記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


 ◇

 ――古びた木の扉の前で、凛は立ち尽くしていた。扉の上に揺れるアイアンの看板には、《記憶と夢の珈琲店〈CAFÉ LUMINOUS〉》と刻まれている。

 ここを見つけたのは偶然だった。街の喧騒を避けて音の少ない路地を彷徨っていたとき、この看板と、静かに息づくような木の扉に出会った。けれどその扉を開くには、ほんの少し勇気が必要だった。

 “ここに入ってしまえば、自分を変えられるかもしれない” そんな予感がした。なによりも『記憶と夢』という文字に惹かれた。だからこそ足が止まった。

 喉元に手を当て、鼓動の速さを確かめるようにひと呼吸おくと、凛は意を決して扉に手をかけた。

 カラン……と、小さな鈴の音が空間を撫でた。

 焙煎された豆の香りと、古木の甘い匂いがゆるやかに満ちている。その奥に凛の心をそっと緩めるような、柔らかな光が広がっていた。

 カウンターの隅には一人の男性が座っていた。文庫本を閉じ、水を口に含んだところでふと顔を上げる。少女と目が合うと、透月は軽く会釈してからゆっくりとページの端に視線を戻した。

 ソラがカウンターの中から、凛に向かって優しく微笑んだ。

「いらっしゃいませ。ようこそ、カフェ・ルミナスへ」

 その声があまりにやさしくて、凛は一瞬肩の力を抜きそうになった。慌てて頷き、カバンからノートを取り出すと、新しいページを開いてペンを走らせる。

『声が出せません。筆談でもいいですか?』

 ソラは目を通すと、頷きながらはっきりとした声で返した。

「ええ、大丈夫ですよ。あなたのペースで、ここにいてください」

 凛の目がわずかに揺れた。耳に届いたその言葉に、恐怖ではなく安堵が広がっていく。

「よければ、お名前を教えてもらえますか?」

 凛は再びペンを取り、ノートの上をそっと走らせた。

『凛、といいます』

 その筆跡をふと横目で見ていた透月の目が、かすかに動いた。胸ポケットの中の紙片が、ふっと心のなかで重なったような気がした。

 ――どこかで見たことがある。
 けれど、それはまだ“確信”ではなかった。

「可愛らしくて素敵なお名前ですね。では凛さん、ごゆっくりお選びください」

 凛は軽く頭を下げると、メニューを受け取りそっと視線を滑らせた。コーヒーやカフェオレ、紅茶、ハーブティーといった飲み物が並んでいて、焼き菓子やケーキなどフードメニューも充実している。

(どれも美味しそう……でも、どれがいいのか……)

 メニューを見つめるその目はほんの少しだけ楽しげで、そしてどこか迷子のようでもあった。

 凛はこの場所で過ごす一瞬を大切にしたいと思っていた。だからこそ、選ぶことにも少しだけ時間をかけたかった。

 やがてメニューの端に小さく書かれた「季節のブレンド」に目を留めると、凛は頷くようにソラへ視線を向け、そっと指で示す。

 ソラは優しく微笑みながら、「季節のブレンドですね。少しお時間をいただきます」と言い残して、静かに奥へと姿を消した。