薄暗いビルの階段を降り、遥真は店の扉の前に立つと深呼吸をした。面接は既に何件も受けてきたが、やはり緊張はしてしまう。来年には本格的に就職活動が控えているのだ、予行練習だと思えば良い。自分を奮い立たせ、遥真は意を決して店の扉を開けた。
「こ、こんにちは」
 覇気のない気弱な声が開店前の店内に響く。照明は営業前だからか、はっきりとした明るさで店内がざっと見渡せた。オシャレな木製のカウンターには脚の細いバーチェアが並び、その向かい側には様々なお酒が並んだ大きなバックバーが見えた。ネイビー色の壁は店名の雰囲気に合わせ、床に近づくほど淡い色へとグラデーションがかかっていた。
 遥真が店内を見渡していると、奥から一人の黒縁眼鏡の男性が顔を出した。
「君は……」
 身長はすらりと高く、清潔感のある男性だった。年齢はラーメン屋の店長、落合と同じ四十手前に見える。遥真はぺこりとお辞儀をすると、今日の面接で来たことを伝えた。
「今、店長を呼んで来ますね」
「あっ、はい。お願いします」
 眼鏡の男性は遥真を近くのテーブル席に案内すると、裏へ店長を呼びに向かった。てっきり彼が店長かと思って身構えていた遥真は、鞄から履歴書を入れたクリアファイルを取り出すと、もう一度深呼吸をした。
 次こそは受かりますように、次こそは……!
 ぎゅっと目を閉じ、遥真は最後の願掛けをする。すると、奥の方から足音が聞こえ、遥真の側に誰がやって来た。
「ごめんね、遅れました。店長の…………あれ、遥真、くん?」
 遥真は自分の名前を呼ばれ、顔を上げた。
「…………え、幸成さん?」
 一瞬固まった遥真だったが、頭の片隅にいた自分の家庭教師の名を口にした。



「相変わらず、大変そうだね」
 店長の最上幸成は遥真から面接に来た経緯を聞くと、くすりと静かに笑った。
「あはは、本当に。幸成さんの方はお変わりなさそうで……」
 遥真は畏って答えた。久々に会ったせいか、続ける言葉が見つからず、直ぐに身体を縮こませてしまう。出されたグラスの水を数回口に含むと、ゴクリと音を鳴らして飲み込んだ。
 遥真の目の前に座って履歴書を眺めているこの男は、遥真が高校受験の際に世話になった知り合いだった。一人親だった母が、塾に通わせられないことを嘆くと、近所に住んでいた幸成の母が息子を家庭教師にと差し出したのだ。同時、幸成は二十六で中学生の勉強を見ることに乗り気ではなかったが、家庭環境を聞いて無碍にもできず、休日の数時間限定で付き合うことにした。最終的には真面目に一生懸命取組む遥真に情が移り、受験前の一ヶ月間はほぼ付きっきりで勉強を見ていた。しかし、高校受験が終わると同時に幸成は海外転勤が決まってしまい、合格発表の数日前に日本を経ってしまった。結果はメールで連絡することを約束した遥真は、約束通り結果連絡した。返信は「おめでとう」と返ってきたのだが、それ以降メールをしても返事は返ってこないどころか、アドレスが変わってしまいそれっきりだった。心のどこかではもう一度会いたいと思ってはいたが、新生活に慣れることに精一杯で、だんだんとその気持ちが遠のいてしまい、今に至る。
「条件は悪くないね。ここから家も近いみたいだし、飲食店の経験もある……」
 幸成は履歴書をテーブルに置き、遥真の方を見た。短髪の黒髪に鋭い瞳。誰が見ても綺麗だと言う、その端正な顔立ち。大きな引き締まった身体に、大きな手のひら。正面で目を合わせられると、思わずどきりとしてしまい、心臓が跳ねる。
「いつから来れそうかな」
「えっ、採用……ですか?」
「うん。きみが真面目なのは知ってるし、頑張り屋さんだから仕事も早く覚えてくれそうだしね」
 幸成は静かに微笑む。久々にみたこの笑顔は、いつだったか苦手な応用問題を自力で解いた時に見た以来だった。
「でも客層的に大学生のきみには少々大人な世界だよ。頑張れそう?」
 幸成の言葉に、遥真は店内をもう一度見渡した。今は照明が明るいが、開店時間になると照明を落とし、一気に雰囲気を変えると言う。そんなお店に自分が立っていることを想像すると、なんとも不相応極まりないが、背に腹は変えられない。遥真はその場で深く頭を下げた。
「大丈夫です。よろしくお願いしますっ」
「ふふ、良い返事だね。今のアルバイトが落ち着くのはいつ頃かな」
「えっと、シフトは少しずつ減る予定なんですけど、来月末に閉店なので、最後の方にシフトが若干増えるぐらいかと……」
「そっか。じゃあ、来週から一旦週二でどうかな」
「はいっ」
 幸成の提案に遥真は張り切って返事を返した。
「じゃあ、あとは副店長に話を聞いてもらうとして……」
 幸成は誰かに引き継ぐと言って、座っていた椅子から腰を上げた。
「えっ、あの」
「まだ聞きたいこと、ある?」
「あ、あの……」
 仕事について聞きたいことがいくつかあったが、頭に浮かぶのはいつ帰国したのかや、新しいアドレスをどうして教えてくれなかったのか、バーの経営者になった理由など、プライベートな話ばかり。数年ぶりの再会に、遥真の心臓は高鳴りっぱなしで、口は開くがその先が続かない。聞いてしまっては失礼に当たることも重々承知だった。
 遥真がこの数秒間で色々なことを考えていると、幸成はくすりと笑った。
「今度、また時間作るよ。合格した高校の話も聞きたいしね」
 それだけ言うと、幸成は遥真の履歴書を持って裏へ引っ込んだ。全部見透かされているような気がして、遥真の身体中がむず痒くなった。その後、幸成と入れ違いに出てきたのは、先程店内で作業をしていた眼鏡の男性だった。
「旭雅人です。ここの副店長をやっています。シフトのお話をさせてください」
 先程はどうも、と付け加えて旭は言った。幸成より小さめではあるが、高身長でスラリとした身体に甘いマスクという武器を持っている。遥真はまたぺこりとお辞儀をした。

「では、来週からよろしくお願いします。それまでに制服は用意しておきます。契約書へのサインをしてもらいますので、印鑑をお忘れなく」
 一通り話が終わると、旭は遥真を促して立ち上がった。数週間はラーメン屋との掛け持ちとなるが、アルバイト探しはこれで幕を下ろす。リュックを背負い直し、店の扉へ向かうと「終わった?」と奥から幸成が顔を出した。
「あ、幸成さん」
 遥真の表情が途端に明るくなった。彼が見送りに出てくるとは思っても見なかったため、妙な安心感が遥真の腹のあたりをぐっと熱くさせた。
「これからよろしくね」
 扉を押さえながら幸成が言う。旭はその横で軽く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それじゃあ、気をつけて」
「はい」
 幸成が手を振ると、それに対して遥真はぺこりと頭を下げ、店外へ続く階段を上がっていった。
 遥真は階段を上がりきると、後ろを振り向いた。丁度、店の扉が閉まる時だった。カチャン、という音が聞こえると、遥真の胸がジン、と熱くなる。漸くアルバイト探しが終わって肩の荷が降りたのもそうだったが、久しぶりに幸成に会えたことが嬉しかった。大きな手のひらで頭を撫でられたことまで記憶が蘇る。早く来週になって欲しいと、逸る気持ちを抑え込み、蒼生の待つファミレスへと急いだ。


「なんだ、決まったのか」
 読みかけの本を閉じ、蒼生は向かいに座る遥真にそう言った。
「なんだってなんだよ。心配してくれてたんじゃないの?」
 口をへの字に結び、遥真は言い返した。座りながら店員を呼ぶボタンを押す。面接が終わったばかりで緊張も解け、腹の虫まで鳴き出していた。
「言っただろ。残念会してやるって。さっきまで考えていた慰めの言葉がパァだな」
 そう言いながら、目を細めた蒼生はどことなくホッとしているようにも見えた。
「蒼生って一言余計だよね。兼彦に言いつけてやる」
「フン、兼彦なんて怖かないね。それより、あの事ちゃんと言ったんだよな?」
「え、あの事って?」
 店員が来たので話を中断した。遥真がいつも頼むハンバーグステーキとライス、ドリンクバーを頼むと、蒼生も「俺はエビドリアとミートソースパスタ追加で」と答えた。
 遥真がドリンクバーからホットココアと、蒼生に頼まれた紅茶を取って戻ってくると、先程中断した話が再開された。
「自分の事になると途端に雑になるのはいつになったら直るんだ?」
「雑って……」
 蒼生は呆れ気味に溜息を吐いた。
「俺が今日、残念会を楽しみにお前について来た訳じゃないのは分かっているんだろ」
 蒼生の言葉に遥真は、罰が悪そうに下唇を突き出してゆっくりと頷いた。
「ラーメン屋の店長夫婦は話が分かる人で、おまけにめちゃくちゃ良い人だった。あの夫婦のおかげで、無事にアルバイトをしながら大学生活を送れていたってことを忘れてないだろうな?」
「……分かってるよ。でも、流石に直ぐには嗅ぎつけないでしょ」
「ストーカーを舐めるな。ラーメン屋を直ぐに嗅ぎつけたあの嗅覚があれば、じきにバレる」
「怖い事言わないでよ……」
 遥真は呟くような小さな声で答えた。
 以前、遥真とトラブルになった女子学生、久住鈴音は、アルバイト先の『おちあい』を嗅ぎつけ、シフト終わりに押し掛けることがしばしばあった。自宅付近までついてきたことがあり、バイト終わりに落合夫婦に車でアパートまで送ってもらったり、たまたまバイト先の近所に住んでいる兼彦と蒼生の二人に着いてきてもらう事があった。今日だって、普段はファミレスに一人で入らない蒼生が、わざわざ待っていてくれたのだ。人が多い方が鈴音も寄ってこないと踏んだのだろう。しかし、こういった行動は全て彼らが自ら動いてくれた事である。遥真は自分が友人や周りの人に恵まれている事も重々承知していた。だが、次のアルバイト先の人達が同じように動いてくれるとは限らない。いくら知り合いだからといって、毎度シフトの度に店長の幸成が業務外のことをする事はないだろう。それに今は友人達の協力を得て、和解状態だ。確かにその姿を学内で見かける度に遥真の胃は心なしかまだ痛むが、その程度で収まっているのだから、もう大丈夫だと言っても良いと思っていた。
「あのお店ならアパートも近いし、何とかなるって。それに、店長は知り合いだったし」
「知り合い?」
「うん、偶然でびっくりした。高校受験の時に家庭教師してくれた人なんだ。何年か振りに会ったけど変わっていなくてさ」
「へぇ」
 嬉しそうに話す遥真を見て蒼生は紅茶を一口飲んだ。
「だったらせめて店長の耳には入れておけ」
「えぇー……」
「渋るな。どのみち、従業員を守るのは店長の仕事のうちだろ」
 蒼生がぴしゃりと言った。
「それはそうだけど……」
 遥真はなかなか首を縦に振らない。数年ぶりの再会をした幸成に、再会早々厄介だと思われたくはなかったし、心配もかけたくはなかった。家庭教師として勉強を見て貰っている最中も、大事な模試の日に限って大きな電車遅延が発生し、幸成の車で会場へ連れて行って貰ったり、不審者に遭遇した時に助けて貰ったりと、既に色々と迷惑をかけてきている。あの時は遥真も中学生だったが、もう大学生で大人である。それに何度も言うかが、和解は成立しているのだ。大丈夫だと信じたい。
 遥真がはっきりとした返事をしないままいると、店員によってエビドリアとミートソースパスタが蒼生の前に運ばれた。
「……細いくせによく入るよね」
「まぁ、人の金だしな」
「え、もしかして僕の奢り?今、まさにピンチだからアルバイトの面接行ってきたのに!」
 信じられない、と遥真は目を丸くして蒼生に食ってかかると、蒼生は「違う」と直ぐに訂正した。
「後で兼彦に請求するんだよ。あいつは昨日、寄りによって新品のニットを標準コースで洗濯しやがった。わざわざ別日にやろうと避けてたのにっ!お陰で縮んで着れたもんじゃない。思い出しただけでも腹が立つ」
 蒼生は大きな溜息を吐くと、ミートソースの皿にフォークを刺し、器用にくるくると一口サイズにパスタを巻き取った。遥真は自分に請求が来ないことに胸を撫で下ろし、続けて運ばれてきた自分のハンバーグステーキにナイフを入れた。
「でも、兼彦に悪気は無かったんでしょ」
「あいつはさ、洗濯機に何でもブチ込めば良いって思ってるんだよ。アイロンもろくにかけないしな」
 蒼生はここぞとばかりに兼彦への愚痴を漏らす。すると、遥真が「あっ」と声を漏らした。
「お前だって料理の時は冷蔵庫にあるものを鍋にブチ込めば良いと思っているだろうが」
「ゲ……」
 呆れ気味に溜息を吐いた兼彦が蒼生の背後に立っていた。他の客と重なって入店してきたようで、遥真も近くに来るまでまったく気が付かなかった。
「兼彦、来てくれたの?」
「残念会だって聞いたからな」
 兼彦はそう言うと、蒼生に顎で席を詰めるよう言って隣に腰を下ろす。
「残念会って蒼生ねぇ……」
 遥真がジト目を蒼生に向けるが、全く気にしないままミートソースを頬張っていた。
「決まったんだ、次のバイト先。兼彦が見つけてくれたとこだよ」
「そうか。良かったな」
 遥真がメニューブックを兼彦に手渡すと、兼彦は既に食べたい物が決まっていたようで、メニューはチラリと確認しただけですぐに閉じ、メニューブックを蒼生に渡しながら店員の呼び出しボタンを押すように言った。
 ピンポン、という呼び出し音が響くと、兼彦は店員が来る前に口を開いた。
「で、ちゃんと店長に例の件は話してあるんだろうな?」
 兼彦が遥真の方を見て言った。
「……またその話?」
「ほらな。お前が甘いんだよ」
 うんざりする遥真に、勝ち誇った顔で蒼生がニヤリと笑う。すると丁度、兼彦の注文を取りに店員がやって来たのだった。