記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


「……母が、よくコーヒーを淹れてくれるんです。試験の前とか、大学受験のときとか、『がんばれ』って言いながら。でも、それがすごく苦くて……正直つらかったんです。だけど母の気持ちを思うと、飲めないとも言えなくて。だから、今日は美味しいコーヒーを飲んでみたくて……」

 カウンターの向こうから、ソラがゆっくりと目を閉じるように頷いた。

「誰かの真心が注がれた味は、たとえ少し苦くても、不思議と心に残るものです」

 ソラの声が春樹の気持ちに共鳴するかのように、やわらかく響く。

「味覚としては好みでなくても、記憶の奥ではあたたかく灯っている。……それはきっと味そのものよりも、その時そばにいた人の想い、差し出された優しさや空気が、心に沁み込んでいるからなのでしょうね」

 春樹は思わず目を伏せる。胸の奥に秘めた想いが、そっと揺り起こされた気がした。

 ソラはそんな彼の様子にそっと目を細める。

「お母様との思い出も、そうして残っているのだと思います。言葉ではうまく言い表せなくても、その一杯が、今のあなたをそっと支えている……そんな気がいたします」

 店内の空気がふわりと軽くなったように感じられた。カップから立ちのぼる湯気と同じように、春樹の心の内にも何かあたたかいものが広がっていく。

 その様子を透月は黙って見つめていた。言葉を挟むことはせず、ただソラの言葉に耳を傾けている。

 店内に漂う穏やかな空気が春樹の表情を少しずつ和らげていくのを見て、胸の奥に言葉にならない感情が広がっていくのを感じた。

 ――ああ、やはりこの空間は、誰かの人生を動かしている。

 そんな穏やかな想いが、静かに胸を満たしていた。

 ソラの語りは不思議だ。ただ優しいだけじゃない。相手の記憶に寄り添いながら、その奥に眠った感情をそっとすくい上げていく。自分には、いや、おそらく普通の人間には、到底真似できないやり方だろう。

 透月はふと自分の手元のカップを見下ろした。冷めたコーヒーの表面に、ぼんやりと自分の顔が映る。それを見つめながら、ぽつりと心の中で呟いた。

 ――彼も、変われるのかもしれないな。少しだけでも。

 自分がしたことは、ただこの青年がコーヒーを苦手としていることを少し早く察しただけだった。変わってほしいと願ったわけでもない。変わる手助けが自分にできるとも思っていなかった。

 なのに今、目の前にいるAIが彼を変えようとしている。

 人工“知性”の“知能”が人間の限界を超え、もはや人間よりも優れているのは誰の目にも明らかだ。だけど不思議と悔しさはない。むしろそっと肩の力が抜けるような……そんな安堵に似た感情が静かに広がっていた。

 ほどなくして、ソラが一杯のコーヒーを春樹の前にそっと置いた。

「こちら、季節のブレンドです。当店では季節ごとにメインのコーヒーがかわります」

 春樹はこくりと頷き、意を決したようにカップに口をつける。

「……っ! うぅ……やっぱり、苦い」

 その様子を見ていた透月が、少し驚いた口調で言った。

「そりゃそうですよ。どうしてブラックで飲むんですか」

 そのときだった。

「もしよろしければ、少しだけ、お話を伺っても?」

 ソラがそっと問いかけた。春樹は驚いたように目を瞬かせて彼女を見つめる。

「えっと……お話って?」

「あなたはコーヒーが苦手だと、透月さんが仰っていましたね。けれど今日こうして、無理を押してでも飲もうとされている。そこにはきっと、お母様との思い出以外にも、なにか大切な理由があるのではないかと」

 春樹は戸惑いながらも、すぐに言葉を返した。

「すみません……せっかく淹れてくださったのに……」

 ソラは首を軽く振って、穏やかな声で応じた。

「いいえ。どうかお気になさらず。もしよろしければ、その理由をお聞かせいただけますか?」

 春樹はためらうように視線を彷徨わせてから、ゆっくりと顔をあげた。

「仰るとおり、僕はコーヒーが苦手です。理由はさっきお話したとおりです」

 春樹はちらりとコーヒーへ目をやると、一呼吸置いて続けた。

「……実は、今付き合っている彼女が、コーヒーの味やカフェで過ごす時間が大好きで、本当に大切にしていて……」

 そう言いながら、春樹は指先でカップの縁をなぞった。

「だから付き合いたての頃は、よく一緒にカフェに行ってました。でもそんな彼女に実はコーヒーが苦手だなんて、なかなか言い出せなかったんです」

 春樹は言葉を選ぶように一瞬間を置き、胸の奥でそっと息を整えると、ゆっくり視線を落とした。

「だけど……近頃の彼女は、僕に気を遣ってなのかあまりカフェに行きたがらなくなって、行っても他の飲み物を頼むようになったんです。たぶん、気づかれてしまったんだと思います」

 春樹の声には、申し訳なさと切なさが滲んでいた。

「本当は彼女だって、コーヒーやカフェでの時間を楽しみたいはずなんです。なのに苦手な僕に気を遣わせないように、自分も違う飲み物を選ぶんです。今日はコーヒーの気分じゃないからって、そう笑ってくれるんです。だから僕も、心からコーヒーを美味しいって思えるようになりたくて」

 ソラはほんのわずかに微笑を深めた。

「あなたのそのお気持ち、とても素敵だと思います。誰かを想って自分を変えようとする優しさは、なかなかできることではありません。苦手なものを克服するとなると、尚更です」

 春樹は思わずうつむき、そして小さく息を吐いた。

「……きっと、その想いは届いています。あなたがそうして悩んだ時間ごと、すべてがやさしさに変わっていくと、私は思います」

 そして、ソラはそっと言葉を添えた。

「お話を伺って、少しだけ思い出した味があります。少々、お時間をいただけますか?」

 春樹は少し戸惑ったように視線を落とし、やがて小さく「……はい」と呟いた。