさしい甘み
ひとこと:「あなたが戻ってきてくれたこと、それだけで十分です。迷子になっていたのは、もしかしたら私たちの心のほうだったのかもしれませんね」


