通りから一本奥へと入った静かな路地裏。軒先の木製ランプが控えめにゆれている。その下にかかる木の看板には、やさしい文字でこう記されていた。

 《記憶と夢の珈琲店 カフェ・ルミナス》

 木製の扉を押すと、からん——と鈴が鳴る。それはまるで、訪れた者を歓迎するようなあたたかな音だった。

 その日、カウンターには三人がいた。店主であるAIのソラと、常連の透月、そしてもう一人——鮮やかな赤いカーディガンを羽織った女性。

「ねえソラ、ぶっちゃけ聞いてもいい? この店のBGM、いつも絶妙だけどさ、もしかしてお客の表情とかテンションとか見て、相手の気分に合わせて選んでるとか?」

 冗談めかしたその声に、ソラはやわらかく微笑んだ。

「どうでしょう。気づけば、そうなっているのかもしれませんね」

「わー、それ絶対やってるやつじゃん! 空気を読むスキルってやつ? メンタリング? メンタリストだっけ?」

 彼女の名前はアケミ。快活で人懐こく、少しおしゃべりだが根はまっすぐで優しい。過去にルミナスを訪れて以来、何かと理由をつけては足を運ぶ常連客である。

 透月が手元の本をぱたりと閉じる。そして、ため息まじりに言葉を返した。

「アケミさん。それはメンタライジングと呼ばれる対人理解の一種です。最新のAIに搭載されているのは当たり前じゃないですか。 ……それと、もう少し静かにコーヒーを飲ませてくれませんか」

「えー、なにそれ。賢ぶってクールにカッコつけちゃって」

「そういうんじゃありません! ただ、静かな時間も悪くないと言っているだけです」

 軽口を交わしながらも、どこか気のおけない空気が二人の間には流れていた。

 そのやりとりを、ソラは静かに見守っていた。カウンター越しに並ぶその姿は、まるで年の離れた兄と妹のようにも見える。

 そんなひとときに、からん、と再び扉の鈴が鳴った。

「こんにちは……」

 入ってきたのは一組の母娘だった。娘は中学生くらいだろうか。長い髪で顔を隠すようにして、母親の背にぴったりとついている。

「いらっしゃいませ。ようこそ、カフェ・ルミナスへ」

 ソラが母娘に向かい直し、いつものやわらかな微笑みで応える。

「あの……こちらのお店には、パンケーキとかありますか?」

 控えめな声でそう尋ねた母親の目は、どこか切実だった。

「この子が……食べたいって言うものですから。珍しく自分から出かけたいと言ったもので……」

 その言葉に、ソラはふんわりと頷いた。

「はい。お時間を少しいただければ、ふわふわのパンケーキをお作りできますよ」

「ありがとうございます。……よかったね、このか」

 このかと呼ばれたその少女は、ほんの少しだけ顔を上げた。その瞳には、どこか遠くを見るような影が宿っていた。

 ソラは微笑んで、母娘を窓際のテーブル席へと案内した。透月はその様子を見て、静かにカップを置くと、空気を読むように席を立った。

「そろそろ失礼します。……ソラさん、また」

「いつでもどうぞ、透月さん」

「じゃあねー、またねトーゲツくーん」

 アケミの陽気な声に、透月はほんのわずかに眉をひそめたが、返事はしなかった。だが、その背中はどこか和らいでいるように見えた。