「また辛気臭い顔して。今度はなんだ?やっぱり、塩と砂糖を間違えたのか?」
翌日の昼休み。上の空でオムライスを突いている遥真に、向かいの席に座っていた蒼生が呆れ口調で声を掛けた。
「お前のドジは根っからのものだ、失敗したなら次頑張れば良い」
蒼生の言葉にハッとした遥真は口をへの字に曲げる。
「別に、失敗はしてないよ」
多少の形崩れはしたが、凄く喜んでくれていた。寧ろ、料理当番の申し出は大成功だったと言っても過言ではない。しかし、遥真はそれ以上を話す様子はなかった。というより、話せる余裕がなかった。遥真は顔を逸らし、下を向く。
「なら、なにがあったんだ?」
眉を器用に動かし、蒼生が詰め寄るように言った。隣で兼彦が「行儀が悪いぞ」と、テーブルに乗り出す蒼生を嗜める。
「……なんでもない」
「はぁ?なんでもないって事はないだろ。お前、すぐ顔に出るんだから」
な、と同意を求めるように兼彦へ顔を向ける蒼生。兼彦は日替わり定食の味噌汁を啜りながら「そうだな」と、小さく頷いた。二人の視線が遥真へ向けられると、遥真は黙り込んで持っていたスプーンを弄ぶ。その、子供過ぎる反応に蒼生は大きな溜息を吐いた。
「もうやるなって?」
蒼生が尋ねると、遥真は首を横に振った。
「その……逆、というか」
「なんだ、喜ばれたのか。良かったじゃん」
「うん、良かった……んだけど」
遥真は小さな声で答え、顔を隠すように下を向いた。歯切れの悪い答えに蒼生が顔を一瞬顰めたが、その耳が赤く染まっていることに気がつくと「なるほどな」と呆れるように言った。
「好きになった……とか?」
「えっ」
下を向いていた遥真が勢よく顔を上げた。その顔は真っ赤に染まりあがっている。
「こりゃ、図星だな」
ニヤリと笑う蒼生と目が合うと、遥真は居た堪れず再び顔を下へ向けた。
「別におかしな事じゃないだろ。なぁ?」
下を向き、赤くなった耳を見せたままの遥真に向かって蒼生は言った。同意を求められた兼彦も「あれだけ尽くされたらな」と、日替わり定食の味噌汁を飲み込みながら答える。遥真は恐る恐る顔を上げた。蒼生と兼彦の顔を交互に見る。二人に茶化すような表情はない。遥真はコップに入った水を一気に飲み干し、真っ赤な顔のまま溜息を吐く。
「どうしたら良いか分からなくて」
「どうしたらって、伝えたら良いんじゃないのか?」
「そ、そんな簡単に言わないでよ!僕今、一緒に住んでるんだよ……?それにバイト先だって……」
「まだ答えを聞いた訳じゃないだろ?」
弱気な遥真に蒼生と兼彦が尋ねた。遥真は赤い顔のまま少しだけウーンと唸ると、暫くしてから口を開いた。
「幸成さんは、善意で僕を助けてくれただけで、僕のことをそういう風に見てるはずがないよ……。それに、幸成さんは優しい人だから、他のアルバイトの子が困っていても同じ事すると思うし……」
「まさか。善意で他人と暮らせるか?」
蒼生の言葉に兼彦はすぐ首を振った。
「利害の一致があったとしても、メリットがあるのは遥真だけだろう。俺ならお断りだな」
「でも兼彦、蒼生と住んでるじゃん……!」
「こいつと俺は利害の一致がある」
すると、すかさず蒼生が口を挟んだ。
「そうだぞ。俺は文字通りちゃんとしたものを食べるために兼彦と住んでるんだ。そしてこいつはこいつでちゃんとした環境で生活をするために俺と住んでる。ほら、兼彦って掃除出来ないし、ゴミの分別壊滅的だろ?」
「違う。あれは分かりにくい分別表が悪い」
「……もう分かったってば、二人の仲が良いのは」
ムキになった兼彦に蒼生がまた言い返そうとしたのを遥真が止めた。すると蒼生が「あぁもう、そうじゃなくて!」と急に大きな声を出した。
「俺達が言いたいのはな、あっちも下心があるって話だよ」
「そんな都合の良い話……」
何を言っても悲観的になっていく遥真に、痺れを切らした蒼生は舌打ちをした。
「んじゃ、思い返してみろ」
「えっ、な、何を……?」
蒼生が再び身体を乗り出し、遥真は身体を無意識に引いた。
「本当に何もなかったか?」
「え?」
「最上さんと、何もなかったのかって聞いてんだよ」
蒼生の問いに遥真は固まった。何もない、と言ってしまえば何もなかったが、彼の視線や言葉を思い返すとそうとも言い切れない気がしてならない。気の無い相手を抱きしめて、自分を大事にしてほしいと懇願するだろうか。好きでも無い相手が作った不細工な料理を、噛み締めるように大事に食べるだろうか。考えれば考えるほど、自分に都合の良い答えが出て来てしまう。同時に、君無しじゃいられなくなるなんて甘い言葉まで幸成の優しくて柔らかい低音と共に思い出してしまった。途端に身体が熱くなり始め、遥真は目をしばたたかせた。ドクドクという音が耳の奥で聞こえる。顔を上げると、目が合った兼彦に「顔、真っ赤だぞ」と呆れ気味に言われた。
「でも……」
遥真は口を開きかけ、黙り込む。自分へ向けられた好意に振り回されたばかりの自分が、好きという気持ちを人へぶつけて良いだろうか。不安がどっと押し寄せる。
僕の好きという感情は、一方的な気持ちになってしまわないだろうか……。
「ダメかダメじゃないのかは、お前が決める事じゃない」
考えていることを察したのか、蒼生が静かに言った。
「他人の気持ちなんて、結局は聞かなきゃ分からないだろ」
兼彦も口を挟み、遥真を促す。黙り込んだ三人の周りを、食堂の喧騒が包み込んだ。
確かに、見えないものは本人に聞き出す他ない。鈴音からの気持ちも最初は本人から吐き出されるまでは気がつくことが出来なかった事を思い出す。
「……わかったよ、でも」
「でも、なんだ?」
「もう少し、時間ちょうだい」
そう言って遥真はすっかり冷めたオムライスをスプーンで掬い、かぶりつく。
「やっぱり……ちょっとだけ怖い」
「そんなこと俺達に言われてもなぁ?」
「まったくだ」
「……なんか意地悪じゃない?」
「これ以上世話が焼けるのはごめんだって言ってるんだよ。でも心配するなって。お前が思っている以上に、最上さんはお前を気に入っているよ」
そう言ってニヤリと笑う蒼生の言葉に、遥真は眉をハの字に寄せて笑った。
気持ちを自覚してから数日、遥真の心臓は常にうるさく鳴りっぱなしだった。朝起きて一番の「おはよう」という何気ない挨拶でさえ、幸成の声色が変わって聞こえた。耳通りの良い低音は、一層強調して聞こえたし、姿を見るだけで見入ってしまった。
「お、おはよう、ございます……」
今朝も小さな声で返事をし、いそいそとキッチへ向かう。起き抜けに想い人の低音は刺激が強く、朝から顔も身体も全部が熱い。熱が出ているような感覚はなく、とにかく水でも飲んで身体を冷まそうと思った。食器棚からグラスを出し、蛇口を捻る。カウンターテーブルに二人分のコーヒーを置きに行った幸成にまで心臓の音が聞こえてしまいそうだった。
「……遥真くん、具合悪い?」
「えっ、あ、うわっ!」
水を出したまま、ぼうっとしてシンクの前から動かなくなった遥真の顔を幸成が覗き込んだ。幸成が移動したことにも気が付かず、驚いて遥真は持っていたグラスを床に落として割ってしまった。
「ご、ごめんなさいっ、今片付けます!」
「大丈夫だから落ち着いて。怪我してない?」
「ぼ、僕は大丈夫です……!それより、グラスが」
「見せて」
慌てる遥真に優しく幸成は声をかけた。グラスを持っていた手を取られ、切傷がないか確かめられた。
「うん、何ともないね」
幸成の息が遥真の指にかかり、身体がびくんと反応する。顔を上げた幸成と目が合い、微笑まれると、遥真は思わず顔を背けた。
「グラス、ごめんなさい……。すぐに片付けます」
「ううん。大したものじゃないから、気にしないで。遥真くん調子悪いみたいだし、片付けは俺がやるよ。熱は……ないね?」
幸成は遥真の額に手を当てる。無い熱が上がってきそうな気がして、遥真は慌てて再び大丈夫だと伝えた。
「……すみません……」
朝の忙しい時間に、余計な仕事を増やして申し訳ない気持ちで一杯になる。幸成は「仕事は午後からだから、俺には時間があるの」と、遥真に出かける準備をするよう促した。その言葉に甘え、遥真は部屋に戻って急いで着替えを済ますと、片付けをする幸成の横で簡単な朝食を作った。今朝は食パンにマヨネーズを塗り、レタスとハムとスライスチーズを挟んだサンドイッチ。朝はあまり食べないと聞いていたが、お詫びを込めて幸成の分も作った。
「美味しそうだね」
破片を拾い終え、掃除機を持って来た幸成が遥真の手元を覗き込んだ。
「幸成さんもどうぞ。朝、あまり食べないと聞いてましたけど……。無理そうでしたら、お昼にでも」
「良いの?じゃあ、一緒に食べようかな。遥真くんの作った朝ご飯食べれば、良い日になりそうだし。ほら、あのハンバーグを食べたら良い夢も見れたから」
幸成は掃除機を掛けながら言った。それは先日も聞いた話だった。幸成にとっては凄く都合の良い夢だったと内容は教えてはくれないものの、嬉しそうに話すので、遥真はあれからレシピ本やサイトを熟読するようになっていた。だが、遥真が作る料理が開運に繋がるかどうかは別の話である。
「言い過ぎですよ。僕、どっちかって言えば不運属性だし」
遥真が歩けば何とやら、と蒼生にも散々揶揄われてきたのだ。遥真は思わず苦笑いを返した。
「そうかなぁ、俺のラッキーアイテムは遥真くんの手料理かもしれないよ?」
「え?」
そう言って幸成がテレビを指差した。丁度ニュース番組の占いコーナーで、今日の乙女座のラッキーアイテムが『手料理』だった。
「ほら、ランキング一位だし」
「たまたまじゃ……あ」
そう言って笑って返すと最下位に番組のマスコットキャラの泣き顔と共に水瓶座がどんと映り出される。遥真の表情が途端に曇っていくのを見て、幸成はクツクツと声を殺して笑っていた。
「あはは、最下位ならグラスぐらい割れちゃうね」
「笑い事じゃないですよぉ、これ当たってたら僕っ」
「大丈夫だよ。ランキング一位がちゃんと送り迎えしてあげるから。ほらほら、早く食べちゃおう。いくら車でもギリギリに着いちゃうよ」
掃除機を立てかけると遥真の身体をテーブルへと向かわせる。
「は、はいっ」
遥真は背中を押されるままにサンドイッチを持ってテーブルに着いた。幸成はグラス破片を不燃ごみへさっさと入れ込むと、にこにこと嬉しそうにテーブルへ着き、ゆっくりと手を合わせる。その所作が何だか大袈裟に見え、遥真は思わず吹き出した。
「ん?」
遥真の笑い声に反応した幸成は大きな手でサンドイッチを持つと、齧り付きながら遥真へ顔を向けた。その口元にはマヨネーズが付いている。本人が気が付いてないのが可愛らしいと思ってしまい、遥真はくすりと微笑み返す。
「ここ、付いてます」
心臓がまた速く鳴り始める。それでも遥真の指は自然と幸成の頬へと伸びていき、幸成の口元に付いたマヨネーズを優しく拭った。すると、ぽかんとした幸成と目が合った遥真が突然我に返り、慌てふためき始めた。
「え……あっ、ああっ!ご、ごめんなさい!」
本日二度目の謝罪に、遥真はさっきよりも深々と頭を下げる。バクバクと鳴り出す心臓は、もう飛び出てしまっても仕方ない。しかし、頭を下げた遥真に返ってきたのは幸成の吹き出した笑い声だった。
「やっぱり、俺のラッキーアイテムかも」
「へ?」
くすりと笑った幸成が、遥真の頬に手を滑らせる。親指の先で遥真の唇を先端から端を軽くなぞった。幸成と同じく唇の端に少しのマヨネーズが付いていたようだった。
「んっ……」
思わず声が漏れ、幸成が目を丸くする。
「……遥真くん。外ではあんまり可愛いことしたらダメだよ?」
「し、しませんよっ!い、今のはつい……!」
「うん。俺の前だけにしようね」
「なっ……!」
「ほら、早く食べないと遅れちゃうよ」
くすくすと笑う幸成に促され、遥真は顔を真っ赤にしたままサンドイッチに齧り付く。幸成に聞こえないように溜息も吐いた。この生活はもしかしなくても相当心臓に悪いのかもしれない。しかし、自覚してから気が付つくにはもう遅い。遥真は横目でちらりと幸成の横顔を見上げた。少し上の方から小さなハミングが聞こえ、思わず頬が緩む。心臓に悪くても、この生活は心地良くて温かくて、許されるなら何年先も手放したくないと思ってしまった。
「遥真くん、今日はどこか出かけない?」
「え?」
休日が被った朝、バルコニーで洗濯物を干す遥真の背中に幸成が言った。寝巻き姿の幸成は、片手にコーヒーの入ったマグカップを持ち、欠伸をしている。くたびれたTシャツとダボついたスウェットを着た幸成はいつもとのギャップが激しい。時々寝癖もそのままで、ふわふわと揺れる髪に思わず笑みが溢れるが、今日はいつもより整っていた。
そもそも、そんな姿を見るようになったのはここ最近だ。幸成は、どういう訳か起きて直ぐ着替える事なくリビングにやって来るようになったのだ。自分の事で疲れさせてしまったのでは、と不安にもなったが、以前尋ねた際、幸成はそうではないときっぱりと言った。
「遥真くんになら、隙を見せても良いって思ったの」
悪戯っぽく笑いながら答える幸成に、思わず遥真は顔を赤らめた。それ以来、寝巻き姿の幸成を直視出来ていない。
「映画とかどうかな。何か観たいのはある?」
「映画ですか?」
咄嗟に聞かれた遥真は現在上映中の作品に覚えがあったかどうか、記憶を探る。
「別に映画じゃなくても良いよ。欲しいものがあれば買い物に行くでも良いし」
「欲しいもの……」
そう言われても咄嗟には何も浮かばない。もともと物欲は少ない方だし、一人暮らしをし始めてからは節約思考が板に付いている。そして何より、今は幸成に借金をしている状態だ。財布の紐を簡単に緩めてはいけない。
「難しく考えなくて良いよ。ちょっとふらっと立ち寄りたい場所とかさ」
ふと、洗濯籠の中に視線を落とす。そろそろ衣替えの時期だ。今年の梅雨は短く、早めの夏がやって来ると、気象予報士が言っていたのを思い出した。
「そしたら、そろそろ夏服を見に行きたいです」
ここへ引っ越す際、断捨離も兼ねて服を数点捨てて来たのだが、猛暑日が続くとなると、それなりに着替えは必要になる。多少は買い揃えておくべきだろうと考えた。
「分かった。じゃあ買い物で決まりね」
「はいっ」
遥真は頷き、洗濯の続きを始めた。
「じゃあ、準備して来るね」
そう言って幸成はリビングから出て行った。扉の向こうから微かにハミングが聞こえ、遥真は静かにくすりと笑った。
近所のショッピングモールで服屋を数軒梯子した遥真は、三軒目に入った店でブルーのシャツを購入した。幸成がプレゼントさせて欲しいと申し出たが、何とか断って自分で支払った。久々に納得のいく買い物が出来き、満足気な遥真が嬉しそうに店から出て来ると、外で待っていた幸成はなんだか不服そうだった。
「ちょっと高かったんじゃない?」
「そうですね、ちょっと奮発しすぎちゃったかもです」
苦笑いで答える遥真に、幸成は口をへの字に曲げた。
「だから俺が買ってあげるって言ったじゃん」
「ダメです。いつも買ってもらってばかりですから。それに、ちゃんと計算して買ってますよ。約束のお金は月々支払えますっ」
自信満々に遥真が答えると「そうじゃなくて」と、文句あり気な顔を見せて言った。
「初デート記念にプレゼントしたかったの」
「え?」
「デートのつもりで誘ったんだよ、今日」
「……えと、今……なんて?」
遥真はきょとんとした顔で首を傾げる。デートという単語が耳に入ってから、頭の中の処理が追いつかない。固まったまま自分を見上げる遥真に、幸成は眉毛を寄せて静かに笑った。
「まぁ、こんなおじさんとデートは嫌だよね」
ごめんごめん、冗談だよ、と一言付け加えると近くの施設案内を指差して「お昼、何か食べたいものあるかな」と話題を逸らす。だが、遥真の耳には幸成の言葉も、ランチの提案も届いていなかった。
「遥真くん……?」
遥真からは返事がなく、幸成は心配になって駆け寄った。
「あの……」
「あれ、遥真くん。顔、真っ赤だよ?」
幸成に指摘された遥真は慌てて下を向いた。
「もしかして具合悪い?」
幸成は今日の気温が平年より高いことを思い出し、どこか座れる場所を探そうとしたが、遥真が首を横に振った。
「違うんです……その、僕、驚いただけで」
顔を下に向けたまま遥真が答えた。ただの買い物だと思っていた。たまたま休日が重なって、家にいると松田の手伝いを買って出てしまう自分を気遣って連れ出したのだと思っていた。それを、いつか自分が幸成としたいと思っていた形で連れ出したと言われ、嬉しくて仕方ない。
「……遥真くん」
「嬉しいです、幸成さんと……デート」
目を逸らしながら顔を上げる遥真に、幸成は思わずごくりと喉を鳴らした。はっきりと見えない目が、微かに潤んでいるのが分かる。こんな純粋な思いを聞いたのはいつぶりだっただろうか。
二人の心音が賑やかなショッピングモールの中で一際高まる。気がつくと幸成の手が無意識に伸び、遥真の手首を掴んでいた。遥真は思わず赤らんだ顔を上げた。幸成の表情が強張っている。それがどうしようもなく愛おしく見えて、遥真は片方の手を自分の手首を掴む幸成の手に重ねた。
「やっぱり……記念に何かプレゼントしたいな」
「え?」
「これからは何度もあるけど、初めては今日だけじゃない」
柔らかい表情で幸成は言った。遥真はぽかんとしたまま幸成を見上げている。赤らんでいた顔は次第にいつもの桃色に変わり、幸成の言っている意味を数秒後に理解すると、遥真は小さく笑った。
「あれ、今のところって笑うところかなぁ……」
「ふふふ、すみません」
くすくすと笑う遥真の前で、幸成は困ったように笑う。しかし、前方から歩いて来る人を見てショッピングモール内である事を思い出すと、遥真は慌てて幸成から離れた。気恥ずかしくなってお互いに吹き出すと、幸成はにこりと微笑む。
「じゃあ行こうか。何か欲しいものがあったら教えてね」
「……あ、それなら」
遥真は先程シャツを購入した店の反対側にある、雑貨屋を指差した。大きなリボンが特徴なキャラクター、世界的に有名なネズミのキャラクターの新商品が通路側に目立つように並んでいる。
「あそこに行っても良いですか?」
「うん、良いよ」
幸成が頷くと、遥真は嬉しそうに小走りに駆けていく。キャラクターグッズに興味がある素振りを今まで見てこなかったため、遥真が雑貨屋を指さしたのは意外だった。
「あ、ありました!これです」
そう言って遥真が店内の棚からマスコットを取り出した。
「これ?」
「はい。ポメ郎って言うんです。蒼生達に似てるって言われてからずっと気に入ってて」
自分で似ていると言うのが少し恥ずかしかったようで、遥真はマスコットを一度棚へ戻した。名前からしてポメラニアンがモチーフなのは想像がついた。大きな潤んだ目が特徴で、ふわふわな栗色の毛が可愛らしい。
「確かに……。なんか見ててほわほわするところとかそっくりだ」
「ほわほわですか?」
「うん。ほわほわ」
幸成はくすりと笑うと「よし、こっちの遥真くんも家へ連れて帰ろう」と言って、棚の中で一番大きなポメ郎のぬいぐるみと、小さなマスコットを持ち出し、レジへ向かった。
「え、ちょっ、その小さい方だけで良いですよ!」
「だって第二の遥真くんだし」
「第二の僕ってなんですかっ!ていうか高いし場所もとりますから」
「ポメ郎に嫉妬?」
「幸成さんっ」
遥真の眉がぴくんと動く。頬がピンク色に染まっているのが可愛いくて、幸成は口角が緩んだ。
「リビングに置くから大丈夫」
「だからダメですってば。オシャレなリビングの景観が崩れますよ!」
「景観って、大げさだなぁ」
「それに僕のわがままで買って貰うんですから、大きなのはダメですっ」
「わがままって、俺がプレゼントしたいのに」
「良いからっ!」
「……わかったよ」
仕方なく溜息混じりにそう答えたが、幸成はそのままレジカウンターに二つの商品を置いた。
「ちょ、分かってな」
「大きいのは俺の、だから」
「……え?」
「これは俺の部屋用にする。それならリビングの景観とやらも崩れないね」
「はぁ?」
遥真から気の抜けた声が漏れた。リビングに置くのは確かにダメだが、自室なら大丈夫だとという話ではない。意味がよく分からないが、恥ずかしいのは確かで、止めないといけない気がする。頭の中の処理が追いつかないままでいると、幸成はクレジット決済でさっさと支払いを済ませてしまった。
「それじゃ、一旦車に戻ろうか」
遥真は頷いた。小さなマスコットの方は入れる袋があったようだが、大きなぬいぐるみに関しては入る袋がなかったため、幸成が手持ちで抱いている。幸成はただでさえ容姿でも目立つ方だ。大きなぬいぐるみを抱えたままショッピングモール内を歩くのは罰ゲームに見えても仕方ない。だが、その格好をまじまじと見つめた遥真は、頬を緩ませた。
「幸成さん、可愛いですよ」
くすくすと笑う遥真が楽しそうに見え、幸成も微笑んだ。
「可愛いなんていつぶりに言われたかな。子供の時以来かも」
そう答える幸成を見上げて、再び遥真はにこりと笑う。
「でも本当にそのぬいぐるみ、幸成さんの部屋に置くんですか?」
「勿論。遥真くんに似てるって言われたら、側に置いておきたいじゃない」
幸成がしれっと答えると、遥真の動きがぴたりと止まる。あれ、と遥真の顔を幸成が覗くとジトっとした目を向けられた。
「……返品、まだ間に合う気がしますけど」
「やーだよ」
幸成は悪戯っぽく笑う。赤くなった遥真は子供のように頬を膨らませると「言わなきゃ良かった」と、小さな声で呟いた。その顔がよりポメ郎に似ていると思った幸成だったが、これ以上は言わないでおいた。
翌日の昼休み。上の空でオムライスを突いている遥真に、向かいの席に座っていた蒼生が呆れ口調で声を掛けた。
「お前のドジは根っからのものだ、失敗したなら次頑張れば良い」
蒼生の言葉にハッとした遥真は口をへの字に曲げる。
「別に、失敗はしてないよ」
多少の形崩れはしたが、凄く喜んでくれていた。寧ろ、料理当番の申し出は大成功だったと言っても過言ではない。しかし、遥真はそれ以上を話す様子はなかった。というより、話せる余裕がなかった。遥真は顔を逸らし、下を向く。
「なら、なにがあったんだ?」
眉を器用に動かし、蒼生が詰め寄るように言った。隣で兼彦が「行儀が悪いぞ」と、テーブルに乗り出す蒼生を嗜める。
「……なんでもない」
「はぁ?なんでもないって事はないだろ。お前、すぐ顔に出るんだから」
な、と同意を求めるように兼彦へ顔を向ける蒼生。兼彦は日替わり定食の味噌汁を啜りながら「そうだな」と、小さく頷いた。二人の視線が遥真へ向けられると、遥真は黙り込んで持っていたスプーンを弄ぶ。その、子供過ぎる反応に蒼生は大きな溜息を吐いた。
「もうやるなって?」
蒼生が尋ねると、遥真は首を横に振った。
「その……逆、というか」
「なんだ、喜ばれたのか。良かったじゃん」
「うん、良かった……んだけど」
遥真は小さな声で答え、顔を隠すように下を向いた。歯切れの悪い答えに蒼生が顔を一瞬顰めたが、その耳が赤く染まっていることに気がつくと「なるほどな」と呆れるように言った。
「好きになった……とか?」
「えっ」
下を向いていた遥真が勢よく顔を上げた。その顔は真っ赤に染まりあがっている。
「こりゃ、図星だな」
ニヤリと笑う蒼生と目が合うと、遥真は居た堪れず再び顔を下へ向けた。
「別におかしな事じゃないだろ。なぁ?」
下を向き、赤くなった耳を見せたままの遥真に向かって蒼生は言った。同意を求められた兼彦も「あれだけ尽くされたらな」と、日替わり定食の味噌汁を飲み込みながら答える。遥真は恐る恐る顔を上げた。蒼生と兼彦の顔を交互に見る。二人に茶化すような表情はない。遥真はコップに入った水を一気に飲み干し、真っ赤な顔のまま溜息を吐く。
「どうしたら良いか分からなくて」
「どうしたらって、伝えたら良いんじゃないのか?」
「そ、そんな簡単に言わないでよ!僕今、一緒に住んでるんだよ……?それにバイト先だって……」
「まだ答えを聞いた訳じゃないだろ?」
弱気な遥真に蒼生と兼彦が尋ねた。遥真は赤い顔のまま少しだけウーンと唸ると、暫くしてから口を開いた。
「幸成さんは、善意で僕を助けてくれただけで、僕のことをそういう風に見てるはずがないよ……。それに、幸成さんは優しい人だから、他のアルバイトの子が困っていても同じ事すると思うし……」
「まさか。善意で他人と暮らせるか?」
蒼生の言葉に兼彦はすぐ首を振った。
「利害の一致があったとしても、メリットがあるのは遥真だけだろう。俺ならお断りだな」
「でも兼彦、蒼生と住んでるじゃん……!」
「こいつと俺は利害の一致がある」
すると、すかさず蒼生が口を挟んだ。
「そうだぞ。俺は文字通りちゃんとしたものを食べるために兼彦と住んでるんだ。そしてこいつはこいつでちゃんとした環境で生活をするために俺と住んでる。ほら、兼彦って掃除出来ないし、ゴミの分別壊滅的だろ?」
「違う。あれは分かりにくい分別表が悪い」
「……もう分かったってば、二人の仲が良いのは」
ムキになった兼彦に蒼生がまた言い返そうとしたのを遥真が止めた。すると蒼生が「あぁもう、そうじゃなくて!」と急に大きな声を出した。
「俺達が言いたいのはな、あっちも下心があるって話だよ」
「そんな都合の良い話……」
何を言っても悲観的になっていく遥真に、痺れを切らした蒼生は舌打ちをした。
「んじゃ、思い返してみろ」
「えっ、な、何を……?」
蒼生が再び身体を乗り出し、遥真は身体を無意識に引いた。
「本当に何もなかったか?」
「え?」
「最上さんと、何もなかったのかって聞いてんだよ」
蒼生の問いに遥真は固まった。何もない、と言ってしまえば何もなかったが、彼の視線や言葉を思い返すとそうとも言い切れない気がしてならない。気の無い相手を抱きしめて、自分を大事にしてほしいと懇願するだろうか。好きでも無い相手が作った不細工な料理を、噛み締めるように大事に食べるだろうか。考えれば考えるほど、自分に都合の良い答えが出て来てしまう。同時に、君無しじゃいられなくなるなんて甘い言葉まで幸成の優しくて柔らかい低音と共に思い出してしまった。途端に身体が熱くなり始め、遥真は目をしばたたかせた。ドクドクという音が耳の奥で聞こえる。顔を上げると、目が合った兼彦に「顔、真っ赤だぞ」と呆れ気味に言われた。
「でも……」
遥真は口を開きかけ、黙り込む。自分へ向けられた好意に振り回されたばかりの自分が、好きという気持ちを人へぶつけて良いだろうか。不安がどっと押し寄せる。
僕の好きという感情は、一方的な気持ちになってしまわないだろうか……。
「ダメかダメじゃないのかは、お前が決める事じゃない」
考えていることを察したのか、蒼生が静かに言った。
「他人の気持ちなんて、結局は聞かなきゃ分からないだろ」
兼彦も口を挟み、遥真を促す。黙り込んだ三人の周りを、食堂の喧騒が包み込んだ。
確かに、見えないものは本人に聞き出す他ない。鈴音からの気持ちも最初は本人から吐き出されるまでは気がつくことが出来なかった事を思い出す。
「……わかったよ、でも」
「でも、なんだ?」
「もう少し、時間ちょうだい」
そう言って遥真はすっかり冷めたオムライスをスプーンで掬い、かぶりつく。
「やっぱり……ちょっとだけ怖い」
「そんなこと俺達に言われてもなぁ?」
「まったくだ」
「……なんか意地悪じゃない?」
「これ以上世話が焼けるのはごめんだって言ってるんだよ。でも心配するなって。お前が思っている以上に、最上さんはお前を気に入っているよ」
そう言ってニヤリと笑う蒼生の言葉に、遥真は眉をハの字に寄せて笑った。
気持ちを自覚してから数日、遥真の心臓は常にうるさく鳴りっぱなしだった。朝起きて一番の「おはよう」という何気ない挨拶でさえ、幸成の声色が変わって聞こえた。耳通りの良い低音は、一層強調して聞こえたし、姿を見るだけで見入ってしまった。
「お、おはよう、ございます……」
今朝も小さな声で返事をし、いそいそとキッチへ向かう。起き抜けに想い人の低音は刺激が強く、朝から顔も身体も全部が熱い。熱が出ているような感覚はなく、とにかく水でも飲んで身体を冷まそうと思った。食器棚からグラスを出し、蛇口を捻る。カウンターテーブルに二人分のコーヒーを置きに行った幸成にまで心臓の音が聞こえてしまいそうだった。
「……遥真くん、具合悪い?」
「えっ、あ、うわっ!」
水を出したまま、ぼうっとしてシンクの前から動かなくなった遥真の顔を幸成が覗き込んだ。幸成が移動したことにも気が付かず、驚いて遥真は持っていたグラスを床に落として割ってしまった。
「ご、ごめんなさいっ、今片付けます!」
「大丈夫だから落ち着いて。怪我してない?」
「ぼ、僕は大丈夫です……!それより、グラスが」
「見せて」
慌てる遥真に優しく幸成は声をかけた。グラスを持っていた手を取られ、切傷がないか確かめられた。
「うん、何ともないね」
幸成の息が遥真の指にかかり、身体がびくんと反応する。顔を上げた幸成と目が合い、微笑まれると、遥真は思わず顔を背けた。
「グラス、ごめんなさい……。すぐに片付けます」
「ううん。大したものじゃないから、気にしないで。遥真くん調子悪いみたいだし、片付けは俺がやるよ。熱は……ないね?」
幸成は遥真の額に手を当てる。無い熱が上がってきそうな気がして、遥真は慌てて再び大丈夫だと伝えた。
「……すみません……」
朝の忙しい時間に、余計な仕事を増やして申し訳ない気持ちで一杯になる。幸成は「仕事は午後からだから、俺には時間があるの」と、遥真に出かける準備をするよう促した。その言葉に甘え、遥真は部屋に戻って急いで着替えを済ますと、片付けをする幸成の横で簡単な朝食を作った。今朝は食パンにマヨネーズを塗り、レタスとハムとスライスチーズを挟んだサンドイッチ。朝はあまり食べないと聞いていたが、お詫びを込めて幸成の分も作った。
「美味しそうだね」
破片を拾い終え、掃除機を持って来た幸成が遥真の手元を覗き込んだ。
「幸成さんもどうぞ。朝、あまり食べないと聞いてましたけど……。無理そうでしたら、お昼にでも」
「良いの?じゃあ、一緒に食べようかな。遥真くんの作った朝ご飯食べれば、良い日になりそうだし。ほら、あのハンバーグを食べたら良い夢も見れたから」
幸成は掃除機を掛けながら言った。それは先日も聞いた話だった。幸成にとっては凄く都合の良い夢だったと内容は教えてはくれないものの、嬉しそうに話すので、遥真はあれからレシピ本やサイトを熟読するようになっていた。だが、遥真が作る料理が開運に繋がるかどうかは別の話である。
「言い過ぎですよ。僕、どっちかって言えば不運属性だし」
遥真が歩けば何とやら、と蒼生にも散々揶揄われてきたのだ。遥真は思わず苦笑いを返した。
「そうかなぁ、俺のラッキーアイテムは遥真くんの手料理かもしれないよ?」
「え?」
そう言って幸成がテレビを指差した。丁度ニュース番組の占いコーナーで、今日の乙女座のラッキーアイテムが『手料理』だった。
「ほら、ランキング一位だし」
「たまたまじゃ……あ」
そう言って笑って返すと最下位に番組のマスコットキャラの泣き顔と共に水瓶座がどんと映り出される。遥真の表情が途端に曇っていくのを見て、幸成はクツクツと声を殺して笑っていた。
「あはは、最下位ならグラスぐらい割れちゃうね」
「笑い事じゃないですよぉ、これ当たってたら僕っ」
「大丈夫だよ。ランキング一位がちゃんと送り迎えしてあげるから。ほらほら、早く食べちゃおう。いくら車でもギリギリに着いちゃうよ」
掃除機を立てかけると遥真の身体をテーブルへと向かわせる。
「は、はいっ」
遥真は背中を押されるままにサンドイッチを持ってテーブルに着いた。幸成はグラス破片を不燃ごみへさっさと入れ込むと、にこにこと嬉しそうにテーブルへ着き、ゆっくりと手を合わせる。その所作が何だか大袈裟に見え、遥真は思わず吹き出した。
「ん?」
遥真の笑い声に反応した幸成は大きな手でサンドイッチを持つと、齧り付きながら遥真へ顔を向けた。その口元にはマヨネーズが付いている。本人が気が付いてないのが可愛らしいと思ってしまい、遥真はくすりと微笑み返す。
「ここ、付いてます」
心臓がまた速く鳴り始める。それでも遥真の指は自然と幸成の頬へと伸びていき、幸成の口元に付いたマヨネーズを優しく拭った。すると、ぽかんとした幸成と目が合った遥真が突然我に返り、慌てふためき始めた。
「え……あっ、ああっ!ご、ごめんなさい!」
本日二度目の謝罪に、遥真はさっきよりも深々と頭を下げる。バクバクと鳴り出す心臓は、もう飛び出てしまっても仕方ない。しかし、頭を下げた遥真に返ってきたのは幸成の吹き出した笑い声だった。
「やっぱり、俺のラッキーアイテムかも」
「へ?」
くすりと笑った幸成が、遥真の頬に手を滑らせる。親指の先で遥真の唇を先端から端を軽くなぞった。幸成と同じく唇の端に少しのマヨネーズが付いていたようだった。
「んっ……」
思わず声が漏れ、幸成が目を丸くする。
「……遥真くん。外ではあんまり可愛いことしたらダメだよ?」
「し、しませんよっ!い、今のはつい……!」
「うん。俺の前だけにしようね」
「なっ……!」
「ほら、早く食べないと遅れちゃうよ」
くすくすと笑う幸成に促され、遥真は顔を真っ赤にしたままサンドイッチに齧り付く。幸成に聞こえないように溜息も吐いた。この生活はもしかしなくても相当心臓に悪いのかもしれない。しかし、自覚してから気が付つくにはもう遅い。遥真は横目でちらりと幸成の横顔を見上げた。少し上の方から小さなハミングが聞こえ、思わず頬が緩む。心臓に悪くても、この生活は心地良くて温かくて、許されるなら何年先も手放したくないと思ってしまった。
「遥真くん、今日はどこか出かけない?」
「え?」
休日が被った朝、バルコニーで洗濯物を干す遥真の背中に幸成が言った。寝巻き姿の幸成は、片手にコーヒーの入ったマグカップを持ち、欠伸をしている。くたびれたTシャツとダボついたスウェットを着た幸成はいつもとのギャップが激しい。時々寝癖もそのままで、ふわふわと揺れる髪に思わず笑みが溢れるが、今日はいつもより整っていた。
そもそも、そんな姿を見るようになったのはここ最近だ。幸成は、どういう訳か起きて直ぐ着替える事なくリビングにやって来るようになったのだ。自分の事で疲れさせてしまったのでは、と不安にもなったが、以前尋ねた際、幸成はそうではないときっぱりと言った。
「遥真くんになら、隙を見せても良いって思ったの」
悪戯っぽく笑いながら答える幸成に、思わず遥真は顔を赤らめた。それ以来、寝巻き姿の幸成を直視出来ていない。
「映画とかどうかな。何か観たいのはある?」
「映画ですか?」
咄嗟に聞かれた遥真は現在上映中の作品に覚えがあったかどうか、記憶を探る。
「別に映画じゃなくても良いよ。欲しいものがあれば買い物に行くでも良いし」
「欲しいもの……」
そう言われても咄嗟には何も浮かばない。もともと物欲は少ない方だし、一人暮らしをし始めてからは節約思考が板に付いている。そして何より、今は幸成に借金をしている状態だ。財布の紐を簡単に緩めてはいけない。
「難しく考えなくて良いよ。ちょっとふらっと立ち寄りたい場所とかさ」
ふと、洗濯籠の中に視線を落とす。そろそろ衣替えの時期だ。今年の梅雨は短く、早めの夏がやって来ると、気象予報士が言っていたのを思い出した。
「そしたら、そろそろ夏服を見に行きたいです」
ここへ引っ越す際、断捨離も兼ねて服を数点捨てて来たのだが、猛暑日が続くとなると、それなりに着替えは必要になる。多少は買い揃えておくべきだろうと考えた。
「分かった。じゃあ買い物で決まりね」
「はいっ」
遥真は頷き、洗濯の続きを始めた。
「じゃあ、準備して来るね」
そう言って幸成はリビングから出て行った。扉の向こうから微かにハミングが聞こえ、遥真は静かにくすりと笑った。
近所のショッピングモールで服屋を数軒梯子した遥真は、三軒目に入った店でブルーのシャツを購入した。幸成がプレゼントさせて欲しいと申し出たが、何とか断って自分で支払った。久々に納得のいく買い物が出来き、満足気な遥真が嬉しそうに店から出て来ると、外で待っていた幸成はなんだか不服そうだった。
「ちょっと高かったんじゃない?」
「そうですね、ちょっと奮発しすぎちゃったかもです」
苦笑いで答える遥真に、幸成は口をへの字に曲げた。
「だから俺が買ってあげるって言ったじゃん」
「ダメです。いつも買ってもらってばかりですから。それに、ちゃんと計算して買ってますよ。約束のお金は月々支払えますっ」
自信満々に遥真が答えると「そうじゃなくて」と、文句あり気な顔を見せて言った。
「初デート記念にプレゼントしたかったの」
「え?」
「デートのつもりで誘ったんだよ、今日」
「……えと、今……なんて?」
遥真はきょとんとした顔で首を傾げる。デートという単語が耳に入ってから、頭の中の処理が追いつかない。固まったまま自分を見上げる遥真に、幸成は眉毛を寄せて静かに笑った。
「まぁ、こんなおじさんとデートは嫌だよね」
ごめんごめん、冗談だよ、と一言付け加えると近くの施設案内を指差して「お昼、何か食べたいものあるかな」と話題を逸らす。だが、遥真の耳には幸成の言葉も、ランチの提案も届いていなかった。
「遥真くん……?」
遥真からは返事がなく、幸成は心配になって駆け寄った。
「あの……」
「あれ、遥真くん。顔、真っ赤だよ?」
幸成に指摘された遥真は慌てて下を向いた。
「もしかして具合悪い?」
幸成は今日の気温が平年より高いことを思い出し、どこか座れる場所を探そうとしたが、遥真が首を横に振った。
「違うんです……その、僕、驚いただけで」
顔を下に向けたまま遥真が答えた。ただの買い物だと思っていた。たまたま休日が重なって、家にいると松田の手伝いを買って出てしまう自分を気遣って連れ出したのだと思っていた。それを、いつか自分が幸成としたいと思っていた形で連れ出したと言われ、嬉しくて仕方ない。
「……遥真くん」
「嬉しいです、幸成さんと……デート」
目を逸らしながら顔を上げる遥真に、幸成は思わずごくりと喉を鳴らした。はっきりと見えない目が、微かに潤んでいるのが分かる。こんな純粋な思いを聞いたのはいつぶりだっただろうか。
二人の心音が賑やかなショッピングモールの中で一際高まる。気がつくと幸成の手が無意識に伸び、遥真の手首を掴んでいた。遥真は思わず赤らんだ顔を上げた。幸成の表情が強張っている。それがどうしようもなく愛おしく見えて、遥真は片方の手を自分の手首を掴む幸成の手に重ねた。
「やっぱり……記念に何かプレゼントしたいな」
「え?」
「これからは何度もあるけど、初めては今日だけじゃない」
柔らかい表情で幸成は言った。遥真はぽかんとしたまま幸成を見上げている。赤らんでいた顔は次第にいつもの桃色に変わり、幸成の言っている意味を数秒後に理解すると、遥真は小さく笑った。
「あれ、今のところって笑うところかなぁ……」
「ふふふ、すみません」
くすくすと笑う遥真の前で、幸成は困ったように笑う。しかし、前方から歩いて来る人を見てショッピングモール内である事を思い出すと、遥真は慌てて幸成から離れた。気恥ずかしくなってお互いに吹き出すと、幸成はにこりと微笑む。
「じゃあ行こうか。何か欲しいものがあったら教えてね」
「……あ、それなら」
遥真は先程シャツを購入した店の反対側にある、雑貨屋を指差した。大きなリボンが特徴なキャラクター、世界的に有名なネズミのキャラクターの新商品が通路側に目立つように並んでいる。
「あそこに行っても良いですか?」
「うん、良いよ」
幸成が頷くと、遥真は嬉しそうに小走りに駆けていく。キャラクターグッズに興味がある素振りを今まで見てこなかったため、遥真が雑貨屋を指さしたのは意外だった。
「あ、ありました!これです」
そう言って遥真が店内の棚からマスコットを取り出した。
「これ?」
「はい。ポメ郎って言うんです。蒼生達に似てるって言われてからずっと気に入ってて」
自分で似ていると言うのが少し恥ずかしかったようで、遥真はマスコットを一度棚へ戻した。名前からしてポメラニアンがモチーフなのは想像がついた。大きな潤んだ目が特徴で、ふわふわな栗色の毛が可愛らしい。
「確かに……。なんか見ててほわほわするところとかそっくりだ」
「ほわほわですか?」
「うん。ほわほわ」
幸成はくすりと笑うと「よし、こっちの遥真くんも家へ連れて帰ろう」と言って、棚の中で一番大きなポメ郎のぬいぐるみと、小さなマスコットを持ち出し、レジへ向かった。
「え、ちょっ、その小さい方だけで良いですよ!」
「だって第二の遥真くんだし」
「第二の僕ってなんですかっ!ていうか高いし場所もとりますから」
「ポメ郎に嫉妬?」
「幸成さんっ」
遥真の眉がぴくんと動く。頬がピンク色に染まっているのが可愛いくて、幸成は口角が緩んだ。
「リビングに置くから大丈夫」
「だからダメですってば。オシャレなリビングの景観が崩れますよ!」
「景観って、大げさだなぁ」
「それに僕のわがままで買って貰うんですから、大きなのはダメですっ」
「わがままって、俺がプレゼントしたいのに」
「良いからっ!」
「……わかったよ」
仕方なく溜息混じりにそう答えたが、幸成はそのままレジカウンターに二つの商品を置いた。
「ちょ、分かってな」
「大きいのは俺の、だから」
「……え?」
「これは俺の部屋用にする。それならリビングの景観とやらも崩れないね」
「はぁ?」
遥真から気の抜けた声が漏れた。リビングに置くのは確かにダメだが、自室なら大丈夫だとという話ではない。意味がよく分からないが、恥ずかしいのは確かで、止めないといけない気がする。頭の中の処理が追いつかないままでいると、幸成はクレジット決済でさっさと支払いを済ませてしまった。
「それじゃ、一旦車に戻ろうか」
遥真は頷いた。小さなマスコットの方は入れる袋があったようだが、大きなぬいぐるみに関しては入る袋がなかったため、幸成が手持ちで抱いている。幸成はただでさえ容姿でも目立つ方だ。大きなぬいぐるみを抱えたままショッピングモール内を歩くのは罰ゲームに見えても仕方ない。だが、その格好をまじまじと見つめた遥真は、頬を緩ませた。
「幸成さん、可愛いですよ」
くすくすと笑う遥真が楽しそうに見え、幸成も微笑んだ。
「可愛いなんていつぶりに言われたかな。子供の時以来かも」
そう答える幸成を見上げて、再び遥真はにこりと笑う。
「でも本当にそのぬいぐるみ、幸成さんの部屋に置くんですか?」
「勿論。遥真くんに似てるって言われたら、側に置いておきたいじゃない」
幸成がしれっと答えると、遥真の動きがぴたりと止まる。あれ、と遥真の顔を幸成が覗くとジトっとした目を向けられた。
「……返品、まだ間に合う気がしますけど」
「やーだよ」
幸成は悪戯っぽく笑う。赤くなった遥真は子供のように頬を膨らませると「言わなきゃ良かった」と、小さな声で呟いた。その顔がよりポメ郎に似ていると思った幸成だったが、これ以上は言わないでおいた。



