「神保くん、休憩どうぞ」
 客の帰ったテーブルを片付けていると、旭が遥真に近付いて手短に言った。腕時計を確認すると、既に出勤して三時間が経過している。明日は大学が休みのため、今日のシフトは長めに出していた。
「ありがとうございます」
 遥真はグラスを回収し、テーブルを拭くとそのまま裏へと引っ込んだ。薄暗い店内から明るいキッチンへ戻り、反射的に目を細めた。グラスを落とさないようシンクに入れ、洗い場に立っていた辰巳に休憩に入ることを告げて事務所へと向かった。
「お疲れ様」
 事務所へ入ると幸成がノートパソコンから顔を上げた。机には書類が広げられており、作業中だったのが見て取れる。
「お疲れ様です」
「休憩かな。占領しててごめんね、すぐ片付けるから」
 幸成はかけていた眼鏡を取り、瞼を数回ほど指で解すと、ワイシャツのポケットから目薬を出しながら言った。
「僕、そんなにスペース入りませんよ。今日、パンしか持って来てないですし」
「へぇ、来る前に買ったの?」
「いえ、友達が大量に買って来たのを少しもらったんです」
 遥真は隣のロッカールームに移動すると、蒼生が分けてくれたパンをリュックから取り出して戻ってきた。
「たくさん貰ったねえ」
「半額だったからって買いすぎなんですよ……。あ、幸……店長も食べますか?」
 慌てて名前を言いそうになったのを訂正すると、幸成は静かに微笑んだ。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。休憩までまだ時間あるから」
「そうですか」
 やんわりと断られ、遥真は苦笑いを返す。すると「あぁ、そうだ」と幸成立ち上がると、事務所の隅にある社員用デスクの方へ移動し、置いてあった黄色の平たい箱を持って来た。
「これ、神保くんもどうぞ」
 差し出された黄色の箱には、可愛いらしい花柄が描かれており、中央に有名なチョコレートブランドの店名がゴールドの文字で書かれていた。
「あっ、これ」
 いつだか幸成に貰ったチョコレートと同じ銘柄だと気がつき、遥真は頬を緩ませた。
「好きなの?」
「えっ、あ、はい」
 思わずどきりとする聞き方に、遥真の心臓がばくんと鳴った。
「最近よく来るようになった女の子がくれたんだって。旭が貰ってきたんだ」
「へぇ、そうなんですか。でもこんな高価なのくれるって相当ですね……」
 相手はきっと大人の女性なのだろうと、勝手に想像する。幸成から貰ったことがあるせいか、こういうものをさらりと贈れる人は大人というイメージが遥真の中にはあった。
「……お疲れ様です」
 ドアの開く音がし、振り向くと、遥真と同じく休憩をとるため辰巳が事務所に入ってきた。
「あぁ、それ……旭さん貰ったんですね」
 辰巳はチョコレートの箱を見るなり眉を寄せた。
「どうかした?」
 幸成が尋ねると、辰巳は小さな溜息を吐いてロッカールームへの扉に手をかける。
「それ、山村くんへの物だと思いますよ」
「え、そうなの?」
「あの子、山村くんがいる日にしか来ないらしいですよ。仕事中の山村くん捕まえて話し込んでるのもよく見るし」
 プレゼントを何度か手渡されるところも見たと、辰巳は言った。しかし、その度に「お店の決まりで個人的に貰えない」と真面目に山村は断っていたようだった。不機嫌そうに話す辰巳の態度に、遥真は苦笑いを浮かべ、幸成へ目配せする。
「なるほどねぇ。特定の名指しじゃないし、みなさんでって言われたから、旭も受け取ったのか……」
 個人的で無ければ良いとは限らないが、従業員全員を指すのであれば、こちらも受取りやすい。ハマりやすい常連を繋ぎ止める一種の策ではあるが、幸成はどうも乗り気ではないらしい。
「店長じゃなきゃ良いと思ってるのか、旭って商売根性逞しすぎると思わない?」
 冗談混じりの店長に、嫉妬心が滲み出た辰巳はへの字口を更に曲げると、「本当に、どっちが店長か分かりませんよ」と、悪態をついた。


「そうだ、神保くん」
 アルバイトの上がり際、遥真は幸成に呼び止められた。タイムカードを切る寸前だったのは、幸成の気遣いだろうと思い、打刻するのを一旦やめる。
「なんでしょう?」
 今日のアルバイト中に何かしてしまったのかと思い、遥真の頭の中は仕事中の記憶が駆け巡る。
「そんなに構えないで。ほら、明後日からしばらくあっちがメインでしょう?」
「あ、はい。すみませんが……」
「謝ることじゃないよ。大丈夫だから」
 慌てて頭を下げようとしたが、幸成に制された。
「時間が取れそうだから、どこかで顔出すね」
「えっ」
 先日言っていた話を冗談だとばかり思っていた遥真は思わず声上げた。遥真の考えていたことが顔に出ていたようで、幸成はくすりと静かに笑う。
「ラーメン屋姿の君も楽しみだ」
「それ、どういう意味ですか……」
「ふふふ。どうって、そのままだけど」
 切れ長の目がゆっくりと伏せられていく。揶揄うばかりの大人の余裕に少々腹が立つが、二週間ほどバーの仕事を休む手前、強く出れない。さらに言えば、バイト先に来なくても会えるという約束が嬉しかった。
「それじゃあ、お疲れ様。気をつけて帰るんだよ」
「……はい」
 一瞬、遥真の返事に間があった。脳裏に蒼生と兼彦に浮かんだ。同時に女子学生とのトラブルをまだ幸成に伝えていないことを思い出す。しかし、ここまで何も問題はなくきていたのだ。今更伝えても困らせてしまうだけだろう。自分の中で勝手にそう消化し、遥真は幸成にぺこりと頭を下げると、タイムカードを切った。



 翌週から遥真のアルバイトは、移転の近づくラーメン屋「おちあい」の出勤がメインになった。移転のため閉店する旨を入口に掲示してから、名残惜しむ声と客足が増え、定休日を返上して営業をしていた。そのため、営業時間外にも片付けと引越し準備の手伝いで出勤をする事も増え、遥真は閉店の一週間前から授業の無い時は店に顔を出すようになっていた。
「しかし、本当に名残惜しいな」
 壁に貼り出された品書きを眺めながら蒼生が言った。既に空っぽのラーメン丼は、後で遥真が回収しやすいように端に置かれている。向かいには、珍しく隈のない兼彦が座っており、醤油ラーメンを啜っていた。遥真がバーのアルバイトを休み始めて、もう間も無く一週間近くになる。このラーメン屋もあと数時間後には閉店し、三日後には遂に引越しとなるようだ。
「だからって神保くんのシフトの度に来なくても良かっただろうに」
 落合が笑いながら二人のテーブル餃子をサービスと言って置いた。客足が落ち着いたタイミングで、厨房から出てきたらしい。
「俺達もここがなくなるのは寂しいので、食べ納めですよ」
「そうです。あとこれ、サービスはダメですよ。そう言って先日もいただいたんですから」
 兼彦が険しい顔で言った。先日も同じようにラーメンを頼んだだけなのに餃子が運ばれてきて、落合は兼彦達から代金を受け取らなかった。
「いや、これは俺からの依頼料だよ」
「依頼料?」
 兼彦と蒼生が聞き返すと、落合は眉を寄せて困ったように笑った。
「神保くんさ、危なっかしいだろ。ほら、例の子の時もさ……。彼女も諦めたようだったけど、時々神保くんがいない時に店に来ていてさ」
「そうなんですか……?」
 蒼生の眉がぴくりと動く。
「うん。まぁ、頻度も減ったし、いつも友達と一緒だったから、大して気にしてなかったんだけど。それに彼女、神保くんを追いかけ回す前からよくうちに来てた子だから無碍にも出来なくて。神保くんには悪いとは思っていたんだけど、大事なお客様の一人だったから。だから念の為、バイトの後は送っていたんだけど、次からはそれも出来ないだろ?だから心配で……」
 落合は小さく溜息を吐き、厨房の方へ視線を向けた。溜まった皿洗いを一生懸命にこなす遥真が見える。
「……大丈夫ですよ。大学でも近付くことはないですし、近付かせないですし。それに、新しいバイト先では今のところ何もなさそうです」
 蒼生の言葉に、兼彦がうんうんと頷いた。
「ま、多少のドジはいつものことだがな」
「そりゃ、遥真だから仕方ないだろ」
 ケラケラと二人が笑うと、落合は釣られて笑った。丁度その時、新しい来店客が来たようでドアのベルが入り口で鳴り響いた。落合と友理恵、そして遥真が「いらっしゃいませ」と勢いの良い挨拶をすると、入り口の戸を閉めた客はにこりと微笑んだ。
「やぁ遥真くん、来ちゃった」
 皿洗いを中断し、客を案内するために厨房から駆け出てきた遥真は、入り口に立っている客を見上げて口をぽかんと開けた。高身長で、このゆったりした喋り方。切れ長の目に整った容姿。暫く会えないと思っていたその相手が現れて、思わず言葉を失った。
「えっ……!」
「ごめんね、最終営業日に。忙しかったかな」
 動かなくなった遥真を心配して、幸成は目線を合わせる。慌てて遥真は首を横に振った。実際、夜のピークはもう過ぎていて、店内は落ち着いている。
「あの、幸な……店長っ」
「あはは、良いよ。今は幸成で」
 にこりと笑う幸成に、遥真の頬も自然と緩む。
「ふふふ。なんかいつもと違う雰囲気で、可愛いね」
「か、可愛いって……!」
 言われ慣れないことを言われて、遥真の顔が熱くなる。幸成が来店しただけで心臓が煩く鳴っているのに、更に音を増すようなことを言われてたじろいだ。
「ど、どうぞこちらへ」
「はぁい」
 くすくすと笑って遥真の後ろを歩く幸成は、揶揄いが成功して満足そうだ。別のアルバイト先ではあるが、雇い主を接客するせいか遥真の動きはまだ固い。本人は気が付いていなかったが、後ろを歩く幸成には遥真の右手と右足が同時に動いているのを見逃さず、遥真にバレないよう静かにくすりと微笑んだ。
 カウンター席へ幸成を案内し、メニューとお冷を目の前に置く。すると、幸成はメニューに目を通しながら「遥真くんのお勧めが食べたいな」と言った。
「えっ」
「遥真くんはどれが好き?」
「んー……どれも美味しいから……」
「じゃあ、聞き方を変えようか。どれが一番思い出に残ってるのかな」
「そうですねえ……」
 遥真はウーンと、声を出しながら考え込むとメニュー表の「味噌ラーメン」を指差した。
「これです。賄いでよく食べさせてもらったんです。野菜がたくさん摂れるからって」
「へえ、優しい店長さんだね」
「はい。色々と助けられました」
 遥真は照れ臭く成り、手に持っていた注文票で顔を隠した。
「それじゃあ、その味噌ラーメンをお願いします」
「はい」
 遥真は幸成に軽く頭を下げると、注文票を持って厨房へ戻った。

 
 幸成のラーメンが出来上がると、落合から提供後、休憩に入るよう伝えられた。遥真の賄い分も一緒に出来上がったようだ。知り合い同士、一緒に食べたらどうだと提案されたが、心臓はまだ煩く鳴るようだったため、やんわりと遠慮した。それにラーメンを運びに行くと、タイミングが悪く、丁度幸成のスマホに着信が入った。幸成は遥真にジェスチャーで「そこに置いといて」と伝えると、店の外に電話をしに出て行ってしまった。
 遥真は遠慮したものの、内心残念になりながら自分のラーメンを持って蒼生と兼彦が餃子をつまみに飲んでいる席へ向かった。
「お、お疲れ」
「休憩か?」
 遥真は頷きながら蒼生が奥へ詰めた横に腰掛けた。
「うん。これ食べたらすぐ洗い場に戻るけど」
 ピークは過ぎ去ってはいたものの、洗い物はたんまりと山になっている。少しずつでも減らして行かなければ、帰りも遅くなってしまうだろう。蒼生と兼彦は箸を持ち手を合わせる遥真の味噌ラーメンを覗き込んだ。濃厚な味噌の香りが、アルコールの入った二人の喉をゴクリと鳴らした。
「ねぇ、さっきラーメン一杯ずつ食べてなかった?」
 遥真がジト目を二人に向ける。テーブルには空いた皿も多い。どう考えてもハイカロリーだ。
「酒飲んでる時のこの匂いは良くないだろ」
「……餃子で我慢しなって」
「スープだけ、一口!」
「ちょ、蒼生!まだ僕良いって言ってないっ」
 遥真の返事を待たずに、蒼生はれんげを手に取りスープを一口啜った。口に広がる味噌の風味にキュッと目を瞑り、ウーンという高い声で唸る。
「こりゃ、美味いな……!兼彦もいるか?」
「いる」
「ちょっと、僕のだってば」
 蒼生かられんげを受け取った兼彦がスープを啜っていると、入り口から店に戻ってくる幸成が見え、遥真は黙り込んで彼が席に着くのを眺めた。
「……おーい、どうした?」
 ぼうっとする遥真に、蒼生が声をかけた。遥真はカウンター席の方を見つめたまま、小さな声で呟いた。
「あの人が今働いてるバーの店長だよ」
「え?」
 蒼生と兼彦は中腰になってカウンター席へ視線を向けた。
「僕の家庭教師だった人で、最上幸成さんっていうの」
 遥真は味噌ラーメンに息を吹きかけて冷ますと、大きな一口で麺を啜った。
「つまり、あの人があのレアタンブラーを譲ってくれたってことか?」
「うん」
 頭の中は洗い場に溜まっている食器の山でいっぱいで、蒼生の問いに遥真は顔を上げずに答えた。
「やべぇオッサンっていうか、ただの凄いイケメンじゃねぇか」
 想像とは違う人物だったようで、蒼生は目を丸くし、感嘆の声を漏らした。
「だから、やべぇオッサンじゃないってば」
 何度も言ったじゃん、と呆れ気味に遥真が答えると、蒼生が「やべっ」と声を上げた。
「何……あっ」
 遥真が顔をあげると、カウンター席からこちらに身体を向けて手を振る幸成が見えた。どうやら蒼生の視線に気がついたらしい。
「人をジロジロ見るなよ」
「よく言う。お前も気になっていたくせに」
 兼彦に嗜められた蒼生は、口をへの字に曲げて言い返したが、兼彦はそれには答えることなく黙ってまた遥真のラーメンスープを啜っていた。


「へぇ、遥真くんのお友達なんだ」
「ええ。高校から一緒なんです」
「ほう、高校から」
 にっこりと微笑む幸成の笑顔から遥真は目を逸らした。なんとなくこの場がむず痒く、早々に退散したかったというのに、客足も落ち着つき、常連数名とこの三人だけしかいないからと言って落合が四人に飲み物をサービスしたため、幸成が三人のいる席に移動してきたのだ。しまいに、蒼生に逃げられないよう窓際の席へと詰め込まれてしまった。
「……なんですか」
 微笑む幸成に目を向けず、遥真が尋ねた。
「いやぁ、高校生活楽しめたんだろうなって。その話まだ聞けてなかったから」
 幸成のニコニコとした顔をまともに見れない遥真は、また目を逸らした。
「遥真の高校の話なら俺らが話しますよ。タンブラーのお礼になるか分かりませんけど」
 遥真とは逆に嬉々として話す蒼生は、遥真の様子を見て楽しんでいる様子にも見えた。向かいに座る兼彦に助けを求めたが、兼彦もニヤリと笑って蒼生に同調する。
「二人とも、変なこと話さないでよ」
「変なことなんてあるの?」
「遥真は根っからドジなんで、変な話や事件の話題には事欠かないんですよ」
「ふぅん。それは興味深いね」
「ちょっと、幸成さんっ」
 遥真が膨れっ面を見せると、幸成は困ったように笑った。
「流石にこれ以上は遥真が泣くぞ」
「そうだな。最上さん、続きはこいつがいない時に」
「ふふふ。そうだね」
「みんなして……!」
 兼彦の一言を合図に話題が変わる。しかし、一人膨れたままの遥真は、頬杖をついて窓の外を眺めた。
 なんだかなぁ……。
 本当なら頑張って仕事をしている姿をもっと見て欲しかった。ラーメンを提供する時も、途中で胡麻油を入れると味変が出来るだとか、そんな話をしたいと思っていた。
 ま、タイミングが良くないのなんていつものことだけど。
 電話はきっとお店からだろう。たぶん旭からの確認連絡だ。大事ならここで幸成が談笑などしている訳がない。
 遥真は三人が話しているのを横目で眺めた。仲の良い二人と幸成が話す姿は、いつかあったら良いと思っていた未来だったが、こんなにも早くそれが実現するとは思ってもおらず、内心複雑になる。
 遥真の口から小さな溜息が漏れ、再び窓の外に目を向けた時だった。丁度来店を知らせるドアベルが鳴った。
「やば、戻らなきゃ」
 遥真は慌てて席から立ち上がると、いつものように「いらっしゃいませ」と声を出そうとした。
「いらっしゃいま…………せ……」
 遥真の声が静かに消え、変わりにひゅっと、遥真の喉が鳴った。隣に座っていた蒼生が「どうかしたか?」と楽しげな声で遥真に声をかけた。
「……おい、遥真?」
 遥真の青い顔を見て異変に気が付いた蒼生が声を上げた。黙ったまま何も答えない遥真の視線の先を見ると、そこに立っていた人物を見て目を丸くした。
「顔が青いぞ」
 向かいに座っていた兼彦が顔を覗き込む。
「久住鈴音……」
「なっ」
 蒼生は以前遥真を付き纏った女子学生の名前を呟いた。兼彦も勢いよく入り口に立つ彼女に視線を向けた。落合に常連客だったと聞いていたとは言え、タイミングが悪すぎる。蒼生は唇を噛み締めた。
「蒼生、噛むのやめな」
 遥真は蒼生の肩に手を置いて言うと「ちょっとごめん」と言って、蒼生を押し退けテーブル席から離れた。
「ちょ、おい!」
 彼女が現れたショックでおかしくなってしまったのかと、蒼生が遥真を止めようとしたが、遥真はその手をわざと避けた。
「……案内、しなきゃだから」
「は……おま、何言って……遥真っ!」
 蒼生の声を振り切って、遥真は入り口に立つ鈴音のもとに向かった。まさか遥真が自ら自分の目の前に出てくると思っていなかった鈴音も、目を丸くしている。蒼生の声が聞こえて厨房から出てきた落合と友理恵も同様に息を呑んでいた。
 遥真はゴクリと唾を飲み込んだ。口の中がいつの間にかカラカラに渇いていた。
「い、いらっしゃいませ……。こちらへ、どうぞ」
 遥真はそう言って鈴音を一番隅のカウンター席に案内すると、メニュー表を彼女の前に置いた。
「ご注文が決まりましたら……」
「……もう、決まっているから」
 鈴音がか細い声で答えた。
「……承り、ます」
 遥真の返事に、もう一度鈴音は消えてしまいそうな声で答えると、下を向いて黙り込む。小さな声で「かしこまりました」と答えた。遥真がそのまま急ぎ足で去ろうとすると、鈴音が「あのっ」と呼び止めた。
「……チョコレート、食べてくれましたか?」
 一瞬、なんの話かわからなかった遥真は黙ってその場から立ち去った。

 しん、と静まるホール。いつの間にか他にいた常連客は既に退店しているようだった。
「あの子……」
 幸成がゆっくり口を開いた。
「最近うちに来るようになった子だ」
「え?」
 幸成の声に蒼生が勢いよく振り向いた。
「……いつからですか?」
 兼彦が眉を寄せて尋ねた。
「んー、遥真くんの入って少し経ってからかなぁ。来るのは決まって遥真くんのいない水曜日だけど……。何か、訳アリかな?」
 何も知らない彼を見て、蒼生と兼彦は遥真に目線を送り溜息を吐いた。
「まったく……。あれだけちゃんと話しておけと言ったのに……」
 蒼生のセリフに、兼彦も呆れ気味に頷いた。二人の顔を交互に見上げた幸成は「蒼生くん、兼彦くん」と声をかけるとにっこりと微笑んだ。
「こういうのは本人から聞くのが一番なんだけど……。良ければ話してもらえないかな」
 彼の目は細くなっているというのに、全く笑っていないことに蒼生と兼彦は苦笑いを返し、静かに頷く他なかった。