湿り気が肌にまとわりつくような7月の朝、目が覚めると、散らばった空き缶のなかで男がぐったりとテーブルに伏せていた。

「ねえ、誰か確認してよ」

 しばらく荒い息づかいしか聞こえなかった部屋に、ようやく言葉らしい言葉が渡った。男がぐったりしているのに気づいてから数分は経っていたと思う。

 放ったのは、部屋の片隅で細い肩を震わせる綾子(あやこ)だった。誰かとは、この場に男と彼女を除いたら2人しかいないので、2択のどちらかに言っているのだろう。どちらでもいいから男の呼吸を確認してよ、と。

「わたしはやだよ」

 彼女と身を寄せ合うようにしていた由吏(ゆり)は、自分は嫌だと激しく首を振った。最初に男の異変に気づいたのは彼女だった。

 由吏が目を覚ましたとき、えも言われぬ不快感に襲われた。つんと鼻をつくアルコールの匂い。誰が倒したのか、そもそも誰が飲み残したのか、転がった缶からビールがこぼれていた。飲んでいるときは気にならなかった匂いも、素面だと、こう……強い刺激臭のように感じてしまう。

 匂いを逃がすために窓を開けようと、カーテンを引いたところで外の雨に気がついた。大降りってほどでもないが、窓を開けるほど小降りでもない梅雨時の雨。そこで綾子と真澄(ますみ)も起きてきた。

 さらにそこから、昨晩の飲み会で散らかった部屋をみんなで片づけようとなった。ごく自然な流れだったように思う。たまたま由吏がテーブルの片づけを担当することになって、そして、そばで男が寝息を立てていないことに気づいた――という流れだった。

「真澄お願い」
「は? あたし?」

 2人して部屋の隅に逃げたので、いまは真澄が男にいちばん近い場所にいる。急に話を振られた真澄は「なんで、あたしが……」とひとりごちながらも、四つん這いになって男に近寄った。

将斗(まさと)

 縋るように男の名前を呼びながら強めに体を揺すってみる。けれど、電池の抜けたロボットを相手にしているように、うんともすんとも反応しない。むりもなかった。すでに何度も試した行動だったから。寝ているだけであってほしいと願いつつも、急に起き上がられたらそれはそれで怖い。

 次に、将斗の左手首に3本指を当てて脈を確認する。鉱脈を掘り当てるように、場所を探りながら。

「どう……? 将斗くん、生きてるよね?」

 綾子から問いかけられた真澄は、すっと手を離して首を横に振った。実際に触った真澄にしかわからないことだが、脈を測るまでもなかった。体が硬直し、生体反応が一切感じられなかったから。
 つまりは、死んでいる。
 その事実が、現実のものとして3人に突きつけられる。

「冗談やめてよぉ」
「信じられないなら自分で確認してよ」
「むりぃ。できない」
「なんで……。どうして、こんなことに……」
「あや、知らないよ。あや、なんもしてない」
「いっとくけど、あたしでもないからね」
「じゃあ、誰が……」
「そんなのどうでもいいよ。ねえ、どうするの?」

 綾子の言葉に呼応するように突然、大音量のアラームが鳴り響いた。それも、もともと設定にある電子音ではなく、疾走感あふれる応援ソング。

 音楽アプリから取り込んだ曲をわざわざアラームにセットするのは、このなかでは由吏しかいない。毎日同じ時間にセットしているアラームが、テーブルに置きっぱなしの由吏のスマホから鳴っている。

 2時間後に迫った1限の講義を知らせる警告サイン。1人暮らしの由吏には欠かせない存在だが、いまはうんざりするものでしかない。身を寄せ合っていた綾子から離れてアラームを止めにいく。止めたついでに、電話アプリをひらいた。

「とりあえず、警察に電話しないと」
「待って」

 すかさず止めに入ったのは、将斗の死を確認し、この場ではいちばん冷静さを保っている真澄だった。

「こんな状況で警察に電話したら、あたしたち3人が疑われる。ちゃんと思い出してから連絡したほうがいい」

 昨晩、将斗の部屋で飲み会をひらき、時間をともにした由吏、綾子、真澄、将斗の4人。夜が明けると、将斗が死んでいた。あたりまえのように朝を迎えられると、信じてやまないような寝姿で。

 ただ楽しく飲んでいただけなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。いくら考えても、突発的でも継続的でも何か事件があったとはこれっぽっちも思い出せない。

「やっぱり何もなかったよ」

 綾子が真澄の方をこっそり見る。がっつりだと嫌でも将斗が視界に映ってしまうので、あくまでも控えめに。

「それより、本当に将斗くん、死んでるの? 真澄ちゃんの確認間違いってことない?」
「ちゃんと確認したってば! 信じられないなら自分で確認すればいいでしょ」
「やだあ。死体に触りたくない」

 丸にかぎりなく近い綾子の目に涙が滲む。
 由吏はそんな綾子を一瞥し、そして、将斗を見た。

 数時間前までふつうに話していた。お酒が入ってなければ笑えないような綾子の雑談に大声をあげて笑い、これまで幾度となく聞いてきた由吏の愚痴にも真剣に耳を傾け、めずらしく弱音を吐く真澄を励ましていた。

 先輩からかわいがられ、後輩には慕われ、同性とは仲良くし、異性からは好ましく思われる。いつ見てもまわりには誰かしらがいて、彼自身も、自分の都合より人との付き合いを優先して振る舞っていた。

 誰よりも人に好かれ、そして、誰よりも人を好いた彼を、このまま放っておくのは心が痛む。できるのなら、一刻も早く彼をこの状態から解放させてあげたい。

 ――できるのなら……。

 由吏は、ビールの匂いに包まれながら眠る将斗から視線を外した。その際に手にしていたスマホの画面に指が触れたらしく、明かりがつく。ロック画面に設定した写真を見て、由吏の意志は固まった。

 そうだ……。わたしは、犯人だと疑われるわけにはいかない。

 将斗は誰に殺されたのか。そもそも、将斗は誰かに殺されたのか。それすらもわからない状況で、このあとどうすればいいかもわからない。それでも、自分には見失ってはいけないものがある。緊急時の命の道しるべのように。

 この際、何が起こったのか、誰がやったのかはどうだっていい。
 わたしが犯人だと思われなければいい。
 図らずも、ここには怪しい人物が2人もいる。

 綾子と真澄。

 正直、2人のどちらかが殺したとは思えない。自分も含めて、そんな大層なことができる人間だとは思えないから。
 けど、動機はある。

 将斗には同じ学部の彼女がいるのだが、2人はそれを知っていながら隠れて将斗と付き合っている。綾子に至っては、将斗の彼女とSNSでつながっているにもかかわらず将斗との匂わせ写真をよく投稿している。なので、将斗が浮気しているのはサークル内ではわりと広く知られている。

 痴情のもつれの末に、と思えば、どちらかが殺したと考えられなくもない。
 ちょうどいい。綾子か真澄のどちらかに罪をなすりつけてしまおう。
 幸い、由吏と将斗の関係にはまだ誰も気づいていないのだから――。

「ねえ、もうどうするの。あや、知らない。帰りたいよ……」
「あたしたちが昨日、将斗と飲んだことはサークルのみんなが知ってんだよ」
「あやたちが帰るまでは生きてたことにすればいいじゃん」
「できるわけないっての」

 由吏がひそかにその意志を燃え上がらせているころ、真澄が泣き喚く綾子をいまだ宥めていた。綾子は綾子で自分のバッグを抱きしめて、いまにも部屋を出ていこうとする勢いだ。
 そんな綾子の態度が、由吏の目には過剰に映った。

 いつもそうだ。綾子は反応が素直でかわいいだとか言われているが、リアクションがオーバーなだけで、全部計算してわかってやっている。演技だ。すると必要以上の動揺ぶりも、かえって怪しく見える。

「由吏も黙って見てないでなんとか言ってよ」

 真澄が由吏に助けをもとめる。アラームを止めるために屈んでいた由吏は立ち上がり、2人がいるクローゼット側とは反対の窓際に歩み寄った。

 起きてからずっとカーテンを開けたままなので、レースを通して外から見える状態になっている。通りを歩く人がちらほらいるが、あいにくの雨が不幸中の幸いとなって、視線は傘によって遮られている。まるで天が味方してくれているのかと、由吏はバカげたことを思った。
 カーテンを閉めてから真澄の言葉に応える。

「綾子がやったんじゃないの?」



 由吏、綾子、真澄、そして将斗の4人は、同じ大学のサークルでつながる友達だった。学部は違うが学年が同じで、サークルに入ってからの仲になるので出会ってもう2年になる。

 そのサークルには名前と顔を一致させられないほどメンバーがいて、サークルの活動後に飲み会をひらくのが恒例となっている。けれど、昨晩は前期の試験が近いこともあってか、集まったのは由吏たち4人だけだった。

 最初に声をかけたのが綾子で、それに将斗と由吏が乗っかり、最後まで迷っていた真澄も結局は参加することになった。なんで迷っていたのかはわかる。けど、由吏と綾子がしつこく誘ったら、長いものに巻かれるように首を縦に振った。

 一方で、会場が決まるのは早かった。そこから歩いていける距離に将斗の家があり、全員が何度も足を運んだことのある場所で安全だったから。

 家に着くなり和やかな雰囲気で宅飲みがスタートしたのは、3人とも覚えている。
 飲んでいるときの話のタネは、ほとんどがサークルの話題だった気がする。2年生と3年生の一部が揉めているだとか、1年生とのあいだにまだ壁を感じるだとか。あとは、北海道旅行の話でも盛り上がった。

 由吏たちのサークルでは毎年、夏休みに3泊4日くらいの日程で旅行するのだが、今年の行き先は北海道と決まっている。お金の問題で毎年参加を見送る真澄を、今年こそはと3人で説得しにかかったので、盛り上がるのはそれもそのはずだった。

 ちょっときつい言葉が出たりもしたけど、とくに揉めることもなく、終始楽しい雰囲気だったように思う。
 途中でトイレに立ったり、電話が来て部屋を出ていったりしても、誰かと将斗が2人きりになる状況はなかったし、冷蔵庫のお酒が切れて、日付が変わるころにコンビニへ出かけたときも3人一緒だった。


 昨日は、降り注ぐような星が空にきらめく夜だった。梅雨の季節だと忘れるほどに。

「ねえねえ、見て。星すごいよ」

 コンビニからの帰り道、綾子が夜空を指さして言った。

「うわ、ほんとだ。すごいね」
「やば。雲一つないじゃん」

 由吏と真澄も感嘆を洩らす。3人の目には同じ夜空が映っていた。
 それは、いまこの瞬間にしか見られないもの。何にも変えられない特別な時間。同じ想いを抱くのも、この瞬間だけの特別なものだ。決して戻ることのできない時間を、せめて切り取って残したい。
 綾子が「写真とろうよ」と口にする前から、由吏と真澄もそのつもりだった。

 由吏のスマホのインカメラで写真を撮る。けれど、画面のほとんどを占めるのは3人の酔っ払いの顔で、きれいな星空は端にちょこっと映るだけ。なんなら、星空であることもわからない。

「これじゃあ、ただの酔っ払いの自撮りじゃん」

 写真を見て爆笑する3人。誰も撮り直そうとは言わなかった。失敗でもよかった。心躍るような光景を本当に形に残したかったわけではなく、ただ覚えていたかった。なんでもない写真に腹を抱えるほど笑い合えるこの瞬間を、覚えていたかった。

 再び歩きだすと、笑い上戸になっていた由吏がふいに声のトーンを落とした。

「来年は就活かあ……。サークルどころじゃないね」

 彼女の黒く澄んだ瞳には、たったいま撮った写真が映っている。画面をスライドさせれば、過去の写真が流れる。サークル活動中に撮った写真が。

 由吏にとって、サークルがキャンパスライフの中心だった。
 シラバスを精読して受ける講義を決めたり、教科書を譲ってもらうためにゼミの先輩にお願いして回ったり、初対面の人に授業の出席代行を頼んだり。思い出はたくさんあれど、楽しいと思えるもののほとんどがサークル仲間と過ごす時間だった。

 その時間が、来年のいまごろにはなくなっている。もしくは、将来に向けた活動かサークルかを選ばないといけないときに、かんたんに切り捨てられるほどささいな時間になっているかもしれない。

 4年生になってもサークル活動には参加できる。けれど、いまの4年生も去年の4年生も就職活動が終わっても顔を出さなかったことを考えると、どんなにかけがえのない時間でも、環境が変わればあっさりと手放してしまうらしい。

 この楽しい時間は期限付きなのだと、由吏は写真を眺めながら瞳を潤ませた。

「そうだね。全然実感が湧かないけど」
「この時間がずっと続けばいいのに」

 両隣を歩く真澄と綾子も、慎ましい夜の町に潜ませるような声で共感した。みんながみんな誰かに歩幅を合わせるように歩き、コンクリートを叩く足音がしっとりと3人を包み込む。

 続かないとわかっていても、続いてほしい。そんな無謀な望みを心のど真ん中に置いてしまうくらい、由吏も綾子も真澄も夢みていた。
 破滅の足音がすぐそこまで迫っているとも知らないで――。

 それからまもなくして将斗の家に辿り着き、時間を忘れさせるような飲み会が再開した。あれよあれよと夜が更け、気がつけば寝落ちしていた。
 4人が過ごしたのは、そんな夜だった。



 しとしとと雨が傘を打つ。雨雲に覆われた町は朝からほの暗く、心なしか人々の顔にまでどんよりと影を差すようだった。それでも仕事に向かい、学校に向かい、買い物に出かける。いつもの生活が人々を迎えている。

 雨合羽姿の少女が、スーツに身を包んだ父親に手を引かれ、とあるマンションの窓を指さした。ほかがカーテンで閉めきられて暗いなか、その部屋だけが、カーテンが開いていて明るい。

「あのお部屋だけ白いね。……あ、裏返っちゃった」

 まるでオセロみたいだね、と父親が少女に笑いかけて、2人は駅の方へと足を進める。
 少女が指したのは、黒のコマに挟まれて白のコマがひっくり返ったようにカーテンが閉められた部屋――。ここだけが、いつもの生活を取り戻せずにいた。

 まだあどけなさを残した顔に濃いめのメイクを施す3人の女が、厳しい顔つきで見つめ合っている。よれたメイクを誰も直さない。胸下まで伸びるロングヘアの彼女に至っては、涙を拭った反動でアイメイクが滲み、パンダ目になっている。
 そんな彼女が叫ぶ。

「な、んで……? あや、やってないよ! なんでそんなこと言うの?」

 綾子は信じられない気持ちでいっぱいだった。せっかく拭い取った涙が、再び下まぶたに浮かぶ。
 ほらまた泣くと、由吏はため息を吐いた。

「そういう態度が怪しいんだよ。最初はわたしも真澄も動揺してたけど、いまはどうにかしないとって思ってるのに、綾子は逃げてばっかり。なんかもう、リアクションが作りものっぽいんだよね」
「作ってないよ! ほんとに怖いの。なんでこんなことになったのか、あや、ほんとにわかんない……」

 下まぶたでせき止められていた涙が頬を伝って落ちる。綾子は手で顔を覆った。

「泣くのやめてよ。そうやってか弱く見せても、綾子がそんな人間じゃないの知ってるからね、こっちは。彼女がいる男と浮気する女が弱いわけないもんね」
「……えっ」

 綾子が顔を上げる。

「綾子が将斗と付き合ってるの知ってるよ。わたしだけじゃない、サークルのみんなも、真澄だって知ってるでしょ?」
「え? あ、うん……」

 急に話を降られた真澄は、動揺を見せながらも小さく頷いた。綾子の腕を掴んでいた真澄の手がそっと離れる。
 由吏は気にせず言葉を続ける。

「知ってるのはサークルのみんなだけじゃないかもね、将斗の彼女も気づいてるかも。ていうか、みんなにバレてるって知ってて、綾子も楽しんでたよね」
「そんなんじゃ……っ」
「昨日の夜、わたしたちと将斗のあいだには何もなかった。だから、あるとすれば寝静まったあとってことになるけど、将斗と浮気してた綾子ならずっと前から何かあってもおかしくないよね。それで寝てるあいだにって、考えられなくもないと思うけど」
「違う! あや、本当にやってない! 真澄ちゃんは信じてくれるよね……?」

 綾子は助けをもとめるように真澄を見た。真澄は「うん……」と、言葉では肯定してみせたけど、視線は逸らした。葛藤している。どっちを信じればいいのか、なんて答えればいいのか、真澄は葛藤している。

 だから、綾子はなんとしても味方を得たくて「真澄ちゃん信じて」と叫んだ。
 そんな綾子の言葉を由吏が遮る。

「綾子は何もなかったっていうけどさ。夜――3時半くらいだったかな。綾子、将斗と部屋を出ていったでしょ。風呂場の方に行ったのかな。2人で何してたの?」

 その言葉だけで十分だった。真澄が綾子を突き放すのは、その情報で十分すぎるくらいだった。綾子の顔がかっと赤くなり、戸惑っていた真澄の目が途端に嫌悪感に染まっていく。

 由吏は真澄と将斗の関係性をあえて指摘しなかった。いまは明かすべきじゃないと思った。ただそれは、真澄を想ってのことなのか、うまく事を運ぼうとしてのことだったのかは、自分でもわからなかった。

「真澄ちゃ……」

 綾子は、どうしてそうしようと思ったのか、真澄に手を伸ばした。けれど、あっさりと払いのけられてしまった。

「触らないで」

 凍てつくような目が自分を拒絶する。心が深淵に沈んでいくようだった。



 綾子は、自分が容姿に恵まれていることを早くから自覚していた。おそらくは、小学校中学年くらいのときにはもう。
 気づいたのは、みんながすぐ怒るし忖度するから嫌いだという先生を、綾子は好きだと思ったとき。

「だって、お願い聞いてくれるし、ちょっといたずらしても怒らないし……」
「それは、あやちゃんがひいきされてるからだよ」

 そう言われて、贔屓されるのは容姿がいいからだと知った。思い返せば、それを利用して振る舞っている自覚もあった。もしこの容姿じゃなかったら、とうに社会から脱落していたと思う。そのくらい甘えた人生だった――。

 長い治療の末にようやく生まれた綾子は、両親から目に入れても痛くない愛を一身に受けて育った。
 小さいころからなにもかもを親に決められた。遊ぶ場所は家の近くの公園だけ。外に出るときは、かならず両親のどちらかと一緒。なんなら、一緒に遊んでいい子も親が決める。好奇心旺盛な子が近所にいたから、そういう子とは距離を置かされた。

 危険な芽があれば先に親が摘んでおき、失敗してつらい思いをしないよう、できることだけを経験させる。
 愛され大切にされ、割れもののように繊細に扱われ、綾子も親を不安にさせないよう応える。そうして自分で選ぶ経験と失敗する経験を奪われた綾子は、外の世界に出ても人任せにして生きてきた。

 家のなかとは違ってかんたんにはいかないこともあったけど、困ったら誰かしらが助けてくれたからあまり悩むことはなかった。人を頼れば、誰かがどうにかしてくれる。いつしか人に依存するようになり、依存してしか生きられないようになった。

 綾子が高校を卒業するころ、両親が離婚した。2年前――由吏たちと知り合う少し前のことだ。
 しばらく母と2人で暮らしていたが、キャンパスライフに慣れてきたことで、ようやく1人暮らしに踏みきった。助けてくれる友達ができたのが大きかったように思う。決断するのも、母を説得するのも。

 由吏も真澄も、そのうちの1人だった。
 けれど、2人は見返りがなくても助けてくれるけど、なんでもやってくれるわけではなかった。見返りがあったとしても、自分がやる必要のないことはやらない。当然のことと言えば当然のことだけど。

 一方の将斗は、見返りさえあれば、大学のことから家のことまで何もかもやってくれた。エアコンが動かなくなったときは修理業者の手配から当日の対応までやってくれたし、部屋のどこかから異音がして助けをもとめたときは夜中にもかかわらず駆けつけてくれた。

 音の正体は壁の穴から入り込んだ羽虫で、そのことを翌朝になって大家さんに伝えてくれたのも将斗だった。
 将斗の容姿が綾子のタイプでよかったと本気で思う。ただ喜んで体を差し出すだけで、なんでも助けてくれる。こんなWin-Winな関係がほかにあるのなら、教えてほしいくらいだ。

 それでも、どうしても頼れないときがあった。こっちはいつでもいくらでも助けてもらいたいのに、将斗には彼女がいるので、2人が記念日で祝っているときなんかは遠慮するしかない。そのくらいの節操はあるつもりだ。

 そういったときのために、綾子は将斗以外の頼れる男友達を何人か作っている。なかには、友達以上の関係を築いている人もいる。彼氏ではないけど、まあそれに近い存在が、ちらほら。これは由吏も真澄も知らないことだ。
 将斗のことは好き。だけど、なにも将斗だけが特別なわけではなかった。


「あやはやってない。たしかに将斗くんと浮気してたけど、殺す理由なんてどこにもないもん」

 あるなら教えてほしいくらいだよ。綾子は抱きまくらのように抱えていたバッグを置いて、由吏に強い眼差しを返した。

「由吏ちゃんの言う何かってなに? あやと将斗くんがケンカして、あやが捨てられるとかそういうこと? だったら、あやは将斗くんを殺したりしない。べつにあや、将斗くんじゃなくても、代わりの男はいっぱいいるもん。将斗くんのことは好きだけど、殺したくなるほど本気で恋愛してたわけじゃないよ。……真澄ちゃんと違ってね」

 綾子の目が、ふいに真澄を射貫く。真澄がわかりやすく顔を顰めた。

「なんか、あやだけ将斗くんと浮気してるみたいになってるけど、真澄ちゃんだって将斗くんと付き合ってるよね。しかも、あやと違って真澄ちゃんは本気で。それを隠してあやだけ責めるのずるくない?」
「あたしだってべつに……」
「べつに、なに? べつに本気で好きだったわけじゃないって。でも、付き合ってたのは本当でしょ? なのに、なんでもないふりしてるんだもん。ずるいよ」

 綾子が饒舌になっていくのとは裏腹に、真澄の表情は苦痛に耐えるように険しくなっていく。それでも綾子は言葉を続ける。

「風呂場で何してたかって想像のとおりだよ。でも将斗くん、そういうことほかの女子ともしてたみたいだし、あやはわかってて付き合ってたけど、真澄ちゃんはそうじゃなかったんじゃない?」
「…………」
「本命の彼女がいる将斗くんを本気で好きだった。それでもいいと思ってたのかな、だからわかってても付き合ってた。でも、自分があやみたいな人たちと一緒にされるのは嫌だった。それで耐えられなくなって殺した。動機なら、あやより真澄ちゃんのほうがありそうだけど」

 正直、綾子としても切実だった。
 真澄がどのくらい将斗に好意を寄せていたのかは想像することしかできない。将斗から聞いた話や、保険をかけることをしない彼女の性格から鑑みて、真澄は自分とは違う付き合い方をしていたのだろう、と。

 あまり根拠を聞き返してほしくない稚拙な推理。それでも断定的に話したのは、やってもいないことで疑われたくなかったから。

 犯人にされるくらいなら、もっとほかに怪しい人を疑えばいい。
 もしかしたら、本当に真澄が将斗を殺したのかも。
 稚拙な推理は案外、当たっているのではないだろうか。
 言葉を挟む余地を与えないくらいまくし立てたとはいえ、真澄は途中で反論してこなかった。顔を伏せている。

 ずっと同じ体勢をしていた綾子は、足に痺れを感じて崩した。すると、真澄がおもむろに顔を上げた。目が合って、不意を衝かれたような気がした。
 真澄の目はまだ死んでいなかった。

「……そうやってそれっぽい根拠を並び立ててるけど、要するに綾子は、あたしが嫌いなんだよ。嫌いだから犯人にしたいんだ。はっきり言いなよ」

 何が合図だったかはわからない。真澄のどの言葉が綾子に響いたのか、彼女自身にもわからなかったが、挑発的な目が、攻撃的な言葉が、綾子の細く張りつめていた糸をぷつんと切った。

「そうだよ、嫌いだよ! 真澄ちゃんって、誰にも頼らないでなんでも1人で背負って、それがかっこいいとか思われてるけど、いつも全然楽しそうじゃないじゃん。こっちが心配しても、1人で平気ですみたいな顔するし。
 そのくせ、遠回しに苦しいアピールするじゃん。バイトがあって暇じゃないとか、お金がなくてサークル旅行どころじゃないとか。頼ればいいのに。それやらないでかっこつけてさ。悲劇のヒロインって思われたいの? そういうところが、ほんとむりだと思ってた!」

 綾子の叫びが、緊張感の漂う部屋に響き渡った。言葉の最後のほうになると、もはや声が()れてすらいたが、そのくらい無我夢中な叫びだった。



 雨の匂いが強くなった気がした。音が部屋のなかまで響いてくるようで、室内にも雨が降っているのかと錯覚してしまいそうになる。雨が強くなったのか、それとも部屋が急に静かになったからそう感じるのかはわからない。

 真澄のこれまでは、雨のなかで傘も持たずに佇んでいるような人生だった。
 物心つく前に親に捨てられたのがはじまり。親戚の家をたらい回しにされた真澄は、この世の条理を早くから実感していた。

 ――他人の子は所詮、他人。助けてくれる人はどこにもいない、と。

 子どもだろうと大人の考えたルールのなかで生きていかないといけないし、ルールを学ぶ機会がなくてもわかったふりをして、自分のことは自分でやらないといけない。

 居候の自分が率先してお手伝いしたとしても、たまにお手伝いをして褒められる実の子には敵わないから、過剰に顔色を窺うくらいなら1人で生きていく覚悟を持たないといけなかった。
 だから、誰にも頼らずに1人でなんでもやってきた。

 学校で必要なものは自分で買いそろえた。授業参観のお知らせは、もらってすぐにくずにして教室のゴミ箱のなか。リモートで三者面談を受けたこともあった。それを「ひとり立ちしててかっこいい」なんて言う人がいたけど、そうするしかなかっただけで、誰かに甘えられるならそうしたかった。

 頼っても自分が損するだけだから、1人でなんでもやる。これまでそうしてきたし、これからもそうして生きていく。そう信じて疑わなかった。まさか、信じていたものをたった1日で崩されるなんて思わないじゃん。1が2になるなんて――。

 高校生のときだ。両親とどうつながりがあるかもわからない親戚のおばさんに呼ばれてリビングへ行くと、来客の女性と引き合わされた。はじめて見る。実母だそうだ。目元が似ていると言われたら、まあたしかに似ているかもしれないが、他人としか思えなかった。
 しかも、事故に遭って片足に力が入らないとかで、自分の母らしい女性は車椅子に乗っていた。

 これまで、できるかぎりのことは1人でやってきた真澄。母もまた、1人で生きていこうと思えばできたのだろうけど、彼女は助けてもらう道を選び、真澄を引き取った。
 そうして、母の世話をしながら学校に通い、アルバイトして生活費を稼ぐ。そんな生活が、大学に入ったいまも続いている。

 講義がないときはできるかぎりアルバイトのシフトを入れ、家に帰れば母のお世話。あそび半分で活動しているこのサークルに入ったのも、先輩から講義の情報を得られると知ったから仕方なく。

 将斗と出会い、由吏や綾子とも出会ったこのサークルが、思いのほか居心地のいい場所になっているけれど、それでも毎年のサークル旅行は断っている。行きたいと思っても、お金と母の問題がそれを許してくれなかったから。

 だとしても、誰にも言わない。助けをもとめない。弱音も吐かない。
 だって、そうやって生きてきたから。あたしは1人でも生きていける。

 ――けど、たまに思う。

 いつもたくさんシフトを入れてくれるからと何連勤もさせられて、家に帰ったら母をお風呂に入れなきゃと思いながら必死に働いて、深夜になってようやく大学のレポートに手をつける。心身ともにボロボロになったとき、たまに考えてしまう。

 なんであたしだけ、こんなに苦労しないといけないんだろう……。

 だから、遊び歩いている人たちに、どうしようもなく殺意を覚えることがある。親のお金で大学に通えているくせに、講義をサボって、まともにサークル活動もせず飲んでばかり。何のために生きてるんだって――。

 とくに、将来に希望を抱き、届かない夢に手を伸ばそうとする人間が大嫌い。こっちは、いまを生きるだけで精一杯なのに。

 そういった意味では、遊ぶことを何よりも優先させる将斗を嫌いになってもおかしくなかった。なんなら、彼女の父の会社から内定をもらっている将斗なんて消えてしまえばいい、と思ってもおかしくない。
 けれど、ギリギリの生活のなかにある唯一の光は、まぎれもなく将斗の存在だった。

 将斗は、疲れているときにさっと連絡をくれて、こっちが寝落ちするまで愚痴を聞いてくれる。あからさまに優しくてちょっとやらしいなと思っても、一切否定しないでずっと寄り添ってくれるから、どうでもよくなってくる。

 よく勘違いされるのだが、将斗の、誰からも好かれているのにそれを嫌みに感じさせない人柄は、考えてやっていることじゃない。天性のものだ。なんというか、湖畔で本を読みながら一緒に語らいたいな、と思ってしまうような人だった。

 だから、彼女がいるとわかっていても将斗に惹かれて、付き合った。自分のような人間がほかにもいると知っていたけど、それでもよかった。誰のことも責めないから、あたしのことも責めないで――。

 綾子の言い分は間違ってる。将斗の多情には、少なからず心を惑わされることもあったけど、2人の関係は良好だった。大きな波風も立たなかったのだから、綾子と同じように動機はない。

 自分がもし、誰かを手にかけることがあったのなら、そのときの被害者は将斗じゃない。綾子でもない。あるとすれば、由吏だ。


「あたしは本当にやってない。将斗を殺すなら、その前に違う人を殺してる」

 真澄の言葉に、綾子の肩がびくっと跳ねる。

「あやも殺すの?」

 真澄は鼻で笑った。

「綾子なんか眼中にないから。まあちょっとは、世間知らずの箱入り娘で、バカだなあとは思ってたけどさ、それだけ。あたしは……」

 おもむろに由吏へ視線を渡す。おまえだよ、と言わんばかりの攻撃的な目つきは、由吏をわかりやすく動揺させた。

「……なに?」
「あたしもぶっちゃけるけど。あたしはずっと、由吏が嫌いだった」

 知らなかった、とでも言うかのような由吏の表情にもむかつく。すっとぼけるなよって、口を開くだけで悪口が衝いて出そうになる。憎悪が連鎖して、心が黒く塗り潰されていくのが自分でもわかった。

「シンガーソングライターになりたいんだっけ? 親に反対されたけど大学に進学するならいいよって認められて、大学に通いながらレッスンにも通って、将来のためにいろんな経験を積んで、全部が夢につながるならなんだって楽しいんだってね。偉いね、偉いよ。……こっちは、いまを生きるのだって必死なのに」
「えっ……。そんなの、ただの嫉妬じゃん」
「だから、そういうとこがうざいんだって! 言い返してくんなよ。夢がある人間が偉いのか? それを妬む人間は黙ってろってか? 生きるのに精一杯なのに夢の話ばっかされるこっちの気持ちなんて、一切わからないんだろうね」

 由吏は途端に、スマホのロック画面を思い出した。さっき意識的に見たから、プロジェクターのように鮮やかな映像として脳裏に映し出される。

 それは、自分の写真だった。みんなが推しの画像やペットの写真、おしゃれな風景画像をロック画面の壁紙に設定するなか、由吏は自分の写真を壁紙にしている。ナルシストと思われても、由吏にとってはどうでもいいこと。
 だってその写真は、彼女がはじめてステージに立って歌った思い出のものだから。

 小さいライブハウスのステージに立つ由吏。背後には青や紫といった寒色系のスポットライトが差していて、由吏はギターを弾きながらスタンドマイクの前で歌っている。アングルはステージ下から。

 幻想的なその写真は、友達が撮ってくれたもの。このときの光景を忘れないために、目に触れる機会の多いロック画面の壁紙に設定している。
 由吏にとって夢は、現実(いま)を生きるための道しるべなんだ。

 そのことを誰よりも理解しているのは、真澄と綾子だと思っていた。それくらい2人に夢の話をしてきた。
 結果が出ればすぐに報告し、挑戦していることがあれば包み隠さずに話す。顔も知らない人間から悪口を浴びせられたときは、2人が朝までそばにいてくれてうれしかった。アンチごときに夢の邪魔はされないと、一皮むけた瞬間でもあった。

 応援してもらえているとばかり思って、「友達だから楽しく聞いてくれるでしょ」――そんな慢心を抱えて、真澄の気持ちに気づこうとさえしなかったのは事実だ。
 ごめん。胸の奥からせり上がったその言葉が、なぜか喉で詰まってしまう。

「――由吏だって、将斗とは人に言えない関係のくせに」

 真澄のそれは、興奮を極力抑え、それでも冷めない熱に気づけよ、という暴力的な声だった。ぶつかる視線も刺々しい。
 目を背けられるなら、そうした。なんなら、このまま部屋から飛び出してもいい。

 けれど、由吏はまっすぐに真澄を見つめ返した。というより、ここで逃げるのは道徳的に悪いことのような気がして、体が動かなかった。負けるものか、そんな対抗心も少なからずあったと思う。
 続く言葉が、彼女を冷たい海底に突き落とすとも知らないで。

「自分だけ将斗とはなんも関係ないって顔してるけどさ、動機なら由吏がいちばんあるんじゃないの」
「……なんのこと?」
「バレてないとでも思ってた? 将斗にしつこく訊いたら、あっさり教えてくれたよ。2人、姉弟なんだってね。それも、将斗は由吏のお父さんが浮気して生まれた子どもなんでしょ」



 由吏にとって雨は、あの日のことを思い出す引き金だった。

 父に隠し子がいると発覚したのは、由吏が中学2年生のとき。どこもかしこもテレビは豪雨のニュースばかりで、おとなしく勉強でもしようかと思ったところで、母が家族をダイニングテーブルに集めて紙を広げた。探偵に依頼して、父に隠し子がいることを証明する資料だそうだ。

 物語のなかでは華麗に難事件を解く探偵も、現実では本当にそんなことばかりしているのかと、そのときの由吏は現実がよく見えていなかった。

 たった1日。人差し指を立てるだけで言い表せるそのたった1日で、それまで順風満帆だった由吏の家庭は崩壊した。むしろ、順風満帆だったからこそ崩壊は不可避だったと言えるかもしれない。

 由吏が大学を出るまでは、との条件付きで婚姻関係こそ解消しなかったが、その日から始まった生活は実質、他人同士が暮らす家庭の形をした何か。そんなもの、どう言い表しても最悪としか言いようがなかった。
 夢を見つけたのも、さっさと家を出たいという思いもあったから。

 それでも親の言いつけを守って大学に進学した由吏は、そこで将斗と出会う。新入生歓迎会のシーズンが終わって、実際に入部まで進んだ1年生も参加する最初のサークル飲み
でのことだ。隣の席に座ったのが将斗だった。

 すぐにわかった。資料で顔と名前は知っていたし、紙がすりきれるほど読んだから、髪色が変わったくらいで見分けがつかなくなったりしない。ただ、意外だったのは、由吏を見て将斗も表情を崩したこと。どうやら、将斗も由吏のことを知っているらしかった。

 将斗はたぶん、母親似なんだろう。父とは似ても似つかなかった。
 父は日本男児らしい逞しい見た目をしていたが、将斗は男にしてはそこまで身長が高くなく、顔は中性寄り。何よりも、家と職場を行き来するだけの父と違って、友達と遊ぶのを生きがいにしていた。

 気さくで遊び心があって、人を愛し、人から愛された将斗。でも、やっぱり父のDNAを受け継いでいるのだと思い知るのに、あまり時間はかからなかったように思う。

 育ちも容姿も性格もいい彼女がいるにもかかわらず、真澄と付き合い、綾子と関係を持ち、彼氏のいる先輩にも手を出していた。後輩の女の子をお酒で酔わせて家に持ち帰ろうとしているところを、由吏がこっそり助けたこともあった。

 不用意な言行で家庭が崩壊することを想像できなかった父と一緒。殺されても文句を言えないくらい女にだらしがなく、人の愛憎を軽く見て、欲望のままに生きる。友達として接する分にはまったく問題ないのに、男として見ると本当に最低でしかなかった。

 そのせいで将斗に憎しみを抱くこともしばしばあった。いっそ彼の悪行の数々を晒してやろうかと、SNSのストーリーに下書きがいくつか残っているくらいには。

 だから、将斗が死んでいるとわかったとき、もしかしたら夢うつつで手にかけてしまったかも、なんて思ったりもしたけれど――。


「将斗が憎くて仕方なかったんじゃないの? それを隠して綾子を犯人扱いしてさ、呆れる。自分がやったことを綾子になすりつけようとしたんでしょ」
「違う! わたしはやってない!」
「綾子が夜3時半に起きたって言ってたけど、それ知ってるってことは由吏も起きてたんだよね。なら、そのあとに由吏が何をしても誰もわからないってわけだ」
「知らないよ。わたしは本当に、2人が起きたのに気づいただけで……」
「――最低」

 綾子が言葉を挟んだ。低く、どすがきいているわけでもないのに、心臓を震撼させるような声。

「由吏ちゃんがやったんだ。なんで殺したの? そんなに将斗くんのこと嫌いだったの? あやたちがいるところでわざわざ殺して、あやたちに疑いの目を向けて……。由吏ちゃん、ほんとに最低だよ」
「……は? わたしが最低? 綾子に言われたくないんだけど。浮気して人の家庭壊すやつのほうがもっと最低だからね」

 自分がやるはずがないことは、誰よりも由吏自身が信じている。
 綾子に容疑を向けたのは、やってもいないことで疑われて夢を絶たれたくなかったから。こんなことで夢の邪魔をされたくない。そんな自分が、いくら家庭を崩壊させた浮気相手の子どもだろうと、殺すわけがない。

 なのに、真澄と綾子が向ける眼差しはもう、友達ではなく、犯人に向けるそれだった。瞳に光がなく、なんの感情も感じさせない無表情。人の顔って、ここまで記号のように表現できるものなのかと、由吏は思った。

「なにその顔……。本当にわたしは何も知らないって」

 いくら違うと訴えかけても、2人には届きそうにない。
 窓際でずっと立っていた由吏は、力を奪われるようにその場にへたり込んだ。壁に背中を預けて頭を抱える。外の世界から流れてくるすべてのものをシャットアウトするように。

 なんで、こんなことになってしまったんだろう……。数時間前まで楽しく飲んでいた友達と、たった数分のうちにいくら本音を叫んでも届かない関係になってしまったのは、どうしてなのか。

 原因がわからないとは言えない。もとを辿れば、友達と思っていた関係は所詮、紛いものでしかなかったことに行き着くだろうけど、そこに気づくきっかけとなる引き金を引いたのはほかの誰でもない、由吏だ。
 夢を邪魔されたくないからと、綾子に疑いの目を向けさせた。どうせなら綾子が犯人だったらいいのに、とさえ願ってしまった――。


「警察に電話しよ。あやも真澄ちゃんも、由吏ちゃんがやったって言うから」
「やめてよ!」

 由吏はとっさに近くにあった物を掴んだ。電話してと真澄に懇願する綾子に向かって、それを投げつける。

「いたっ……、は?」

 それは綾子に命中した。もろに当たった。
 やってしまった。そう後悔しても、もう遅い。由吏がとっさに掴んだのはクッションだったが、物を投げた行為そのものが両者に亀裂を生んだのはたしかだった。

 打ちつける雨がさらに勢いを増して、3人の心に降り注ぐ。



 部屋に、今日はじめての静寂が生まれた。
 実際は、はじめてじゃない。けど、はじめてと錯覚してしまうくらいに冷たい静寂だった。永遠のような刹那のような、時間感覚を狂わせる静けさ。部屋に沈むのは、由吏の荒い呼吸だけ。不気味なほどに何も聞こえない。

 綾子も真澄も、何も言わずに由吏を睨みつけている。目の奥の光を消して、もう何を言ってもこの人には届かないと諦めたかのように。
 2人から失望を向けられた由吏は、突き刺す視線から逃れるように蹲った。

「……わたし、綾子が嫌い」

 由吏が顔を伏せながらつぶやいたことで、静まり返っていた部屋に音が戻ってきた。

「だからって、物を投げることないじゃん」
「綾子は真澄が嫌いで、真澄はわたしが嫌いで、わたしは綾子が嫌い……」

 真澄の声は由吏には届いてない。まるで逃げるように壁を作った感じがして、真澄は小さく舌打ちをした。それすらも、いまの由吏には届かない。
 由吏は、自分と人形しかいない世界で、人形に語りかけるように話を続ける。

「綾子って人に頼りきって、やってもらうのがあたりまえで、全部人任せなんだよ……。生き血をすすって生きてる。吸血鬼か何かかな。鬼であるのはたしかだね……。将斗が死んでるってわかったときだって、考えることを放棄して、誰かがどうにかしてくれると思ってたでしょ……」

 ぽつりと雫を垂らすように言葉を紡いでいく。
 部屋の空気はますます重くなり、押し潰されそうになる。

「わたしはこれまで、綾子も真澄も嫌いだと思ったことなかったけど、2人の本音を聞いてわかったよ。お互いさまだから言わせてもらうとね、わたしもずっと綾子が嫌いだったんだ。いま気づいたよ」

 ふいに由吏が顔を上げる。
 ずっと自分の世界で完結していた話が、外に広がっていく。人形から綾子へ――。

 綾子は微動だにしないで由吏を睨みつけていたが、由吏は恐れずに、虚ろながらもまっすぐに彼女を見つめ返した。

「綾子といると、無性に腹が立ってくる。なんでもかんでも人にやってもらって、自分のわがままで他人の人生を振り回して。なんだか、人の足を引っ張ってるみたい……。わたしも綾子に足を引っ張られてると思うと、むかついて仕方ない。自由を奪われる感じがして、綾子みたいな人間にだけは足を引っ張られたくない、そう思った」

 由吏が嫌いなのは足を引っ張る人間。そういった意味では、父も、将斗も、綾子も彼女にとっては似た存在かもしれない。
 人にすり寄り、欲望のまま生きている人たち。きっと、不倫で何もかも失った芸能人を見ても、自分はバレないとか謎の自信を持っているのだろう。そんな人間がまわりにいることで、夢を阻まれたらどうしよう、という恐怖が彼女を襲う。

 だから、綾子が嫌いだった。依存して生きる綾子を見るたびに、足を引っ張られる感覚に陥っていた。友達だから気づかないようにしてきたけど、こうしてお互いの本音をぶつけ合ったいま、由吏はようやくそのことと向き合った。
 綾子が嫌いだ、反吐が出るほどに――。

「真澄ちゃん、早く電話して」

 由吏の言葉を呆然と聞いていた真澄は綾子の声にはっとして、スマホのロックを解除しようとする。が、こういうときにかぎって顔認証がうまくいかない。なんなの。いらだちを隠しきれないようすで、乱暴にパスワードを入力する。
 由吏はそれを止めようとはしなかった。代わりに、どこか諦めるように笑った。

「綾子のことは嫌い。でも、嫌いになりきれないのも本当。……わたしたち、似てるんだよ」

 由吏の声が涙ぐむように湿る。穏やかなのに、切ない声色。
 発信ボタンを押そうとしていた真澄は思わず動きを止める。

「……似てる?」
「わたしが綾子に疑いを向けたのは、本当に怪しいと思ったから。嫌いな人のやることは、全部怪しく見えるでしょ。その人が正しいことをしてたとしても、何か裏があるんじゃないかって、適当な理由をつけて疑ってかかるでしょ」

 だから、綾子が犯人だと決めつけた。

「でも、2人が敵に回って、誰もわたしの言葉に耳を貸してくれなくなったとき、思った。皮肉だけど、そのときにちゃんと綾子のことを考えられた気がしたの。綾子を理解できる部分もあるんじゃないかって」

 真澄は由吏が何を伝えたいのかわからなかったが、次第にその言葉の重みを感じ取る。

「一緒にしないでよ!」

 そう叫んだ綾子と違って、彼女の言葉を聞き届けようとする。最後まで話を聞きたい。どうして耳を傾ける気になったのかはわからないが、由吏に対する複雑な感情を抱えながらも、心のどこかでつながりを感じ始めていた。

「真澄ちゃんもなんとか言ってよ」

 真澄は黙って耳を傾ける。

「わたしは、夢に縋りついてる。必死に。ギリギリのところで、ダサいくらいに縋りついてる。無謀な夢だとわかっててもひたすらにがんばることだけを美化して、現実から目を逸らして、必死になって追いかけてる。うまくいくことなんて、レア中のレアなのに……」

 綾子もまた、口を噤んだ。最後まで聞いたところで考えが変わるわけでもないのに、まるで、賢者は聞き、愚者は語ることを本能的にわかっているかのように。
 由吏は続ける。

「綾子は、1人では生きていけなくて、誰かに助けてもらわないとなんにもできない。わたしはそれを哀れだと思ってた。同情することで哀れんでた。だけど、綾子もわたしと同じで、縋りついてるんだよね。人に……」

 そこで一旦、意図的に息を整える間を置いた。ふしぎなことに、これまでずっと激しい言葉を交わしていた2人が、その瞬間は嘘みたいに由吏の言葉を待った。

「どういう気持ちなのかはわからない。依存してまで人に縋りつく気持ちなんてわかるわけない。だって、まわりに見放されたらそこで人生終了でしょ。すごく運任せな生き方じゃん。……でも、綾子はそういうギリギリのところで生きてるんだよね。心がぽきっと折れる瞬間と、つねに隣り合わせで生きてる。何かに縋りつかずにはいられない気持ち……それだけはわかる気がしたの」

 不安定な生き方と、そんななかでも必死に生きようとする綾子の姿が、由吏の言葉によって明らかになっていく。
 依存して生きるとは、聞こえが悪くて甘えているようにしか思えないが、実際はもっと泥臭くて必死なのだと思う。夢を追うとは、聞こえがよくて美しく思えても、実際はもっと見苦しくて必死だ。

 由吏は知っている。
 ちっぽけなプライドなんてなんの役にも立たないから、すべてをかなぐり捨てて営業し、人間的に大嫌いな人でも必要とあらば関わりを持ち、経験を振りかざす男たちからのセクハラに耐え、後ろ指を指されるやり方でも夢に近づけるならなんでもする。

 必死なんだ、生きることに――。

 綾子だって、計算して立ち回れるくらい世渡り上手なんだから、本当は人に依存しなくても生きていけるはずなのに、怖いから依存してしまう。安心を選んでしまう。

 たとえば、川の上にかかる橋の欄干に立っているとして、道路側に落ちれば助かるとわかっているのに、川の高さにばかり目がいってそこから動けなくなってしまうような、そんな感覚。欄干の上で生きていくために、綾子は依存することを覚えた。

 彼女も自分と同じように生きるのに必死なんだと考えると、まったく理解できないと切り捨てるのは間違っているような気がする。わかり合える部分もあるんじゃないかって、そう思った。

「……そうかもね」

 由吏の発言に真っ先に反応したのは真澄だった。

「あたしも、2人と似てる部分があるなと思った」

 真澄の言葉に対して、由吏は少し驚いたような表情を見せた。誰にもわかってもらえないかもしれないと思いながら言葉にしたので、彼女が賛同してくれるとは思っていなかったからだ。

「綾子は孤独になりたくなくて必死で、それは綾子にとって死と同等なのかもしれない。由吏は、現状に不満を抱えながら必死に夢を叶えようとしてる。みんなそれぞれ事情があって、ギリギリのところで必死なんだよなあ……」

 自分に言い聞かせるように言う。真澄が由吏の話に耳を傾けたのはそれが理由だった。
 夢を持っている由吏が成功者のように感じて、夢のない自分は敗北者のように思っていた真澄は、由吏が何もかも幸せな道を歩んでいると疑わなかった。こんな腐った世の中に希望を持てる、バカで脳天気だけど、幸せ者。だから、妬ましかった。

 けれど話を聞いてみれば、由吏も人を恨み、憎しみ、ドロドロした感情を抱えながら、それらを隠して成功者のように振る舞っていた。由吏自身にそのつもりはなくても、真澄はそう感じていた。

 ――〝うまくいくことなんて、レア中のレア〟

 耳を傾けていなければ、きっと由吏の事情を一生知ることなく憎み続けていた。そして、由吏を悪者にして自分を正当化し、これからも希望のない日常に悪態をつきながら生きていくことになっただろう。

 希望なんてまだないし、長い時間をかけて育った妬みがそうかんたんに消えることもないだろうけど、少なくとも、自分だけがとは思わなくなった。

「綾子の言ってたことは、たぶん間違ってない。あたしは、自分が悲劇のヒロインか何かだと勘違いしてたんだと思う。自分だけが苦労してるって……」
「苦労してるのは本当でしょ」

 すかさず綾子が言葉を返した。

「苦労アピールむかつくって言ったけど、苦労してないとは思ってないよ。真澄ちゃんはあやと対極にいるような人だから、こうすればいいのにって思うこともあるけど、バイトしてお母さんのお世話もしてすごいなと思うもん。誰でも真似できることじゃないよ」

 心からの言葉のつもりだったが、真澄は「いまさらいいよ」と苦笑いを零した。

 綾子は、真澄の不器用な生き方にイライラしていた。
 真澄の境遇は悲惨だと思う。けど、人を頼り、人に縋り、時には使って、もっと自分本位に生きたほうが楽なのに、そうしないで悲観して、静かに苦労アピールしてくるのにむかついていた。

 けれど、想像していたよりもずっと、真澄はギリギリのところでもがき苦しんでいた。
 人を頼れだとか、もっとうまく生きたら楽なのにだとか、自分がこれまで真澄に思ってきたことは単なるきれいごとでしかなかった。心配するふりをして、その人の人生になんの責任もない部外者がワーワー喚いていただけ。――何もわかってなかった。

 それを、由吏に本心をぶつける真澄を見て痛感した。コテでやけどしてしまったときのように痛感した。あれは、ちくちくとあとに残る痛みだった。

 なんでも親に施してもらった綾子は、選択する機会を与えられないまま大人になった。親に捨てられ、親戚の家を回され、無責任にも再び現れた母の介助をすることになった真澄もまた、選択肢を奪われて生きてきたのだ。
 そういった意味では、真澄と自分は紙一重だったのかもしれない。

「ごめんね、真澄ちゃん……。あや、酷いこと言った」
「だったら、あたしも由吏に八つ当たりした。ごめん」
「ううん。もとを正せば、わたしがあやを嵌めようとしたわけだし……。ごめん」

 これまでまったく違う道を歩み、互いにコンプレックスを抱えていた3人。彼女たちは、理想像があってこうなりたいから、必死になって生きているわけじゃない。こうはなりたくないから、必死になって何かに縋りつきながら生きている。

 夢を持つ由吏だってそうなんだから、誰にでも起こりうる感情だ。後ろめたさに突き動かされることでしか自分を鼓舞できない。泥臭くて哀れで歪んでいて、それでいて役者だ。醜いとわかっているから、演じる。仲良しのふりをする。

 けれど、じつはみんな同じ穴の狢だった。あの子の嫌いな一面は自分も持っていて、あの子の気に食わないところは、あの子にとっても自分の気に食わないところ。奇しくも、憎悪に塗れた本音をぶつけ合ったことで、3人はそれに気づくことができた。

 一度、激しく衝突した3人のわだかまりは、きっと消えない。これまでのように夜空を見上げて未来に思いを馳せるような友達同士でいるのは、なにもかもを忘れないかぎりは難しいように思う。

 たとえば、誰か1人を犠牲にして笑い合うクラスのような、きれいごとにしか見えないだろう。だったら、ギスギスするのを隠さないクラスのほうがまったくいいってもんだ。少なくとも、彼女たちは後者を選んだ。
 とてもきれいとは言えない関係になってしまったとしても、由吏は、かすかに光が差し込むのを見た気がした。



「で、どうするの?」

 真澄がそっと将斗に視線を移した。これだけ応酬を繰り広げた空間にいても、将斗はまるで眠っているよう。

「どうするって、わたしはこんな男のために罪を被るのはやだよ」
「あ、あやだってやだ」
「なら、どうする?」

 真澄がもう一度尋ねると、2人は顔を見合わせた。

「逃げる。それしかないよ」
 綾子が言う。

「でも、その前に証拠を消さないと」
 由吏がすぐに返した。

「証拠って……」
「将斗を隠すの。見つからないところに埋めるとか」
「そんなことしたら、あやたちも共犯にならない?」
「そうかもしれない。でも、自分たちを守るためにはほかに方法がない」

 由吏の断定的な言い方も相まって、たしかな言葉として綾子の心に届く。
 それは、何かをするのに理由としてもっとも認められるべきもの。ほかでもない自分たちが、いま何よりも守らなければならないこと。自らも命の危険がある緊急時には、それを優先しても罪に問われないそうだ。

 ――だって、自分たちを守れるのは、自分たちだけなんだから。


 綾子は思いを巡らしたあと、おもむろに頷いた。

「うん……わかった。そうしよう。真澄ちゃんは?」
「あたしもそうするしかないと思う」

 その声にも迷いはなかった。真澄は立ち上がり、綾子に手を貸す。それを見ていた由吏も立ち上がって、迷いのない足取りで2人に近寄った。
 3人が向かい合わせになる。由吏は2人を交互に見た。

「共犯は、この世でもっとも効力のある契約なんだって」
「誰が言ったの?」

 綾子が尋ねると、由吏は一言。

「将斗」
「……納得」

 真澄が苦笑する。将斗が言ったのなら、そのとおりなんだろうと思う。
 由吏は咳払いをしてから話を続ける。

「逃れられなくて、約束を破ったときの代償があいまいで、失敗すれば共倒れ。もう後戻りはできない。やるしかないよ」
「そうだね」

 由吏がそっと円の真ん中に差し出した手の上に、綾子は自分の手をかざした。「ほら真澄ちゃんも」と言われて、真澄も手を重ねる。

「裏切らないでよ」

 気合いを入れるために円陣を組んで手を重ねる行為は、由吏たちのサークルでもあたりまえに使われている。けれど今日、新たな意味が加わった。それは、世界一歪んでいて、世界一信用できる〝共犯を約束する〟という意味。





 わたしたちが選んだのは、
 いびつで正しくない答えだったかもしれない。

 でも、これが必死に生きる者たちの必死(リアル)な選択。
 わたしたちは、共犯という関係でまたつながった。

 いや、もしかしたら、
 共犯になることで取り戻したかっただけなのかもしれない。


 たとえこれが、選べなかった者たちへ贈る
 破滅の物語(プロローグ)だったとしても――。



 外の雨はしばらく止みそうになかった。