Blue hour初出勤の日、遥真は朝からそわそわと落ち着かなかった。大学では兼彦に鬱陶しいと言われ、蒼生にはタンブラーごといつも持参しているハーブティーを押し付けられた。おかげでいつも以上にトイレに行く回数が増えたが、昼過ぎには落ち着きを取り戻していた。
 しかし、ハーブティーの効果は持続が短いようで、遥真はBlue hourに続く階段の上で本日数回目の深呼吸をした。
「そんなに緊張しなくても良いだろ」
 店の前まで付き合ってくれた兼彦が呆れ気味に言った。蒼生は友人のバンドがライブをするとかで出掛けている。本当は兼彦も誘われていたが、大音量が苦手だとか理由を付けて断っていたのを遥真は見ていた。
「でもやっぱり初日だしさぁ」
 新しい環境に飛び込むのは久しぶりで、どうにも胸が騒がしい。
「慣れればなんて事ないだろ」
 兼彦は遥真の背中を軽く押して言った。彼なりの雑なエールに遥真は眉を寄せる。
「終わる頃、迎えはいるか?」
「大丈夫。家はすぐそこだし、ここまで付き合ってくれただけで十分だよ」
 遥真は首を横に振った。出勤初日だし、シフトの時間を大幅に超えることはないだろうが、兼彦にわざわざ迎えにきてもらうのは悪い気がした。
「どうせ蒼生を回収しに行くことになるんだ。気にしなくても良いぞ」
 兼彦は遠慮するなと遥真に言ったが、遥真は首を横に振る。ライブの後の飲み会で酔っ払った蒼生を回収するだけでも骨が折れるのだ、これ以上は負担をかけられない。
「大丈夫。僕も男だし……それにほら、逃げ足は速いから」
 遥真はにこりと笑って答えた。高校の体育祭では、リレーのアンカーを任されていたこともあるぐらいだ。しかし、ゴール前で盛大に転けなければ、三年間毎年ぶっち切りの一着だった……という枕詞付きではあるが。遥真と同じ事を思い出していた兼彦は、静かに笑うと「分かった。何度も言うが、気を付けろよ」と、念を押した。
「うん、ありがと。また明日ね。蒼生によろしく」
「あぁ」
 手を振る遥真に答えると、兼彦はもと来た道を戻って行った。
 遥真は兼彦の背中を見送ると、もう一度ゆっくり深呼吸をし、店に続く階段を下り始めた。照明は点いているが、足下は若干暗い。いつものようなドジを踏まないよう、慎重に足を運ぶ。先日旭に言われた通り、印鑑はしっかり鞄の中に入れてきた。ここへ来る前に学校でも確認したが、急に不安になって背負っていたリュックを胸の前で抱え込んだ。ファスナーを開け、他に忘れ物は無いだろうかと、階段を下りながらもう一度確認をしはじめた。直ぐに取り出せるように、小さな巾着袋に入れて来たはずだった。遥真は手探りでリュックの中をかき回した。
 確か、ここに……。
「おわっ!」
 視線も注意も全てリュックの中だった遥真は、階段の最後の段を踏み外した。咄嗟に掴んだのは店の扉のドアノブで、体重をかけたその拍子にノブが回り、ドアが数センチほど開いて大きな音を立てて思い切り閉じられた。
「いたた……」
 バランスを崩し、階段の壁に額をぶつけた遥真が、患部を摩っていると、大きな音を店内でキャッチした旭と幸成が店のドアから顔を出した。
「何事……え、遥真くん?」
「どうしたんですかっ」
 足元に散らばったリュックの中身と、額を摩る遥真を見て、二人は目を丸くした。
「お騒がせしてすみません……。階段を踏み外しちゃって」
 苦笑いを浮かべる遥真に、幸成は「怪我は?」とすぐさま駆け寄った。
「大丈夫です。ちょっとぶつけただけなので」
「ぶつけたって……。旭、氷嚢準備できる?」
「はい、すぐに」
 幸成の指示を受け、旭は店の奥へ急いで戻っていく。
「ごめんなさい、ご迷惑を」
「迷惑じゃないよ。とりあえず、君は一旦カウンターの席に座ってて」
 幸成は店の扉を大きく開けると、カウンターの端の席へ遥真を座らせた。
「荷物は今持ってくるから」
「あの、自分で」
「良いから。ちゃんと冷やしておいて」
「……はい」
 丁度戻ってきた旭から氷嚢を受け取ると、遥真は黙って額に当てた。じんじんと痛む額にキーンとした別の感覚が広がっていく。申し訳ない気持ちと、恥ずかしさが込み上げ、顔はどんどんと下がっていった。
「お待たせ」
 幸成がリュックを遥真に手渡した。
「すみません、ありがとうございます」
「全然。あぁ、これだけちょっと凹んじゃっていたけど……」
 そう言って見せられたのは、蒼生に今日一日持っていろと渡されたタンブラーだった。
「ゲッ……」
 それは蒼生のお気に入りカフェで出している期間限定デザインで、抽選販売されたものだった。遥真も抽選に協力させられたので、よく覚えている。結局、蒼生と遥真は抽選に外れて、兼彦だけ当選したのだった。
「絶対、怒られる……」
「え、遥真くんのじゃないの?」
「……はい。僕が朝から緊張していたので、友達がハーブティーを渡してくれて……」
 遥真は文字通り肩を落とした。よりによって手に入れるのが大変なものを傷付けてしまうとは。すると、その表情を見た幸成が突然吹き出した。
「え、あの」
「ごめん、ごめん。いやぁ、本当に相変わらずだね」
 そう言ってクツクツと笑う幸成を見て、遥真は恥ずかしさで顔を背けた。
「店長、あまり笑っては失礼ですよ。神保くん、痛みは引きましたか?」
「……はい」
 旭は幸成と遥真の間に立ち、遥真の顔を覗き込む。額は少し赤くなっていたが、たんこぶ程度に治まりそうだった。
「では、先に契約書関係を済ませちゃいましょう。それまで氷嚢はまだ当てていてください。その後は、着替えて早速お仕事です」
 にこりと笑った旭は、印鑑を用意して待っているよう伝え、書類を取りに引っ込んでいった。
 その場に残された遥真は、言われた通りに巾着袋に入れてきた印鑑を取り出す。しかし、視線の先は盛大に凹ませてしまった蒼生のタンブラーだった。
「どうしよう……」
 思わずそう呟くと、カウンターに寄りかかっていた幸成がまた小さく笑った。
「それ、限定品だよね」
「……はい。僕も抽選手伝ったんですけど、外れて買えなかったものです」
「あそこ、人気のカフェだもんね。毎年タンブラーのデザイン変わるし……あ、一昨年のデザインのものなら使ってないのが家にあったかな」
 幸成はそう言って少しだけ黙り込むと、遥真の顔を覗き込みながら言った。
「それ、譲ろうか?」
「え?あ、いや、それは悪いですよ」
「でも、使わないままだし。デザインは確かに違うけど、使い勝手は一緒だよ?」
 確かに同じ形状のものが毎年出回っている。違うのはデザインだけで、凹ませてしまったものは、ステンレス製のボトルタイプで、ブルーシルバーの中にワンポイントで小さなシルバーのクマが描かれたものだった。
「でも、それだって手に入れるのが大変だったやつですよね?」
「いや、貰い物だよ。新しいものが出る度に買う人っているだろう?それに、今使っているのが壊れない限り使わないし、君みたいに転ぶこともないはずだから」
 クスリと笑いながら幸成が言った。遥真は思わず口をへの字に曲げる。
「一言余計ですっ」
「でも緊張、解けたでしょ」
「え?」
 遥真はぽかんと口を開けたまま幸成を見つめた。
 言われてみれば、大学の講義中から忙しなく蠢いていた胸の騒めきは消え、階段を下りる時の不安感もどこかへ消えていた。
 遥真が不思議そうに幸成の顔を見つめると、幸成は再び小さな笑みを溢す。いつの間にか幸成の調子に乗せられる感じが、何処か懐かしく感じ、遥真の胸が高鳴った。
「あの、幸成さん」
「あー、そうそう」
 遥真に被せるよう、幸成は言った。
「ここでは、店長、もしくは最上さんって呼んでね」
「あ……す、すみません。その、癖というか」
「ううん。俺も遥真くんって呼んじゃってたから、おあいこ。勿論、プライベートなら構わないからさ。一応、仕事との線引きはしておこうね」
 幸成は柔らかい口調で念を押すように言った。にこりと微笑む顔に圧はなく、遥真も素直に頷いた。
「分かりました、店長」
「うん。よろしくね、神保くん」


 書類を書き終えた遥真は、旭に連れられロッカールームへ移動した。制服はワイシャツと黒のベストと黒のスラックスが時給され、胸にはシルバーのネームプレートが既に付いていた。
 制服に着替えると、二人のスタッフを紹介してもらった。一人は遥真と同じく大学生アルバイトの山村浩太という大学二年生。もう一人は辰巳尚之というフリーターで、この二人が主に遥真とシフトが被る人達らしい。バーテンダーもシフト制で勤務しているが、時折り旭と幸成もカウンターに立つため、少数精鋭での経営だそうだ。今日は高坂優作という、二十代後半ぐらいのバーテンダーがカウンターに立っていた。身長は幸成や旭達同様に高く、カウンターには彼をうっとりと見上げる女性が数名見受けられた。挨拶を、と思ったが注文が重なっていたようで後に回された。
「まだ数名スタッフはいますが、おいおい紹介します」
 旭からそう言われ、二人と挨拶を交わすと、早速ホールの仕事に入ることになった。
 遥真の最初のうちの仕事は、オーダーを聞き、提供をする、という簡単なことだった。ラーメン屋でも同じような仕事をしてきたため、感覚や視野の広げ方は遥真にも自信があった。しかし、一連の流れを見ていた旭からは、オーダーを聞いた後の返事は相手に聞こえる程度の声量で対応するようにだとか、グラスを置く時には音を立てないことを意識するよう細々とした注意を受けた。最終的には、「常連客が多い店なので、みなさん大目に見てくれますから。ゆっくりで良いですよ」というフォローが入り、余計に力が入ってしまった。おかげで退勤時はロッカールームで着替えている時に肩が上がらなくなっていた。
「ラーメン屋さんとは真逆で大変じゃなかった?」
 遥真が着替えていると、ロッカールームに幸成が入ってきた。
「お疲れ様。初日はどうだった?あ、おでこ本当に大丈夫?」
 遥真はロッカーを閉じながら苦笑いを浮かべた。額の痛みは綺麗に消えたが、予想通りにたんこぶが出来た。前髪で隠れてはいたが、注視すれば分かってしまう。ついさっき事務所にタイムカードを切りに行った際、見られたのだろう。
「こっちはもう何ともないので大丈夫です。仕事は……確かに、不慣れなことが多かったので、早く慣れるよう頑張ります」
 言われた通り、ラーメン屋とは雰囲気も対応の温度感も全て真逆だった。
「あはは。まぁ、気負わないで。ゆっくり丁寧にやってくれたら良いから」
「はい」
 場慣れするまで少し時間はかかりそうだったが、焦っても仕方がない。幸成と旭が言う通り、ゆっくりと確実に覚えていくことを決め、遥真は頷いた。
「それじゃあ、気をつけてね」
「あ、あの」
 ロッカールームを出て行く幸成を遥真は咄嗟に呼び止めた。
「どうかした?」
 幸成が長身の身体を屈め、遥真と視線を合わす。切れ長の目に自分が映っているのが見え、遥真は思わず視線を逸らした。
「あの、実は」
 ……ちゃんと、話しておかなくちゃ。
 どんなに迷惑をかけてしまうと思っても、必ず伝えろと、蒼生と兼彦に再三言われていた。他人に話すのは気が引ける事案だが、遥真にとって幸成は知らない仲ではない。ただ、相手に負担をかけてしまう事だけが気掛かりなだけで、信頼できる相手である事は間違いなかった。
「ええと、その」
「すみません、店長。ちょっと良いですか?」
 遥真が口を開きかけた時、タイミング悪く山村がロッカールームに幸成を呼びに来た。どうやら急ぎの用らしく、表情が曇っている。
「ん、あぁ」
 幸成がチラりと遥真へ目配せした。
「僕の話はまた今度で大丈夫です」
「そう。じゃあ、また次の出勤の時に聞くね。気をつけて帰るんだよ」
「はい」
 幸成は片手で軽く手を振ると、ロッカールームから事務所へと移動した。山村も遥真に申し訳なさそうな顔で「お疲れ様です」と言い、その後を追う。遥真は二人の背中を見送り、荷物をまとめて店を出た。
 次の出勤日は四日後だ。ちゃんと話せればいいけどな……。
 ふぅ、と小さな溜息を吐く。タイミングが悪いのはいつもの事だ。きっと次こそは、と思いながら、遥真は足早になるべく明るい道を選んでアパートへと帰宅した。


 結局、伝えられるタイミングはあれから一度も訪れなかった。遥真のシフトと幸成のシフトは被る日の方が少なく、遥真の出勤日は基本的に時間帯責任者が旭となっていて、初日はわざわざ時間を割いて出勤してくれたのが後から分かった。旭に伝えようとも考えたが、あの時、話が中断されてしまった事もあり、遥真の中で待ったをかけていた。同じ出動日は無いわけではない。タイミングを見て、自分から話そうと決めていた。それに、ここ数日帰宅が一人でも何も起きていない。後をつけられている感覚も、誰かに見られている感覚もまったくしなかった。蒼生や兼彦達の取り越し苦労なだけで、もう全て終わったことなのだと、遥真は考えていた。それでも、万が一があった場合には店に迷惑をかけてしまう。その辺を危惧して、伝えるべきだとは思っていた。ただ、焦る必要性を感じておらず、そのうちに都合が合うだろうと単純に考えていた。
 しかし、思いの外すれ違いが続き、遥真と幸成は顔を合わす日がないまま数日が過ぎていった。
 
 遥真がBlue hourに勤務して、二週間が経った。退勤後は一人で帰宅をしていたが、何の問題もなかったし、幸成や店の者に報告もしなくて大丈夫ではないかと考え始め、頭の片隅にあった問題をもっと遠くの方へと押しやった頃だった。
「神保くん、お疲れ様」
「あ、店長。お疲れ様です」
 遥真がロッカールームで帰宅準備をしていると、幸成が入ってきた。
「上がりだよね?」
「ええ、そうですけど」
「俺もなんだ」
「そうなんですか?」
 遥真は思わず幸成の方をまじまじと見つめて言った。いつもの幸成ならまだ事務所で事務処理をしたり、休憩回しがてらカウンターに出ている時間帯だった。
「うん。ちょっとここのところ連勤で、旭に怒られちゃってね」
「あー……」
 遥真は頭の中で怒る旭を想像した。口調が柔らかいだけに、彼が怒った時のショックはなんとも言い難い。苦笑いをする遥真を見て小さく幸成は笑う。すると、「あっ、そうだ」と、何かを思い出したような声を上げた。
「神保くん、この後少し時間ある?」
「はい、ありますけど……」
「ほら、タンブラー譲るって約束したでしょ。俺の家、車ですぐだから今日渡しても良いかな。なかなか会えないし……勿論、帰りは車で送るよ」
「えっ」
 思わぬ誘いに遥真の背筋がピンと伸びる。心臓が静かにばくんと跳ねた。しかし、遥真は首を横に振る。
「やっぱり悪いですよ。僕、今似たようなの探してますし……」
 自分でやらかした事なのだ、始末は自分でつけたいと遥真は言った。そう言っておきながら、まだ蒼生に事の顛末を話していなかった事を思い出し、胸の奥がちくりと痛む。
「ふふ。その遠慮がちなのも変わらないねえ。良いじゃない、口実だから乗ってくれても」
「口実……ですか?」
 なんのための口実なのか分からず、遥真はきょとんとしたまま幸成の顔を見上げた。
「タンブラーの前に言ったでしょ、時間作って色々話たいって」
 幸成はくすりと笑って答えた。面接時に話したことを覚えていてくれた事が嬉しくて、遥真は無意識に頬を緩ませる。
「それじゃあ、行こうか」
 ほんのりと赤く染めた頬を見た幸成は、遥真の手を引き、自宅へと向かった。



 遥真を乗せた幸成の車は、店から数分の場所に建つ、高層マンションの地下駐車場に停まった。
「すぐ取ってくるから、ここで待ってて」
「はい」
 幸成は、遥真が頷くと車のドアを閉めてエレベーターで自室へ向かって行った。遥真はその様子を助手席で眺めながら、ここへ来る途中に立ち寄ったコンビニで幸成に買ってもらったホットココアを一口飲んだ。最近ではココアよりもコーヒーの方を好むのだが、差し出された手前、有り難く頂戴した。彼の中で自分がまだあの頃のまま止まっているのだと思うと擽ったい。遥真自身、高校受験の勉強中はいつもホットココアを飲んでいたことを、ついさっきまで忘れていた。
 まぁ、全然甘党なのは変わりないけど。
 ブラックコーヒーと甘いお菓子というペアリングを知ってからはもっぱらコーヒー派であることはまだ話せていない。「これ、好きだったよね」と言って渡してきた彼に本心は言えないまま、遥真はホットココアのペットボトルを受け取ったのだ。
 それにしても、大きなマンションだな……。
 外観から伺うに、十階以上あるように見えた。車の中から見上げただけなので、もっとあるかもしれない。この地下駐車場もかなりの台数が並んでいる。ひと世帯に一台とは限らないのだろう。見慣れない光景に遥真は目をしばたたせた。
 ふと、中三の時の記憶が蘇る。あの頃の幸成は既に社会人で、どこかの大企業に勤めていた。海外にも支社のある大きな会社で、当時の遥真でも知っていたぐらいの規模だった。優秀な人しか入れない会社だろうと、中学生ながらに思っていたし、きっと厳しい人なのだろうと思っていたが、蓋を開ければ今と変わらない優しい大人だった。変わっていたのは職業ぐらいだろう。受験勉強の合間に聞かせてくれた仕事の話では、職場環境も問題はなく、充実していたように思えた。続けていれば幸成ならそれなりの役職に就いていそうだったが、どうして辞めてしまったのだろう。
 もしかして無理が祟ったのかな。
 いつだか、仕事が忙しいのに休みの日に家庭教師を頼んで申し訳ないと、本人に伝えたことがあった。幸成は「忙しくしているのが好きだし、家庭教師は気分転換に最適だよ」と答えてくれたのを昨日のように思い出す。その返答をもらってからは、特に遥真の幸成へ対する尊敬の意が強くなったが、きちんと休めているのか心配にもなった。というのも、当日勉強はもちろん、参考書の購入や合格祈願にも付き合ってもらったのだ。流石に振り回しすぎたと思って、クリスマスにお礼として母と選んだネイビーのマフラーを贈ると、同じくいつも楽しませてもらっているからといって、ブランド物の深緑のマフラーを贈られた。母がそのお返しを見て卒倒しかけたのには驚いたが、今では笑える思い出になり、そのマフラーは今でも大事に使っている。また、バレンタインにもらった有名ブランドチョコレートは、一粒一粒に艶があり食べるのが勿体無いほど綺麗だった。「お母さんと食べてね」と渡され、正直に二人で分けたのだが、どれも食べてみたくて母よりも二つ多く食べた。綺麗で甘くて美味しいそのブランドチョコレートは中学生の遥真には衝撃で、今では好物の一つになっている。
 確か、高校の時にそれが好きだと蒼生に話したら、一昔前のOLか、と突っ込まれたっけ。
 頑張って自分で買ってみようと思ったが、セール品になってようやく手が出せる金額になるのを知り、大人との距離感を実感した。
 そうやって、色々と僕に構ってくれて……。幸成さんが色々と行こうって言って車出してくれたんだよなぁ。
 その時も、今日みたいにホットココアをコンビニで買ってくれたのを思い出し、遥真はくすりと笑う。他人に対してよく気の回る人だと思っているが、いつか気疲れをしてしまうのではないかと心配だ。
 今だって、シフトを見る限り毎日のように店に顔を出している。遥真はスマホの画面を開き、今月のシフト表を表示した。所々に公休日が記載されていたが、結局店に足を運んでいるように窺えた。遥真が働き始めてすぐは、シフトが被っているように思っていたが、あれは、わざわざ店に来ていたのはないかと考えるようになっていた。
 家庭教師を頼んでいた時期に、幸成が体調を崩したことはなかったが、やはり忙しくしているのが印象深い。もしかしたら、初日に盛大に転んだのを見て、仕事を任せて良いものかと不安になったのかもしれない。
「グラスとか全部高そうだもんな……」
 ぼそりと遥真が呟くと、運転席のドアが開いた。
「ごめんね、お待たせ」
 黒い紙袋を持った幸成が運転席に座り込んだ。
「はい、これ」
「ありがとうございます。でも、本当に良いんですか?」
「うん。前にも言ったけど、どうせ使わないままだと思うからね」
「でも、手に入りにくい物なのに……せめてお代を」
 幸成は首を振り、左手で自分のリュックから財布を取り出そうとする遥真の手を押さえながら言った。
「貰い物だから良いの。お代はいりません」
「でも……」
 眉をハの字に寄せる遥真を横目に、幸成は静かに笑うと車のエンジンをかけた。
「じゃあ、こうしよう。近々、閉店前に君のいるラーメン屋に行っても良いかな?」
 予想外のお願いに遥真は目を丸くする。
「え、そんなことで良いんですか?」
「うん。だめ?」
「そりゃあ全然、良いですけど……」
「じゃあ、決まり。必ず行くからね」
 左手で遥真の頭を軽くポンポンとすると、幸成は車を発進させた。頭を撫でられた遥真は恥ずかしさで黙り込んだが、このやりとりがなんだか懐かしくなり、幸成に見えないように反対の窓から外を眺めるふりをして、静かに微笑んだ。



 翌日の昼休み、遥真は蒼生と兼彦を教室棟の三階で待っていた。教室棟の三階から六階の廊下にはディスカッション用に設置されたテーブルと椅子が何組かあり、飲食も可能だ。毎日学食でも財布的にはそこまで痛くはないが、今日は授業の無い蒼生が午前中に近所のパン屋のタイムセールに駆け込んだという連絡が入った。そのパン屋とはSNSでも有名な店で、時々ゲリラで全品半額以下という驚きの価格設定でタイムセールを行うらしい。タイミングさえ合ったら爆買いしてやると、蒼生がいつだか息巻いていたが、そのタイミングが今日に重なったらしい。戦利品もなかなかに多いとのことで、遥真も期待していた。
「遥真」
「あ、兼彦。あれ、蒼生はまだ?」
 授業を終えた兼彦が、上の階から降りてきた。
「あぁ。もう直ぐ着くって連絡が来た。席を取っておけだと」
 ふう、と小さな溜息を吐きながら言うと、兼彦はすぐ近くの空いている席に鞄を置いた。遥真はその向かいに腰掛けると、鞄から飲み物を取り出し、ふと兼彦の顔を覗き見た。
「うわ、目の下真っ黒じゃん。また寝てないの?」
 心配そうに遥真が尋ねると、兼彦は煩わしそうに顔を顰めた。
「睡眠は足りている」
「その顔で嘘言うかなぁ……謝恩会なんてこの前終わったじゃん。次は何?」
「新入生勧誘準備」
 つい先日まで謝恩会の準備に忙しくしていた兼彦だったが、先週末にそれが片付いたと聞いていた。少しは手持ちの仕事が減り、アルバイトや自分の勉強にも時間が使えると言っていたはずだったが、結局大学イベントに関係する何かしらの仕事を押し付けられたようだった。
「そんな目バキバキにしながらじゃないと出来ないの……?」
「一日がまず二十四時間しかないのがおかしいんだ」
 冗談に思えない表情で答える兼彦に、遥真が苦笑いをしていると、蒼生が階段から膨れ上がったエコバッグを肩に背負ってやってくるのが見えた。
「待たせたな。見ろ、今日の戦利品だ」
 蒼生は得意気な顔で文字通りどさりと音を立て、テーブルにエコバッグを置いた。中から個包装された菓子パンや惣菜パンが溢れ出て、美味しそうな香ばしい焼きたてのパンの匂いをそこかしこに放った。
「思ってた以上の量だね」
「半額って聞いたら買いすぎちゃって。お前らもどうせ食うだろ。余らせる方が難しいさ」
 にこにこと誇らしげに笑う蒼生は、適当にパンを中から取り出して兼彦の横に腰掛ける。包みを開ける前に鞄からペットボトルのアイスティーを取り出すのを見て、遥真は「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
 蒼生はパンの包みを開けながら慌てる遥真へ視線を向けた。遥真はリュックの中から紙袋を取り出すと、蒼生の前に差し出した。
「蒼生、その………この前借りたタンブラーなんだけど……」
 恐る恐る口を開く遥真に、蒼生の眉がぴくんと動く。
「何だよ。勿体ぶらないでさっさと言えって」
 パンの包みから手を離した蒼生は、腕を組み唇をへの字に曲げた。不機嫌そうな表情に、思わず遥真は視線を兼彦へと移動させる。兼彦はその目を直ぐに逸らし、パンへと齧り付いていた。
「僕、借りた日に思いっきり転んじゃって、凹ませちゃったんだ……」
 ごめんなさい、と言いながら遥真は紙袋からべっこりと凹みを作ったブルーシルバーのタンブラーを取り出して頭を下げた。
「……見事に凹んでるな」
 クマのイラストの真下が凹んで傷になっているのをまじまじと見ながら蒼生が言った。
「本当は直ぐにでも謝るべきだったんだけど、蒼生も凄く気に入ってた物だったし……使い勝手が良いって言ってたから、せめて似た物を用意出来たらって思っていて……ごめん、遅くなって」
 遥真はもう一度頭を下げて、紙袋を蒼生に差し出した。
「まったく、正直に言えば良いものを……。お前に怪我は?」
「……なかった」
 首を振りながら答えると、蒼生は小さく鼻で笑った。
「なら良い。つーか、アレの代わりなんて早々に見つかるわけないだろ?」
 気にしていないと言うように、蒼生は笑って差し出された紙袋を受け取った。
「まぁ、そう言うと思ったんだけどね。これならどうかなって」
「だからってなぁ………………おい、これ!」
 蒼生は袋から取り出した箱を見てギョッとした。
「ちょっと前のデザインなんだけど、使い勝手は同じって聞いてて……。色は変わっちゃうけど、どうかなぁって思って」
 驚く蒼生に、慌てて捲し立てる遥真だったが、それを更に超えて蒼生が言った。
「どうもこうも、これ……!お前、自分で買ったのか?」
「え、いや、譲ってくれる人がいて……」
 凄むような表情の蒼生に遥真は尻込みした。兼彦はそんな二人に目もくれず、黙々とパンを食べ進めている。
「これを譲ってくれる人がいるだぁ?お前……変なヤツに金貰ってなんかしたとかしてないよな?」
 蒼生の一言にこちらへ関心を向けていなかった兼彦の眉もぴくりと動いた。
「そ、そんな事するわけないだろっ!」
 遥真はぶんぶんと音がする勢いで首を振るが、蒼生は疑わしいと言ってあれこれと質問攻めを始めた。
「いちいちうるさいな、何が問題なんだ?」
 凹んだタンブラーと、箱に入ったタンブラーを見比べながら兼彦が痺れを切らして口を開いた。確かにパッと見ただけでは、違いは色ぐらいしか分からない。色は凹ませてしまった物と違ってグリーンシルバーの落ち着いた色。形はほぼ同じで、クマのイラストがないだけだった。
「緑だって別に良いだろ。クマの絵がないぐらいの違いじゃないか。そのぐらい俺が描いてやるから騒ぐのはやめろ」
 色が気に入らずに騒いでいると勘違いしたのか、兼彦が呆れ気味に言う。
「バカ、描くなアホ!そもそもクマがいるかいないかじゃないっ!」
 この持ち易さが分からないのか、と兼彦を一刀両断するが、商品の違いが全く分からない二人は苦い顔をするだけだった。蒼生は大きな溜息を吐きながら座り直すと、さっき開けたままのパンを袋から取り出してようやく一口齧り付いた。
「……これな、今でもプレミア価格がつくほど人気で、オークションサイトでもバカ高いんだよ。たかだかタンブラーで数万するって馬鹿馬鹿しいけどな。そんなレア物を無償で人にくれるってヤツ、普通いるか?」
 そう言ってスマホでオークションサイトを検索した蒼生は、二人に画面を見せつけた。確かに販売価格と桁が一つ違うようで、兼彦と遥真は目を丸くする。
「……知ってたか?」と兼彦が遥真に尋ねると、遥真は勢いよく首を振った。
「人気商品ってのは聞いていたけど、そんな高い物だとか、知らなくて……!でも譲ってくれた人は変な人じゃないよ、断言できる。新しいバイト先の店長で、高校受験の時にお世話になった人だもん」
 すると、今度は蒼生だけでなく兼彦も溜息を吐いた。
「それ……やべぇオッサンじゃないだろうな」
「幸成さんはそんなんじゃないってば」
「幸成さん、ねぇ」
 蒼生にふぅん、と含みのある返事をされ、遥真は唇を尖らせる。
「良い人だよ。今まで僕に対して悪いようにすることは絶対なかったし……」
「お前、狙われやすいってこと忘れてないか?」
 兼彦の言葉に、蒼生はパンを食べながら頷いた。
「今は男だろうが女だろうが関係ないんだぞ」
「それはそうだけど……。あの人のはただの親切心だと思う……」
 ブランド物のマフラーやチョコレートを貰ったこともあって、彼の匙加減がよく分からなくなっていたが、そう言われればそんな気がし、遥真は表情を濁していく。
「……まぁ、遥真が大丈夫と言うなら平気なんだろう。それより、本当にこれ貰って良いのか?」
「うん。タンブラー凹ませてごめんね」
「別に良いって。デカいお釣りが貰えたしな」
 にやりと笑って蒼生が答える。その横で、兼彦が「クマならいつでも描いてやる」と言ったが、自分のクマを消してから出直せと言い負かされた。