車で連れられた幸成のマンションは、以前来た時よりも大きく感じた。駐車場に着き、今度は遥真も一緒に車を降りてエレベーターへ向かう。幸成が押したボタンは八階で、最上階の十階でなかったのを確認し、遥真はホッと胸を撫で下ろした。
「最上階が良かった?」
 隣で遥真の様子を面白そうに見ていた幸成は、静かに笑いながら尋ねた。
「えっ、いや……そういう訳じゃなくて」
「安心してよ。バルコニーは結構広いから」
「えっ」
 そんなに広い部屋なのかと、遥真の顔が余計に強張ると「冗談だよ」と幸成は笑った。
 幸成の部屋は八階の角部屋だった。遥真は玄関だけで「うわぁ」と、声を漏らした。ざっと見て遥真のアパートの玄関三つ分の広さだった。リビングへ向かうまでにも部屋が三つあり、一つは幸成の寝室、もう一つは書斎、そして最後の一つは使われないまま納戸化していると説明された。
「ちょっと物置き化してるけど、物は少ないし、後で書斎に移せば良いかな。整理したらこの部屋を使うと良いよ」
 そう言って幸成は部屋のドアを開け、中へ入るよう遥真を促した。
「こんなに広い部屋、使って良いんですか?」
「ん?一番狭い部屋だけど」
「いや、僕のアパートぐらいはありますって」
「じゃあ、ピッタリなサイズだね」
「そういうことじゃなくて」
「ふふふ。あぁ、あとこっちがお風呂場ね」
 幸成は楽しそうに笑うと、部屋の向かい側を指差した。ここだけ引戸になっており、開けてすぐ広々とした洗面所が見えた。洗濯機も設置されているというのに悠々と二、三人は入れるように見える。
「タオル類はそこの戸棚。洗濯の洗剤はこの辺だったと思う」
「だったと思う?」
「家事はハウスキーパーさんがやりに来るから。もちろん、君の分もやってもらうつもりだよ」
「それは聞きましたけど……洗濯ぐらい僕でもできますよ」
「凄いねぇ。俺、洗濯機は買えても使いこなせないんだよね」
 遥真の信じられないという顔に幸成は笑う。今度は冗談とは言わなかったので、遥真はせめて洗濯当番を申し出てみようと考えた。
 リビングは遥真の想像通りに広々としていた。革製であろう黒いソファーに、ドラマでよく見るようなガラス製のローテーブル。壁掛けのテレビに、観葉植物が数点と、間接照明。そしてバルコニーに続く大きな掃き出し窓からは、すぐ向かいの森林公園がよく見渡せられた。
「わぁ……」
 感嘆の声をあげる遥真に、幸成は夏になると花火大会の花火もよく見えると、少し得意気に言った。
 窓から離れて綺麗に整理されたアイランドキッチンに目を向けると、遥真のアパートの何倍もあり、思わず声が漏れる。その向かいにはカウンターテーブルが置かれていた。広さは二人で丁度いい具合で、キッチンから手を伸ばせば出来た料理を直ぐに並べられるようだ。
「幸成さん、料理は?」
「月に一度ぐらいかな。インスタントラーメンが得意だよ」
「……なるほど」
 遥真はそれ以上は追及せず、断りを入れてから冷蔵庫を確認した。中は想像通りスカスカで、申し訳程度の牛乳と卵はもう間も無く期限が迫っているというのに未開封のまま。ハウスキーパーに買い物や料理も頼んでいるらしく、今週中にこの卵は消える予定なのだろう。しかし、そうだとしても殺風景な冷蔵庫には変わりなかった。

 一通り部屋の中を案内されると、遥真はソファーに座るよう促された。まだ落ち着かない空間に肩身を狭めながら腰掛ける遥真を見ると、幸成はキッチンでケトルでお湯を沸かし、遥真に紅茶を入れたマグカップを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
 遥真は両手でそれを受け取った。ふわりとダージリンの香りが鼻を抜け、胸のつっかえが少し和らぐ。ティーカップで出てこない大雑把さに。思わず笑みが溢れた。
「一つ、確認しても良いかな?」
 幸成は遥真の横に腰掛けて言った。
「……なんでしょうか?」
「君が前に話そうとしていたことって、もしかして今日のこと?」
 顔を覗かれながら尋ねられると、罰が悪そうに遥真は幸成かゆっくりと目線を逸らした。
「えっと……、はい」
「そっか……。ごめんね、ちゃんと聞かないで」
「い、いえ。タイミングが悪いのはいつものことなので……」
「でも、次からはこういう大事なことはちゃんと話してくれるかな」
 幸成の言葉に、遥真は黙ったまま向き直る。顔を見上げると眉を寄せて困ったように微笑む幸成と目が合った。
「……はい、すみません……」
 遥真が項垂れて答えた。文字通りに胸が痛くなり、服の襟元をきゅっと掴んだ。
「謝ることはないよ。遥真くんは何も悪い事してないんだから」
 遥真の頭が、大きな手のひらに優しく撫でられる。その温もりに触れ途端、遥真の目から静かに涙が溢れた。
「……はい、ありがとう、ございます……」
 小さな嗚咽が込み上げる。ローテーブルにマグカップを置き、服の袖で涙を拭った。遥真の鼻を啜る音が広い部屋に響く。すると、隣りに座っていた幸成が遥真の身体をそっと抱き寄せた。
「え、あのっ……幸成さん……?」
 遥真はぐずぐずと、鼻を啜りながら目をぱちくりとさせた。背中に回された手に、がっしりと優しく自分の身体を包み込まれ、心臓がバクんと跳ねる。
「……余裕がなかったのは君だけじゃない」
 耳元で幸成の低い声が響き、心音が加速していく。身体中が火照りだし、顔まで火が噴きそうだった。
「逆上させて大事にならなくて済んで良かった……ごめんね、大人気なくて」
 遥真は咄嗟に首を横に振った。少なくとも遥真からは冷静に対応しているように見えていたし、鈴音も言い負かされていた。それに、今回の事がなければ、幸成の言うように鈴音はどこかしらの隙を狙って、再び同じ事を繰り返すつもりだったはずだ。降りかかる最悪を未然に防げたのだから、感謝してもしきれない。
「幸成さん……」
 遥真はぎゅっと目を瞑り、幸成の背中に腕を伸ばすと、答えるように抱きしめ返した。
「優しい君が傷つくのは見たくない。だから、約束してほしい」
 ごくりと喉が鳴る。遥真は黙って頷いた。
「君の優しさは、君が手を差し伸べたい人に向けるべきなんだ。だから、君を大事に出来ない奴に無条件で手を差し伸べないで欲しい……」
 もう一度、強く抱きしめられる。心臓の音が大きくて、幸成の声が少し遠くで聞こえるような気がした。
「…………はい……」
 消えそうな声で返事をするのが精一杯だった。余裕のあるように見えた幸成が、こんな思いをしていたなんて。嬉しくて、愛おしくて、胸の奥が苦しくなる。遥真の目頭が再び熱を帯びて、ズ、っと鼻を鳴らした。すると、今度は耳たぶに幸成の笑った声と吐息が触れる。顔を上げると、幸成と遥真の目が合った。遥真の濡れた頬を幸成は大きな手のひらで拭うと、静かに微笑む。
「……やっぱり、今日一緒に寝る?」
「なっ、なんでですか」
 遥真が顔を真っ赤にして言った。既に心臓に悪い事がてんこ盛りだというのに、更に追い討ちをかけてくる幸成をキッと睨む。
「ふふふ、冗談だよ」
 楽しそうに幸成が笑うと二人の腕が離れた。名残惜しそうに遥真が幸成を見上げるが、幸成はその目線を拾わず、遥真の頭をもう一度撫でるとソファーから立ち上がった。
「さてと……。お風呂、沸かしてくるね。今日は温まって寝た方が良い」
「あのっ」
「それと、今日は君が寝室を使ってよ。ベッドメイキングもやって貰った後だからさ。あぁ、お風呂が沸くまでにその目は冷やしておくんだよ」
 そう言ってタオルの所在をもう一度伝えると、遥真の返事を待たずに持ち帰りの仕事があるからと言って風呂の準備を終えると、書斎に籠ってしまった。取り残された遥真は、ぽかんと口を開けたまま閉められたドアを見つめる。心臓はさっきほどではないが、まだばくばくと大きな音を立てていた。


 昨晩はあれから散々だった。浴室に入り、用意して貰った湯船で悠々と足を伸ばしたまでは良かったが、一人になった途端に嫌な事を思い出した。別の事を考えようと、幸成が使って良いと出してくれたシャンプーの成分表示をじっくりと読み込んでいると、天井から冷たい雫が遥真の背中に落ち、その冷たさに驚いてシャンプーボトルを落としてしまった。その衝撃で蓋が緩み、中からシャンプーが漏れ出す始末。慌てて流そうとシャワーを捻るが、勢いよく噴射した水を顔面に受けてしまった。シャワーを止めようとしたところ、溢れたシャンプーの上に足をつけてしまい、滑って思いっきり尻餅をついた。おかげでさっきまでの不安は一瞬で消え去ったが、大きな音に驚いて駆け付けた幸成に情けない姿を見られる羽目になってしまった。額に手を当て、クツクツと声を殺し肩を震わせて笑う幸成の姿を思い出すと恥ずかしさで身体中が熱くなる。風呂から出ても更に顔を合わせ辛くなってしまい、髪の毛を乾かすと遥真は早々に寝室のベッドに潜り込んだのだった。

 翌朝、寝室からリビングへ行くと部屋は既にコーヒーの香りでいっぱいになっていた。
「おはよう。よく寝れたかい?」
 にこりと微笑み、遥真の分のコーヒーをマグカップに淹れながら幸成が尋ねた。遥真は小さな声で「はい」と返事をし、眠い目を擦った。実際、幸成がいつも寝ているベッドだと考えると緊張して直ぐに寝付くことが出来ず、最後にスマホを確認した際には夜中の三時半を回っていた。
「何か食べる?さっき、コンビニで色々買ってきたよ。好きなのどうぞ」
 そう言って幸成はキッチンのカウンターに置いてあったビニール袋を差し出した。中にはおにぎりと菓子パン、惣菜パンやサラダがぱんぱんに入っている。
「幸成さんって実はすごく食べるんですね」
 中に入っていたメロンパンとサラダを一つずつ取り出すと、遥真は袋を幸成に返した。すると、幸成は「いや、朝はあまり食べなくてね」と袋を受け取りながら答える。
「君が何をどのぐらい食べるのか分からなかったから、つい買いすぎたんだ。ほら、君ぐらいの歳は食べ盛りだし」
「そんな、中高生じゃないんですから。僕の食欲はだいぶ落ち着いてますよ」
 クスクスと笑って返す遥真に、幸成は眉をハの字に寄せて「そっかぁ」と苦笑する。無駄にするのも良くないからと言って、幸成はサラダを一つ袋から取り出すと、遥真の横に座った。
 昨日の出来事がまるで夢のような、なかったかのような自然な朝に、遥真の心臓は緊張と不安を抱いて妙に速く脈を打つ。隣で朝食を食べているだけだというのに落ち着かない。頭の中で今日の授業と店の片付けの事を無理矢理考えた。おかげで口に運んだメロンパンもサラダもコーヒーも、全く味がしなかった。


 約束通り、大学までは幸成の車で向かった。ソファーで並ぶ時よりも幾分か緊張は解れたが、助手席と運転席の距離感も離れているようで近く、妙な意識をしてしまう。校門の前で蒼生と兼彦と落ち合う約束をしていた遥真は、この空気がどうしてもむず痒く、大学に着く前から窓の外を眺めて彼らを探した。

「それじゃあ、帰りも迎えに来るから。引越しの手伝いあるんだよね?」
「あ、はい。でも……」
「でも、の次に来るのが『迷惑』なら、かけてないから心配しないで」
 遥真が車を降りる時、幸成は被せるように言った。その顔が得意気に見えて、遥真の口がへの字に曲がる。
「昨日の今日はみんな過保護だよ。観念しなさい」
 幸成は車のドアのすぐそばで遥真を待つ蒼生と兼彦を顎で指しながら言った。彼らなりの厳戒態勢だろう。周囲を見ながら遥真へ意識はしっかりと向けられているように見えた。
「……分かりました」
 遥真は諦めがついたようで、大学の講義が終わる時間を幸成に伝えると、シートベルトを外し、車のドアを開けた。
「あ、遥真くん」
 片足を地面につけた時、幸成は遥真を呼び止めた。遥真は顔だけ振り返り、幸成の方を見る。視線が重なって、幸成の切れ長の目が細くなった。
「いってらっしゃい」
 にこりと微笑み手を振る幸成に、遥真は思わず頬を緩めた。
「はい、行って来ますっ」
 車のドアを閉め、幸成に手を振り返す。目が合って胸の辺りがまたざわついた。幸成は蒼生と兼彦にも視線だけで挨拶を送ると、今度は三人に向かって手を振り、車を発進していった。


 遥真達は大学に着くと、真っ直ぐ教務課へ昨晩の事を伝えに向かった。すると、朝一番の連絡で鈴音の方から自主退学の申し出があり、現在は手続きや事実確認の最中だったらしい。遥真からも話を聞かせて欲しいと言われ、一限の授業がなかった蒼生と共に教職員達に事情を話した。
 事の流れを説明すると、遥真と蒼生は解放され、空き時間を適当な階のロビーで過ごした。一限が終わり、兼彦と合流して次の講義を受け、昼休みになって学食へ移動している途中、鈴音の退学について話している女子学生グループの横を通った。彼女達の視線が一瞬だけ遥真に集中したが、わざわざ声を掛けてくる様子はなかった。彼女達も鈴音の行動には目を見張るものがあったのだろう。言って止まるような人ではなかったという認識だった相手でも、学校から去っていくとは思っても見なかったのだろう。彼女の退学が、ただただ信じられないというような顔付きに見えた。
「広まるのが早いな」
「女子のネットワークは侮れないぞ」
 学食に入ったところで兼彦と蒼生が言った。その横で遥真がなんとも言えない顔をすると、すかさず兼彦が「この後は?」と午後の予定を遥真に確認した。
「えっと、三限出てからおちあいで引越し準備だよ」
「了解。兼彦、四限空きだよな?」
「学生団体の仕事がある」
「そしたら部室に遥真連れて行ってくれ。一緒に待ってろよ。四限終わったら俺がおちあいまで一緒に行くから。まぁ、行ったところで片付けも午前中に殆ど終わっていそうだけどな」
 蒼生の言う通り、今日の午前中に遥真以外のアルバイトが最後の手伝いという出勤をしていた。それにコツコツと少しずつ片付けを進めていたため、箱詰めも昨晩の時点でそこまでの量ではないことが分かっていた。それでもお世話になった職場には変わらないため、顔を出して最後の掃除ぐらいは手伝うつもりでいた。
「あ、それなんだけど」
 券売機の列に並びながら遥真が口を開いた。
「僕、一人で大丈夫。っていうか、幸成さんが迎えに来るって譲らなくて……」
 一人で平気と答えた途端、蒼生と兼彦が眉間に皺を寄せたため、遥真は早口で続けた。
「へぇ、あの人マメだな」
 ニヤリと含みのある笑みを浮かべながら蒼生が言った。
「マメというか、過保護というか……」
「昨日のお前の顔を見たら、誰だって過保護になる」
 生姜焼き定食の券売機のボタンを押し、兼彦は呆れ気味に溜息を吐きながら言った。今朝、同じことを幸成に言われたばかりなのを思い出し、遥真はむず痒くて渋い顔をする。
「ま、良いじゃん。交通費が浮いたと思えば」
「わっ、ちょ……!あー……」
 先に食券を買った蒼生に背中を軽く押されると、遥真はその拍子に押すつもりのないボタンを押してしまった。今日はオムライスにするつもりでいたのだが、券売機から出て来たのは『ざる蕎麦』だった。
「あ……悪い。良ければ交換するか?」
 蒼生が申し訳なさそうに『カツカレー(大盛り)』と書かれた食券を差し出したが、字面だけで胃がムカついてきた遥真は、首を横に振った。
「蕎麦もたまには良いかも……なんて」
「そっか。ごめんな、明日俺が食べたい物を買ってやるから」
「うん、そうさせてもらうかな。せめてボタンだけでも押してもらえたら……有難いかも」
「お安いご用だ」
 蒼生はそう答えると、食堂のおばちゃんに食券を提出しながら「絶ッ対残さないから、大盛りよりも気持ち多めにして!」と頼んでいた。


 その日の夕方、最終出勤として遥真が顔を出すと、掃除も殆ど終わっていて、店内は明日運び出されるだけの段ボール達で埋め尽くされていた。落合と友理恵に鈴音が自主退学を選んだことを伝えると、二人は昨晩のことを再度詫びた。しかし、遥真自身彼らには世話になった感謝の思いの方が多く、謝罪は不要だとそう答えた。二人は申し訳なさそうな顔で「こちらこそ、色々と助かったよ」と、最後の給料を遥真に手渡しした。茶封筒に手書きで書かれた自分の名前と、落合と友理恵の名前を見て、じわりと胸が熱くなる。
「ありがとうございます。僕、ドジで迷惑ばかりかけてしまって……。本当に、お世話になりました」
「まぁ、確かに皿を割る枚数は歴代ナンバーワンだったな」
「……すみません」
 言い返す言葉もない遥真に、おかげで荷物が減ったよ、と落合は冗談を言い笑って返した。
「落ち着いたら連絡するよ。今度、みんなで遊びにおいで」
 みんな、の中に蒼生や兼彦が含まれているのを察し、遥真は複雑な表情で「はい」と静かに答えた。たった数年のアルバイトだったが、本当に良くしてもらえた事を思い返すと、鼻の奥がつうんと痛む。奥歯を噛み締め、目頭が熱くなるのを堪えると、遥真は落合と友理恵に深々と頭を下げ、最後の出勤を終えたのだった。


『おい、叔母さんから聞いたぞ。なんで今まで黙っていたんだ!』
「うわぁっ」
 突然の怒号電話に、遥真は思わずスマホをソファーに放り投げた。
『聞いてるのか、遥真っ』
「聞いてるってば。晃満くんこそ、少し声落としてよ。今何時だと思ってるのさ」
 リビングの時計を見上げると、既に二十二時を回っていた。溜息混じりで遥真が答えると、それが着火材になったようで、更に小言が飛んだ。電話の相手は、比留間晃満(ひるま あきみち)という遥真の従兄弟だった。遥真の母親から鈴音の一件を聞き、心配で連絡を寄越してきたらしい。心配性で兄貴分気質な彼は、幼い頃から歳の近従兄弟である遥真を何かと気にかけていた。
 一つでは終わらない晃満の小言を一通り聞いた遥真は「明日までの課題があるから」と嘘を吐き、無理矢理電話を終わらせた。すると、帰宅した幸成がリビングに丁度入って来た。
「凄い盛り上がってたね」
 スピーカーに設定していなかった晃満の声は、玄関にまで聞こえていたらしい。
「すみません、夜にこんな騒がしくして……」
「大丈夫。玄関の外には聞こえてなかったから」
 くすくすと笑い、幸成はコンビニで買って来た物を冷蔵庫に仕舞い込む。手伝おうと遥真が立ち上がると、必要ないと幸成は言った。
「電話の相手はご家族?」
「えっ、あ、はい。と言っても従兄弟ですけど……。昼間のうちに母に連絡したら、それが従兄弟の耳にも入ったみたいで」
 遥真は苦笑いを浮かべながら晃満の話をした。
「あぁ、受験の時に一度会った子だよね。すごい顔で俺のこと見てたから、忘れる方が無理だよ」
 幸成は遥真の家庭教師をしていた頃に、遥真の部屋で勉強を見ていたタイミングで、自らが勉強を見てやろうとやってきた晃満と出くわしたことを思い出した。幸成は机に向かう遥真のすぐ後ろに立ち、参考書に書かれた公式を指差して解説をしていたところだったのだが、晃満の角度からは幸成が覆い被さり襲っているように見えたらしい。
「そういえば、そんな事ありましたね……」
 遥真が申し訳なさそうに眉を寄せて笑う。
「君みたいな子と成人男性が密室にいるってことが彼には良くなかったんだろうねぇ」
 晃満が顔面蒼白で立っていたのを思い出し、幸成は冷蔵庫の扉を閉めながら笑った。
「どういうことですか?」
 幸成の言った意味を理解出来なかった遥真は、きょとんと首を傾げる。
「まぁ強いて言うなら、そういうところ……かなぁ」
 幸成の言葉に、遥真は口をへの字に曲げた。その表情に思わず幸成の頬が緩む。
「それで。心配性な彼に、ここに住むことは伝えたのかい?」
 遥真は首を横に振った。
「母さんには伝えましたけど、晃満くんにはまだ。母さんから話を聞いたって言ってたけど、もしかしたら久住さんの話だけを聞いて、僕に連絡してきたのかもって」
「ふぅん。なら、いっそ挨拶でも行く?」
「えっ、挨拶?」
 幸成はリビングのソファーに腰掛け、コンビニで買ってきたアイスクリームのカップを遥真に手渡した。パッケージを見ると昨晩、テレビのコマーシャルを見て「美味しそう」と呟いた期間限定のミルクティーフレーバーのものだった。
「見つけたから買ってきたんだ。食べて良いよ」
「あ、ありがとう……ございます」
 こんなに甘やかされて良いのだろうかと思いつつ、遥真は遠慮なくカップの蓋を開けた。
「それで、挨拶だけど」
 遥真の心臓が大きく跳ねた。途端に肩から上に熱が込み上げる。
「君の従兄弟も説明があった方が安心するだろうし、君の親御さんもあんな事があったって事後報告受けたばかりなんだから、顔を見せて安心させた方が良いと思うんだけど」
「それはそうなんですけど、安心というか……」
 遥真の頭に火に油、という文字が浮かぶ。晃満はきっと首を縦には振らないだろう。それになんだか気恥ずかしく思えて気が進まない。
 そう思うと余計に心臓がやかましくなり、手に持ったアイスクリームのカップに熱が伝わりそうで、ローテーブルに静かに置いた。
「だ、大丈夫です。そもそも晃満くん今、転勤して地方民だし……」
 遥真がそう断ると「そっか」と、幸成はそれ以上は言わず、にこりと笑う。遥真は幸成に気が付かれないよう小さく息を吐いた。
「それじゃ、アイスを食べ終えたら引越しの予定を組んでしまおうか。シフトもさっき出したばかりだし、どうかな」
「はいっ」
 遥真はにこりと笑って頷くと、アイスクリームを口に運んだ。甘くて冷たいそれは、口の中で静かに溶けていく。いつも何かと不運が続くが、とんとん拍子に幸成との距離が縮まっている気がし、正直心が着いて行けていない。ただでさえ甘えてしまっていることが多いというのに、こんなに甘やかされて罰は当たらないだろうか。だが、心配とは裏腹に幸成のふわりと笑う顔を見ると、心臓はいつだって跳ね上がる。それがどんな気持ちなのかをはっきりと飲み込むのはまだ怖くて、今は流れに身を任せることを決めた。遥真は幸成に隠れて小さな溜息を吐き、再びアイスクリームを口へと運んだ。