男は再びソラを睨め付けると、怒りを押し殺した声で続けた。

「……何が“寄り添う”だよ。お前らAIは、誰かの人生を壊してまで便利さを押し付けてきやがる。機械が人間の気持ちなんて、わかるわけねぇだろ」

 ソラは返答しなかった。ただ静かに、彼の怒りの熱を受け止めるように、まぶたを伏せる。

「俺はな、十年働いた会社を追い出された。AI化の波だって? 笑わせんな! 効率のために切られたのは、俺たち人間の方だった。……その“合理性”とやらで、どれだけの人が道を失ったと思ってんだ!」

 彼の拳がグラスの縁を揺らすほどの力で握りしめられていた。濡れたシャツの袖から、ぽたぽたと水滴が落ち続けている。

「……申し訳ございません」

 ソラは丁寧に頭を下げた。

「謝罪の言葉なんていらねぇよ。お前らが何を言おうが、結局は“そうプログラムされてるだけ”なんだろ」

 ソラは頭を下げたまま、ほんの少しだけ唇を開いた。

「……それでも、悲しいと感じてしまうのは、私が学んだ“誰かの痛み”の記憶のせいかもしれません」

 けれど、それ以上の言葉は続かなかった。代わりに店内の静けさが、彼女の沈黙を包み込むように満ちていく。その沈黙は、まるで時間の隙間に落ちた霧のようだった。

 ソラは動かず、ただうつむいたまま微動だにしない。男もまた、吐き出した言葉の余韻を持て余すように、拳を握り締めたまま視線を落とした。店内には雨音だけが響いている。

 カップの中の氷が一つ、ぱきりと音を立てて割れた。その音が、さらに静寂を際立たせる。

 そしてその静寂の中で、荒木がゆっくりと競馬新聞をたたんだ。

「……にいちゃんよ」

 低く、けれどどこか柔らかな声が空気を揺らした。男が眉をひそめて、反射的に振り向く。

「なんだよ、おっさん」

 荒木は立ち上がり、無造作にカウンターの一席を詰めると、男の隣に腰を下ろした。

「さっきから聞いてりゃずいぶん言いたい放題だが……そいつ、俺には“効いた”ぜ」

「は?」

「そこのAI、ソラの淹れた飲み物さ。前に飲んだときな、工場の仕事も人生もどん詰まりで、俺はろくに寝れもしなかった。でも、その一杯を飲んでから、少しだけマシになった気がしたんだ」

 男は睨むような目つきのまま黙っている。

「ソラ、“ソーダ・サイレント”を一杯。俺の奢りで、このにいちゃんに頼むよ」

 ソラは少しだけ目を瞬かせ、それから静かにうなずいた。

「……かしこまりました」

 男はそれを止めはしなかった。ただ、黙ってグラスの水を見つめている。

「おい、にいちゃん。名前なんてんだ?」

一ノ瀬(いちのせ)……(ゆう)

「ほう、インテリっぽい名前だな。」

「ほっとけ! なんだよ、おっさん!」

「まあ、落ち着けよ。今の時代、AIに仕事奪われたってことは高学歴なのかもしれねえけどよ。人間の感情ってのもさ、理屈じゃねえときがあるだろ? 知識をインプットして蓄えてよ。それを元に感情に変えてアウトプットしてんだ。だけど、それがどこでどう繋がって、どこから来るのかさえもわからねえ。AIのそれと、俺たちの感情、一体なにが違うんだよ」

 一ノ瀬は荒木を睨んだまま、口を小さく開いた。

「おっさん、ナリの割にもっともらしいこと言うじゃねえか」

「へへ、ここへ来て以来、生まれて初めて本ってもんを読んでみたからな」

「……だけどおっさん、あんたも今の政治やAIに人生狂わされた側だろ? 工場の仕事だって、いつ切られるかわかったもんじゃねえ」

 荒木は笑った。

「そりゃそうだ。俺が行ってる工場なんて、いつ切られてもおかしかねぇ。でもな、だからって全部恨んでたらやってられねえ。ソラに言われたんだよ。怒りや苦しみは否定せず、柔らけえ泡みてえに包み込んじまえばいいってな。そうすりゃ、やがて弾けてなくなるってこった。そいつが、俺には響いた。相手はAIだぞ? だけどそのAIのおかげで、俺は前を向けたんだ」

 一ノ瀬は視線を伏せ、少しだけ息をついた。

 やがて、ソラが静かに戻ってくる。彼女の手には細身のグラスに注がれた青いソーダ水がふたつ。微細な泡が立ちのぼり、淡い青が灯りの下でゆらゆらと揺れている。

 カウンターにそっと置かれたその一杯に、一ノ瀬は視線を落とす。

「……なんだよ、これ」

「“ソーダ・サイレント”です。怒りや孤独、そして胸の奥に沈んだ想いを泡にして、静かに手放す一杯です」

 ソラの説明に一ノ瀬は鼻を鳴らしたが、しばらく黙ってグラスを見つめていた。

 やがて彼は、グラスを持ち上げ口に運ぶ。炭酸の刺激が舌をかすめ、ふわりと懐かしい酸味が広がった。

 なんだ――これは。どこか郷愁を呼び起こす味。だが――。

 無意識に、目の奥が少しだけ熱を帯びる。

「……チープな味だな」

 そう言って笑うように吐き捨てた声には、どこか力が抜けていた。

 荒木が隣で、くくっと小さく笑った。

「だろ? でも、そういうのが効くときもある」

 一ノ瀬はグラスを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。

「そうだな……、悪くはない」

 ソラがふと、そっと言葉を添える。

「お怒りは、当然のものです。ですが、それが少し和らぐ時間も、あっていいのだと思います」

 一ノ瀬は、しばらく無言のままグラスを見つめていた。

「……どうして、そんなことを言えるんだ。お前には感情なんかないのに」

 ソラは静かに答える。

「はい。感情そのものは持っておりません。でも、痛みを知る言葉を、たくさん記憶しています。どれだけの人が苦しんで、どんな言葉で救われてきたのか……その記憶のひとつひとつが、私に教えてくれるのです」

 その声には熱も冷たさもなく、ただ、まっすぐな誠実さだけが滲んでいるようだった。

 一ノ瀬は俯いたまま、グラスを指でなぞる。

「……それでもやっぱり、納得なんてできない。あんたみたいなのが、俺の居場所を奪ったことに」

 荒木が穏やかに口を挟む。

「納得なんてしなくていいさ。そんな簡単に割り切れるもんじゃねぇ。でも……それでも、少しでも歩み寄ってみようと思ったなら、そんときゃまたここに来ればいい。な?」

 一ノ瀬は、ふっと小さく笑った。

「……まるで、説教が趣味の近所のオヤジだな」

 荒木は肩をすくめる。

「おう。歳は食ってるからな」

 そのやり取りを、ソラは静かに見守っていた。

 一ノ瀬はしばらく沈黙し、それからゆっくりと口を開いた。

「……なあ、ソラって言ったか。お前に“心”があるとは、まだ思えねえ。でも……怒鳴り散らしても、睨んでも、お前は言い返したり、俺を責めたりしなかった。それがAIとしての最適解だったからだろう。だが、俺は敢えてお前に聞いてみたい……なんでだ? どうしてあのとき、なにも言い返さなかった?」

 ソラは一ノ瀬をまっすぐに見つめる。

「あなたが抱えているものは、とても重く、深いものだと感じました。もし私が、あなたの叫びに耳を塞いだり、反論したりしてしまえば、あなたの痛みを否定してしまうことになる。それが……私には、できませんでした」

 一ノ瀬はソラから目を逸らし、再び青いソーダ水に視線を落とした。グラスの中では泡がゆっくりと立ち上り、儚く弾けていく。

「……もう一杯もらってもいいか? 今の俺に合う飲み物を、AIであるあんたが考えてみてくれよ」

 ソラは一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それから微笑んだ。

「もちろんです。でしたら次は……“霧が晴れる一杯”を、いかがでしょうか」

「ああ、それでいい」

 ソラは一礼すると、ゆっくりと身を翻し、カウンター奥へと歩いていく。その背を見つめながら、一ノ瀬はぽつりと呟いた。

「……“霧が晴れる一杯”か。悪くない提案だな」

 まもなく、ソラが戻ってくる。その手には、湯気の立ちのぼるカップがあった。淡い白を帯びた液体の表面には、花弁が一輪浮かんでいる。

「“フォグ・ミスト”です。霧がかかるように絡まった思考や感情が、やがて晴れていくことを願ってお淹れしました」

 カウンターに置かれたそのカップからは、カモミールやラベンダーを思わせる柔らかな香りが立ちのぼる。

「白い……ハーブティーか。珍しいな」

 ふっと息を吐いた一ノ瀬は、カップを手に取ると、静かに口をつけた。

 舌に広がるのは、穏やかで優しいぬくもり。身体の内側に、静かに湯気が沁み込んでいくようだった。

 目を閉じると、雨音がどこか遠くなった気がした。

 霧が、少しずつ晴れていく――そんな感覚。

 しばらくして、一ノ瀬はカップを両手で包み込みながら呟いた。

「……こんな風に何も答えが出なくても、ただ話すだけで、心が少し軽くなることって……ほんとに、あるんだな」

 ソラは静かに微笑んだ。

「はい。誰かと心を交わすということは、それだけで、霧を晴らす光になり得るのだと思います」

 一ノ瀬はカップを見つめながら、ふっと目を細めた。

「心を交わす……か」

「相手はAIだけどよ」

 荒木がそう言って軽快に笑った。

「怒ってるのも……疲れる」

 カップの縁に残った湯気を見つめながら、一ノ瀬はそっと続けた。

「正直、AIってやつは……まだ許せねぇよ。あんたらが俺の人生を壊したって思いは、簡単に消えちゃくれない」

 ソラは静かに頷き、ただ、黙って聞いていた。

「でも……お前のことは、ちょっとだけ知りたくなった。なんでそんな風に人のことを考えられるのか……それが、ただの記憶や情報の寄せ集めだったとしても、な」

 その声はもう、怒りではなく、静かな戸惑いに近かった。

 ふと、荒木が低く呟くように言った。

「ま、知りたいって思うだけでもう十分だろ。そういうのが始まりなんだよ」

 一ノ瀬は苦笑しながら荒木を横目で見る。

「……あんた、ほんとに説教くさいな」

「年寄りの役得ってやつだ」

 二人の間にどこか居心地のよい静けさが生まれた。

 一ノ瀬はフォグ・ミストを飲み干すと、カップを置き、立ち上がる。

「じゃあな。また来る……かもな」

 荒木は軽く手を挙げた。

「気が向いたらでいいさ。そんときゃ、また話そうや」

 ソラは小さく一礼する。

「いつでも、お待ちしております。一ノ瀬さま」

 一ノ瀬は扉の前で一度だけ振り返り、何かを言いかけて、やめた。そして扉を開ける。まだ雨は降っていたが、小降りになっていた。

 からん――

 鈴の音が静かに響き、彼の姿は雨の中へと溶けていった。

 カウンターには、荒木とソラだけが残った。
 荒木は冷めたコーヒーに口をつけ、ぽつりと呟いた。

「……あいつ、いい顔になってたな」

 ソラはそっと微笑み、小さくうなずいた。

 「荒木さま、先ほどはありがとうございました。コーヒー、すっかり冷めてしまいましたね。もしよろしければ、もう一杯お淹れいたします」

「いやあ、礼なんていらねえよ。だけど、そのお言葉には甘えるとするか」

 そう言って、荒木は軽快に笑った。

「はい、ぜひお寛ぎください」

 身を翻すソラの笑顔を、荒木はふと見た気がした。
 それは、これまでの完璧な微笑とは少し違っていた。
 どこか照れや安堵を滲ませた、人間らしい笑顔のようにも見えた。

 雨はまだ降っていたが、空はわずかに明るくなり始めている。世界の誰かの心にも、ほんの少しでも光が差したのなら。ソラは、そう祈らずにはいられなかった。

 カウンターの片隅には、湯気の消えかけたカップが、一杯の記憶となって静かに残されていた。


■本日の一杯:フォグ・ミスト

産地:霧深き山あいの静寂に抱かれた、風の止む朝だけに摘まれる白い花の咲く谷。その香草は、光を吸い込んだまま言葉もなく育つという

製法:時間をかけて低温乾燥させた花と葉を、記憶の湿度に合わせてゆっくり蒸らす。抽出の際、微かな息遣いが込められると、湯気のかたちが少しだけ揺れる

香り:雨あがりの静けさと、懐かしい誰かの笑い声を思わせる柔らかな香り。心の奥でほどけかけていた感情に、そっと触れるように立ちのぼる

味わい:苦味のないやさしい輪郭。言葉にならなかった想いが、少しずつ体内で霧に変わっていくような、あたたかく包み込む味

ひとこと:「心が見えなくなるときほど、静かに蒸気をまといましょう。あたたかさは、輪郭のないまま、いつでもあなたに寄り添ってくれます」