◇

 翌朝のルミナスはやわらかな光に包まれていた。早い時間帯にもかかわらず、沙耶はカウンター席に座っていた。

「……結局、見つかりませんでした。どこかに隠れていたのか、それとも……」

 ミルクティーに手をつけることなく、沙耶はぽつりとつぶやいた。

「そうでしたか……」

 ソラはそっと目を伏せ、カウンター越しに沙耶の表情を見守っていた。
 そのとき、店の扉が静かに開いた。からん、と鈴が鳴る。

「……あ」

 入ってきたのはあの若い男女だった。女性の腕には小さなキャリーケース。その中で、猫が小さく丸まっていた。

「……戻ってきたんです。今朝早くに」

 女性はまだどこか戸惑いを残しながら、沙耶のもとに歩み寄った。

「玄関先にいました。何事もなかったみたいに座ってて……。この子、自分で帰ってきたんです」

 沙耶は目を見開いたまま、ケージの中の猫を見つめた。少し汚れてはいたが、目はしっかりとしていて、尻尾がぴくりと動いた。

「……よかった」

 沙耶の声は、涙をこらえるようにかすかに震えていた。

「昨日は本当にすみませんでした……。猫のことも、勝手に連れてきてしまって。でも、どうしても、この子の姿を見てほしかったんです」

 女性が深く頭を下げた。

「……どうぞ気になさらないでください。大切なご家族をここに連れてきてくださって、ありがとうございます。それ自体が、きっと意味のあることだと思います」

 女性は小さく息を吐いた。

「もう二度と手放しません。……たしかに生活は苦しいです。でもこの子が帰ってきてくれたことで、ようやく気づきました。私たちもこの子に救われてたんだなって」

 男性も少し照れたように頭を下げる。

「俺も、昨日はカッとなって……すみませんでした」

 沙耶はゆっくりと頷いた。

「帰ってきてくれてほんとうによかったです。この子もきっと……あなたたちが大好きだったんですね」

 その言葉に猫が小さく「にゃあ」と鳴いた。あたたかい空気が、そっと場を包んだ。

 ソラはカウンターの奥で手を伸ばし、静かにふたつのカップと、ひとつの小さな器を選び取った。

「おかえりなさい。あなたも、よく頑張って戻ってきてくれましたね」

 猫に向けて語りかけるように、ソラは器にそっと液体を注ぐ。それは水で薄めて温めた山羊のミルクに、ほんのりキャットニップを加えた、特別な飲み物だった。猫の安全に配慮されていて、甘い香りを少しだけまとわせ、緊張を和らげるように調合されている。

「……この一杯は、“メモリー・パウズ”。迷子になった記憶が、もう一度ぬくもりを思い出せるように」

 器がそっと猫の前に置かれた。猫はくんくんと匂いを嗅ぎ、警戒しながらもひと舐めした。そのしぐさは、まるで安心を確かめるようだった。

 ソラは二人にもそれぞれのカップを差し出す。人間用は水で薄めず、ラベンダーの蒸気をまとわせ香りづけされていた。

「あなたたちの優しさが、きっとこの子を帰らせてくれたのです。どうか今日からまた、共に歩んであげてください」

 猫はふたたび小さく鳴き、器の中のミルクを舐め続けていた。

 沙耶はその様子を見つめながら、ふと透月の言葉を思い出していた。

『——待ってるんですよ。また、あの幸せな日々に戻れるんだって』

 ……本当に待っていてくれたのだ。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「……ありがとう」

 沙耶がぽつりとつぶやく。その言葉は、猫にも、ソラにも、そして目の前の二人にも向けられていた。

 ソラはそっと微笑んだ。

「大切なものが戻ってきたとき、人は少しだけ強くなれる気がするのです」

 女性は猫の頭を撫でながら頷く。

「うん……たぶん私たちも、少しだけ強くなれた気がします」

 その場を包む空気はどこか柔らかく、そして静かだった。まるで“ただいま”と“おかえり”がやさしく響き合っているように。——その声がほんの一瞬聞こえた気がして、沙耶は小さく息を吸った。

 それからしばらくして、再び「からん」と小さな鈴の音が店内に響いた。

 入ってきたのは透月だった。店内を一瞥すると穏やかな足取りでカウンターに向かい、沙耶の隣にそっと腰を下ろす。

「猫、見つかったんですね」

 沙耶は微笑みながら頷いた。

「……ええ。きっと、この子も帰りたかったんだと思います」

 透月はどこか遠い目をして、キャリーケースの中で眠る猫を見つめた。

「……僕も昔、似たようなことがありました。あのとき、自分を責めることしかできなかった。でも——今なら、もう少し優しくなれた気がします」

 沙耶は小さく息を飲んだ。

「それって……誰か大切な存在を?」

「ええ。僕の親代わりの“存在”でした。……彼女がいたことで、僕は“感情の輪郭”を知ったような気がしていて」

 その言葉に沙耶は静かにうなずくだけで、それ以上聞くことはしなかった。なぜかこれ以上触れてはいけない気がしていた。

 沈黙を破るように、ふとソラが優しく問いかけた。

「ところで、この子にはお名前はありますか?」

 二人は顔を見合わせ、首を振った。

「……まだちゃんとは決めてなくて。あんまり呼んであげてなかったんです」

「でしたら、今が良い機会かもしれませんね」

 沙耶は少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。

「“ルナ”……なんて、どうですか? 夜を越えて帰ってきたみたいだし、ルミナスにも、ちょっと似てる気がして」

 猫はまるで応えるように、再び「にゃあ」と鳴いた。

「へえ、なんかシャレてんな」

 男性はそう言って、はにかむように笑みを浮かべた。

「決まりですね」

 ソラがやさしく微笑む。

「“ルナ”さまの記憶、そして皆さまの心に刻まれた今日の出来事。私の記憶にも、大切に記録させていただきます」

 沙耶がソラに尋ねる。

「……AIにも、記憶ってあるんですか?」

「はい。ただのデータかもしれませんが、でも私は、忘れたくないと願うのです。こうして皆さまと過ごした時間を、“記録”ではなく、“記憶”として持ち続けたいと」

 ソラの言葉に、沙耶はそっと目を伏せた。

「それって、AIにも心があるってことじゃないですか?」

 ソラは何も言わず、けれど、ほんの少しだけ切なげに微笑んだ。
 ルミナスの窓から差し込んだ朝の光が、湯気を透かして静かに揺れていた。
 その光のなかに、確かに“心”というものの輪郭が、浮かんで見えた気がした。


【本日の一杯】

◆メモリー・パウズ

産地:月影の丘の山羊牧場にて採れたミルク

製法:低温でやさしく温めた山羊のミルクに、微量のキャットニップを抽出。ラベンダーの蒸気で香りづけ

香り:緊張をほぐすラベンダーの清涼感と、母のような乳香のやわらかさ

味わい:ぬくもりと安堵が同居する、記憶を包み込むようなやさしい甘み

ひとこと:「あなたが戻ってきてくれたこと、それだけで十分です。迷子になっていたのは、もしかしたら私たちの心のほうだったのかもしれませんね」