遥真がアパートを引き払い、幸成の部屋に引越して一ヶ月が経った。もともと荷物は少ない方だったため、片付けは半日で終わった。持ち出した家具はハンガーラック付きのチェストと折り畳み式の簡易ベッド、そして小さな卓上テーブルのみ。その全てが幸成の空き部屋にすっぽりと収まった。まだ使える冷蔵庫や洗濯機などの家電はリサイクルショップで売り払い、そのお金で足りない物を買い足した。
 バーのアルバイトも引越しや気持ちの整理に区切りが付き、出勤を開始した。暫く休みを貰っていたというのに、スタッフの皆は快く迎えてくれた。ただ、シフトに関してだけは、暫くは幸成と同じ日や幸成が動ける日だけの出勤をするよう旭から言い渡された。幸成から軽く事情を聞いた旭は、鈴音からの差し入れを何の疑いもなく受け取ってしまったことを悔やんでいるらしく、当分はできるだけ遥真を一人で帰宅させるのを避けようと考えているようだった。

「……なるほど。そいつは良い考えだな」
 昼休み後の空き時間に、遥真からバイト復帰の報告を受けた蒼生は、箱詰めで買ってきた人気チェーン店のドーナツを頬張りながら言った。ついさっき昼食に大盛りの唐揚げ定食を食べたばかりだが、別腹が働くらしい。見ているだけで胸焼けしそうだと呟きながら兼彦は蒼生に同意だと頷いた。
「最上さんが動けない時は呼んでくれ」
「そうだぞ。あいつがいつどこに潜んでいるか分かりゃしないからな」
 蒼生はオールドファッションドーナツを一つ遥真の前に差し出しながら言った。一緒に買いに行った時に好きだと言ったのを覚えていてくれたようだった。
「怖いこと言わないでよ」
 遥真はドーナツを受け取りながら言った。
「でも、ありがとう。今のところは大丈夫だよ。幸成さん、凄い心配症だから」
 苦笑いを混えて答えると、兼彦は「そうだろうな」と溢した。その横で蒼生もにやけながら頷いている。
「ああいうのこそ超ド級過保護って言うんだよ。あの人はこの件を一生言う性格だな。そうやってお前をずーっと護ろうとするタイプだ」
「まさか」
 遥真は笑って答えた。
「ずっとはないよ。それに早く借金返して出ていかないと。これ以上迷惑かけられないし……。僕、家の手伝いも出来てないから」
 遥真が困ったように答えると、蒼生と兼彦はまた何かやろうとしてドジでもしたのかと呆れ気味に聞き返した。
「違う違う。僕が家事をやろうとすると、外注してるからって直ぐやめさせるんだ。これじゃ、住んでいる間になんの恩返しもできやしないよ」
 遥真はそう言ってこの間、風呂掃除を買って出たが、洗剤で手が荒れてしまうだとか色々な理由を付けて幸成に止められた話をした。
「あれだ、たまに居るだろ。知人に部屋の掃除をされたくないやつとか」
「そりゃお前の話だろ、兼彦。足の踏み場がなくなるほどレジュメやレポートやらをばら撒くのが得意だもんな」
 蒼生は嫌味ったらしく言うとまた新しいドーナツに齧り付く。その横で兼彦は舌打ちをすると、黙り込んだまま目の前のノートパソコンで作業を再開した。蒼生と兼彦の言い合いを見ていた遥真は「距離感……の問題かなぁ」と小さく溢す。すると、蒼生が溜息を吐いた。
「お前が気にしなくてもあの人はしれっと距離を詰めに来るさ。言ったろ、最上さんはお前に対して超が付くほどの過保護だって」
「でも……」
 やっぱり、ただ住まわせて貰っているだけでは忍びない。どうにか自分の手で何かしてあげられることはないだろうか。
 遥真が考え込み始めると、蒼生はようやくドーナツの箱の蓋を閉め「食っていいぞ」と、兼彦の前にそれを押しやった。怪訝そうな顔をしながら兼彦は、その箱からストロベリーチョコレートがかかったドーナツを取り出し、眉を顰めながら齧り付き、遥真の方を見て言った。
「そんなに難しく考えることじゃないだろ」
「……え?」
「最上さんみたいなタイプは割と押しに弱い」
 兼彦が言い直すと、蒼生が頷いた。
「確かにな。じゃあ、サプライズはどうだ?」
「サプライズ?」
「題して胃袋ゲット大作戦だ」
「胃袋ゲット大作戦?」
 ネーミングセンスに引っかかた遥真が繰り返したが、蒼生は生き生きとした表情で続けた。
「最上さんが出勤の日、理由を付けて一日休みを入れろ。俺達と遊ぶとか言えば良い。掃除だけいつも通りハウスキーパーに頼んで、お前が夕食を作るんだ」
「……なるほど」
 ふんふんと真剣に頷き聞く遥真に、兼彦は小さな溜息を吐いた。
「ハウスキーパー頼みの大人だ。自炊なんて滅多にしないだろ。きっと何を作っても感動するのがオチだ」
 自信満々に話す蒼生は、自分よりも幸成を知っている風な口振りだった。それが妙に気になって、遥真は少し考えてから口をへの字に曲げた。
「……上手くいくかなぁ」
 小さな嫉妬が渦を巻き、素直に友人の発案を実行したくない気持ちと、幸成を言いくるめられるかの不安が重なった。
「お前が砂糖と塩を間違えるとかしなきゃ上手くいくさ」
「そんな間違いしないよ」
 いくら自他共に認めるドジでも、その間違いはした事はない。これでもつい最近まで一人暮で自炊もできていた。焦がすことや、買ってきたものが少し傷んでいたことはあっても、食べれない物を作ったことはない。
「ま、やるだけやってみたら良い。どうせやるなら買い物は付き合うし」
「……そうだね」
 すんなりと蒼生の提案を飲む事に小さな抵抗を覚えたが、自分のために考えてくれた事もあって無碍にはできず、遥真は蒼生の作戦に乗る事にしたのだった。


 遥真は早速次のシフト提出のタイミングでスケジュールを調整した。毎週出勤している曜日を一日空けて提出すると、案の定幸成から「この日は何かあるの?」と尋ねられ、遥真は「蒼生達と出掛けるんです」と用意していたセリフを言った。買い物には付き合ってくれると言われていたし、別に嘘ではない。幸成は一瞬考えるような素振りをしたが、自分のシフトを調整すれば良いかと呟き、直ぐににこりと微笑んで「遅くならないようにね」と小さな子に言い聞かせるよう優しく言った。
 そして作戦当日。遥真は午前中大学で講義を受けると、午後は蒼生と兼彦と一緒に買い出しへ向かった。向かった最寄りのスーパーは、一人暮らしの時にも利用していたので、店内の配置は頭の中に記憶していた。
「それで、何を作るんだ?」
 カゴをカートの上に乗せ、兼彦にカートを押し付けた蒼生が、遥真の横で陳列された野菜を眺めながら尋ねた。
「今日はハンバーグ。沢山作って残ったら、明日はほぐしてミートソースにするんだ」
 玉ねぎをカゴへ入れ込み、遥真が答えた。目線は既に次の食材へ移っている。
「いいな、それ。俺も食べたい」
 蒼生が兼彦にちらりと目配せすると、兼彦は小さな溜息を吐き、カートの下段に新しいカゴを置いて食材を中に入れた。
 三人は食材を買い込むと、幸成と遥真の住むマンションへ向かい、エントランスで別れた。遠回りになるからと送りは断ったのだが、蒼生も兼彦も頑なに首を振る。心配が半分、幸成の部屋への興味が半分といったところだろう。だが、住まわせてもらっている身で、勝手に友人を上げる訳にはいかない。二人には今度幸成が居る時に呼ぶことを約束し、エントランスまでで妥協してもらった。

 部屋に帰ると、ハウスキーパーの松田と出くわした。広いリビングの掃除を終え、これから風呂掃除をしようと廊下に出てきたようだった。
「あら、遥真くん、おかえりなさい。今日は帰りが早いのね」
「松田さん、ただいま帰りました。いつもお掃除ありがとうございます」
「いいえ。私の仕事だもの」
 松田はにこりと微笑んだ。遥真の母親より年配の彼女は、三人の子育てを終えた後、自分のためにお金を貯めようと家事代行の仕事に就いたらしい。
「それより、今日の夕飯何作りましょうか。お風呂掃除が終わったら買い出しに行く予定なの」
「あぁ、えっと、それなんですけど……」
 実の母親のように食べたいものを尋ねてくれる彼女に申し訳なくなり、遥真は眉をハの字に寄せ、買い物袋を見せた。
「まぁ、用意が早いわね。余程食べたい物があったの?」
「いえ、そうではなくて……作りたい、と言いますか」
「作りたい?」
 首を傾げる松田に、遥真は事情を話した。すると、松田は話を聞くなり「名案じゃない。私が作るよりきっと良いわ!」と、乗り気で答えた。手伝おうかとも聞いてくれたが、遥真は自分でやりたいと伝え、松田に風呂掃除を頼み、自分はキッチンへと向かった。


「う、わ」
 刻んだ玉ねぎが目に染みて、思わず声を出した。鼻水も一緒に垂れ始め、慌てて手を洗いティッシュを掴む。涙がじわりと滲み、ティッシュの隙間から指が触れて目に激痛が走った。
「いったぁ!」
 我慢できず、遥真はシンクで顔を洗った。何事かと掃除中の松田がリビングへやってきたが、刻みかけの玉ねぎと遥真の様子を見て全てを察すると、笑いながら自分の仕事へ戻っていった。
 水滴をペーパータオルで念入りに拭き取るが、嫌な痛みが目に残る。恥ずかしいところも見られてしまい、小さな溜息が漏れた。
「幸成さんが帰って来るまでに作り終わるかなぁ……」
 沢山作るつもりでいたが、ほんの些細なことで心が折れそうになった。微塵切りには程遠いが、この分では時間もかかってしまいそうなため、あらかた刻めたところで炒めることにした。
 炒めた玉ねぎの粗熱が取れると、具材をボウルに入れ込み、捏ねて自分の拳ぐらいの大きさにハンバーグを形成する。上手く形が作れず、遥真が苦戦していると、再び覗きに来た松田が見兼ねてアドバイスをくれた。一から作ったのは、いつぶりだったかを思い出すのに苦戦するほど久々で、怠けていたのが仇になった気がした。
 今まではおちあいの店余った餃子を貰ったりしてたもんなぁ……。
 その頃はハンバーグのような凝った物はスーパーの惣菜を買うぐらいで、最後に作ったのは実家にいた頃だった気がする。そのため、松田が家にいてくれたのはラッキーだった。
 焼きあがったのは通常のものよりも玉ねぎが大きく刻まれたハンバーグで、所々で焦げた玉ねぎがフライパンの上に散らばっていた。思っていたものとは違う形になってしまったが、これはこれでまぁ食べられなくはないだろうと、遥真は苦笑いを浮かべる。その横から焼き上がりの様子を見て、松田は「大丈夫、きっと美味しいわよ」と微笑んだ。


 幸成から退勤したと連絡が入ったのは、夜の二十二時過ぎだった。今日はお昼過ぎに業者対応があり、早めの出勤だったため帰宅も早い。店からも車で帰宅して来るため、いつも連絡から十分足らずで帰ってくる。遥真は慌ててハンバーグを温め直し、先ほど作ったサラダを冷蔵庫から取り出した。皿に盛り付けたハンバーグは、お世辞にも綺麗とは言えず、誰が見ても不細工なハンバーグ。合わせたソースもネットで調べ、ケチャップで無難に仕上げたものだ。
 美味しいって言ってくれるかな……。
 フォークやナイフをカウンターテーブルに並べていると、緊張と楽しみが混ざって思わず笑みが込み上げる。遥真はあとどのくらいで帰って来るだろうかと、スマホの画面を覗き込んだ。一件のメッセージ受信通知が見え、アプリを起動すると、ほんの数分前に蒼生から兼彦の作ったハンバーグの写真が送られてきていた。遥真のものよりも綺麗な形をしたそれは、付け合わせにポテトまで添えられており、見た目もバッチリと決まっていた。極め付けに、蒼生からは『遥真のハンバーグも見せろ』というメッセージ付きだ。
「……自分じゃ作らないくせに」
 遥真は溜息を吐き、言われた通り写真を撮って蒼生へ送信した。久々に作ったのだ、これぐらい大目に見て欲しい。直ぐに既読マークが付いたのが見え、遥真はアプリを閉じた。何を言われるかなんて嫌でも想像がつく。でもこれは蒼生に作ったハンバーグではない。
「何か言われるのなら、幸成さんからじゃなきゃ……」
「俺がどうしたの?」
「うわぁっ!」
 突然肩口に声がして、遥真は大きな声を上げ、その場に崩れ落ちた。
「ゆ、幸成さんっ!帰って来てたんですかっ」
 遥真は咄嗟に胸に手を当てた。心臓が異常な速さで脈を打ち、今にも飛び出してしまいそうだ。
「ごめんごめん。一応玄関で声かけたんだけど、聞こえなかった?」
 くすくすと笑いながら幸成は、尻餅をついたまま首を横に振る遥真に手を差し出し、キッチンのカウンター席に座らせた。
「君も早めの帰宅だったんだね。連絡くれれば迎えに行ったから、もう少しゆっくりして来ても良かったのに」
 幸成はそう言ってテーブルに並んだ夕飯を眺めると、首を傾げた。
「……松田さん、もしかして具合悪かったのかな」
 幸成はいつもと違う料理に眉を寄せる。彼女にしては調子が悪そうだ、と一言呟くと、カバンを適当にソファーへ放り、冷蔵庫を開けた。
「遥真くんも食べるかい?この時間から食べるには少し重いけど」
 ビールの缶を取り出してから幸成は遥真に尋ねた。時間帯を考えてみれば、確かに胃には重いかもしれない。言われるまで気が付けず、自分の事で頭が一杯だった事に情けなくなった。
「無理しなくて良いよ?」
 返事の遅い遥真に、幸成はゆったりとした声で言った。
「あ、いえ。僕も一緒に食べます」
 遥真の返事を聞くと幸成はにこりと笑ってビールをしまい、代わりにミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「幸成さん、あの……実は」
「んー?」
 グラスを二つ棚から出し、気の抜けた返事をする。テーブルにグラスを並べると、ハンバーグの皿を一度手に持った。
「あれ、温かい」
「連絡、貰ったので……」
「そっか、手際良いね。ありがとう」
 幸成はそう言うと遥真の横に座った。同時に遥真の背筋がピンと伸びる。自分が作った、とたったそれだけを伝えるだけなのに、口に合わなかったらどうしようという不安が募って何も言えない。口の中がカラカラになり、遥真は幸成が用意したグラスの水を一気に飲み干した。
「遥真くん?」
 様子のおかしな遥真の顔を幸成が覗き込む。幸成の顔を見上げると遥真の心臓がまたばくんと唸る。こめかみのあたりがじわりとして、奥歯を噛み締めた。ゴクリと喉を鳴らし、深呼吸をひとつすると、遥真は口を開いた。
「これ……僕が作ったんです」
「え、松田さんじゃなくて?」
 驚いた顔をした幸成だったが、不恰好なハンバーグを見て納得したのだろう、皿の上で申し訳なさそうに存在するそれをじっと見つめて固まってしまった。
「久しぶりに作ったので、ちょっと形崩れちゃったんですけど」
 遥真が苦笑いで言い訳を述べる。いつものお礼にと作ったものがこんな出来になるとは自分でも計算外だった。もう少し自分に余裕があれば上手く焼き上がった気がする。しかし、幸成は遥真の持つ不安要素など気にも留めず、「いただきます」と噛み締めるように両手を合わせてハンバーグを口へ運んだ。幸成の大きな口に、自分が作ったハンバーグが入っていく様子をじっと見つめる。
 口に合わなかったらどうしよう。下手なものを作ってしまい、お礼どころか迷惑をかけてしまっていたらどうしよう……。
 不安が募り、遥真はハンバーグを食べる幸成をじっと見た。すると、幸成と目が合った。遥真のその必死な目に、幸成は思わず笑みをこぼす。
「どう、ですか……?」
「すごく美味しいよ。凄いね、こんなに美味しいの作れるんだ」
 幸成はそう言ってもう一口ハンバーグを口へ放り込んだ。
「凄いって……。ただ切って混ぜて捏ねて焼いただけですよ」
「なら、その単純作業でこんなに美味しいものを作れる君が凄いのかも。いや、天才?」
「何言ってるんですか」
 そんな訳ないでしょ、と遥真は軽口で笑う。さっきまでの緊張が解け、肩の力がふっと消えた。すると、ずっと収まっていた腹の虫が小さく鳴った。幸成に聞こえてしまったかと思い、彼の顔を見上げたが、幸成は隣で黙々と嬉しそうに箸を動かしていた。
「ふふふ。一応おかわりありますよ?」
「本当に?」
「はい」
 子どものようにキラキラとした瞳で答える幸成にまた頬が緩む。遥真も冷めないうちに食べようと、そっと手を合わせた。


「それで、なんでまた急に?シフト休んだのってこれのため?」
 ハンバーグを一皿ペロリと食べ切った幸成は、箸を置くと遥真に向き直った。
「別に急にって訳じゃ……僕、ずっと考えていたんです」
 悪いことをした訳じゃないのに、遥真は罰が悪そうに答えた。
「僕、幸成さんに助けてもらって、こわな素敵な部屋に住まわせてもらって……。安全と安心が同時に手に入った事に、凄く感謝しているんです。でも、よく考えたらなんか僕しか得してないなって……。だったらせめて家のことをさせて貰えればって思ったんです。でも、手伝いを申し出ても、幸成さんは松田さんに頼んでるからって言うじゃないですか。でもやっぱり、自分が何かしなきゃ気持ちが収まらなくて……。だから、蒼生達に買い物付き合ってもらって、松田さんには事情を話して今日の夕食を用意させてもらったんです」
 遥真は辿々しく夕食を作った理由を答えた。だんだんと声が小さくなっていったのは、幸成の口がへの字に曲がってしまったからだった。
「なるほどね……」
幸成は小さな溜息を吐いた。
「気にしなくて良いのに。君って随分難儀な性格だねぇ」
 やれやれ、と幸成は呆れ気味に言う。だがその表情はどことなく嬉しそうで柔らかい。
「困るなあ、これじゃあ」
「ごめんなさい……」
「そうじゃなくて、こういうことされると毎日遥真くんのご飯食べたくなっちゃうじゃない」
「え……?」
 思ってもなかった返答に、遥真は目を丸くした。同時に心臓がバクんと強く脈を打つ。恐る恐る幸成の顔を見上げると、にこりと微笑んだ幸成が遥真の頭を優しく撫でた。
「君のシフトがない日は松田さんに掃除だけ頼むようにしても良いのかな……?」
「は、はいっ」
「ふふふ、変なの。これってタダ働きだよ?」
「全然、嬉しいです!」
 息を荒げて遥真が言うと、その勢いに負けて幸成は吹き出した。
「あはは。それ、答えになってないなぁ」
 幸成が思っていた以上に笑うため、遥真は恥ずかしさに口を尖らせた。
「でも、無理はしないでね」
 幸成はもう一度優しく遥真の頭を撫でた。
「君は学生で、勉強が本分だ。それに、同級生との思い出も大事にしなさい。俺や家の事は二の次で構わないから」
「確かに勉強は大事ですけど、住まわせてもらっている以上、それは……」
 遥真は首を横に振って答えるが、幸成がそれを止めるように遥真の頭から頬にその手を移動させる。
「ダメだよ、あまり俺を甘やかしちゃ」
 すると、幸成はクスリと笑って遥真に顔を近付けた。肩に乗せられた手によって、遥真は幸成の身体にぐっと寄せられ、思わず声が漏れた。
「君無しじゃ、生きていけなくなっちゃうよ?」
 遥真の耳元で、幸成の低音が響く。耳朶に掠めた吐息に、思わず背中がびくんと跳ねた。心臓は言わずもがな激しく鳴り、耳の中からその音が響いているようで、頭もぼうっとしてしまう。赤くなった顔を隠すために下を向くので精一杯だった。
 何も言い出せなくなってしまった遥真を見た幸成は、くすくすと面白がって微笑むと遥真の肩を数回軽く叩き、空いた皿を持ってシンクへ向かう。皿と皿のぶつかる音と、水道の水音が同時に聞こえた。
「そうなれば良いのに……」
「ん?」
 テーブルで下を向いた遥真のか細い声が水道の水音によってかき消され、幸成はもう一度聞き出そうと身体を乗り出した。しかし、遥真はもう一度同じ言葉を口にせず、顔を上げると幸成ににこりと笑ってみせた。
「それじゃ、明日から僕が食事当番ですからね」
「うん。よろしくお願いします」
「任せてくださいっ!あ、でも、今日みたいに失敗しちゃうかもですけど……」
「これが失敗なら期待値高すぎるなぁ」
「これ以上、ハードル上げないでくださいっ」
 遥真の返しに幸成が笑った。さっきのやり取りは無かったかのように。遥真は幸成の真意が見えず、だがそれを聞き出そうという勇気はないまま、幸成の横に並んで夕食の片付けを手伝った。


 深夜、遥真はベッドから天井を見上げて溜息を吐いた。かれこれベッドに入ってから同じ事を繰り返している。数度に渡る寝返りも何度目になるか数えるのをやめた。頭の中では幸成に言われた言葉がリフレインし、触れられた頬が熱を帯びる。「君無しじゃ生きていけなくなってしまう」なんて、男の自分が喜んで良いのだろうか。だが、はっきりしているのは、思い出すたびに心臓が張り裂けそうなほど脈を打ち、呼吸さえままならないということ。苦しくて、切なくて、身体は火照っていく。遥真はまた溜息を吐いた。こんなに誰かを意識したのは初めてだった。
「……どうしよう」
 ふと溢した一言は、誰にも拾われずベッドの中に沈んだ。どうしようもなく気持ちが膨らんでいくのに対して、それを受け入れてはいけないと思う自分がいた。自分はただの居候の身。幸成はただ、自分を不憫に思って助けてくれただけ。借金の返済相手なのだ。ただの善意に、同性の自分がこんな気持ちを持ってしまってはいけない気がしてならない。だが、さっきの事を思い返すと、期待してしまう自分がいる。この部屋のドアの向こうに、幸成が居ると思うと遥真の心臓はもっと速くなった。遥真は布団を頭まですっぽりと被り、きつく目を瞑った。寝てしまえば、明日になれば気は収まるだろうと思った。だが、瞑れば瞑るほど鮮明に幸成の姿が脳裏に浮かぶ。結局、遥真は暫く寝付く事が出来ないまま夜を過ごした。