好きを自覚してからの生活は、幸せと不安が一緒に大きくなるばかりだった。恋は盲目とは上手く言ったもので、自分も見て見ぬふりをして、幸せな部分に浸っていただけかもしれない。一緒に見たテレビ番組や、一緒に食べたもの。自分のために幸成が用意してくれたものや、毎日の送迎。全部不運なことが極端に多い同居人に気を遣っているだけかもしれないと思えばそれまでだ。晃満の言葉が頭の中でリフレインし、胸が締め付けられていく。同時に優しい大人は幸成以外にだって思い浮かんだ。落合夫婦や旭、バーの先輩スタッフ。そして晃満もその中に含まれる。彼らと同じように遥真を心配し、手を差し伸べることが幸成にとって自然で、普通の事だったのかもしれない。考えれば考えるだけ自信がなくなっていく。その一方で、確かに幸せな時間も過ごせている実感はあるのに、不安が全てを押し込んでしまい、喉に何かがつっかえているような気がして気持ち悪い。遥真は小さな溜息を吐き、大学の最寄り駅へと足を運んだ。
 あ、あれか。蒼生が言ってたやつ……。
 通りの向かいに目新しいスイーツ店が見えた。つい最近オープンしたようだったが、幸成の家に転がり込んでからは、車での送迎に甘えっ放しで、前を通るのは初めてだった。平日の昼間だというのに、店外には列が出来き、店内は忙しなく動く店員とショーケースに並んだ鮮やかなフルーツが乗ったタルトが目に入った。食べてみたいと騒ぐ蒼生に、以前空き時間に買いに行けば良いと提案したことがあったが、これはかなり厳しそうだ。
 落ち着いた頃に誘ってみようかな……。
 遥真は通り過ぎながら目を擦った。ぐずぐずになった鼻を啜り、小さく息を吐く。
 蒼生や兼彦の後押しを信じたい気持ちは大いにある。だが、一方で幸成が年の離れた同性に興味があるかずっと不安だった。それでも自分に構う幸成に期待をしていた。だが、第三者に強く言われただけで自信がどんどん消えていく。心のどこかで自分が彼を信用していなかったのかもしれない。自分が情けない。好きだと言って相手の行為を信じられないなんて、そんな相手から好きだと言われて誰が嬉しいのだろうか。
 僕なしで生きていけない、なんて……やっぱり冗談だよなぁ。
 ハンバーグを頬張る幸成を思い出し、遥真は力なく笑う。あれも、彼が出来ない事をたまたま自分がやれたというだけだ。あの言葉に特別な意味なんてないだろう。ハウスキーパーの松田さんか自分か、という些細な違いだ。晃満の話を聞いてからは尚のことそう思ってしまう。今更ながら幸成の言動に一喜一憂していた事に遥真は胸を痛めた。


 マンションには昼過ぎに到着した。一人では滅多に使わない鍵をあける。玄関にはまだ幸成の靴が残っていたが、家の中はしんとしていた。靴を脱ぎながらスマホで時間を確認すると、松田が来るにはまだ早い時間帯だった。今日は昼過ぎからお願いしていて、掃除と夕飯の準備を依頼している。リビングからも音がしないため、きっと幸成はまだ寝ているのだろう。遥真は音を立てないよう静かに廊下を進む。しかし、自室のドアノブに手を掛けたと同時に、幸成が寝室から顔を出した。
「……え、遥真くん?」
 まだ部屋着姿の幸成が目を丸くして立っている。慌てて部屋の中の時計を確認している様子は、いつものスマートな幸成からは想像出来ず、遥真は思わず吹き出した。
「えっと、すみません。ちょっと、色々あって帰って来ちゃいました」
「色々って……えぇ、言ってくれれば迎えに行ったのに」
 寝癖でボサボサな頭を掻きながら幸成が申し訳なさそうに言った。
「良いんです。昨日も帰りが遅かったじゃないですか」
 遥真は眉を寄せて首を振る。昨日は酔っ払って眠ってしまった客がいて、なかなか帰宅出来なかったらしい。シフトの入っていなかった遥真でさえ、いつもより二時間以上遅めの帰宅に大変さを感じていた。
 遥真の優しさに思わず幸成の目が細くなり、頬が緩む。しかし、その視線がぴたりと遥真の目を捉えて止まった。
「……遥真くん、目赤くない?」
 幸成は屈んで遥真の頬に手を伸ばす。大した涙の量でもなかったため、赤くなるのは想定外だった。
「なんでもないです。ちょっとゴミが入っただけで」
 遥真の返しに幸成の眉がぴくりと動いた。
「嘘は良くないよ。涙の跡がある」
 頬に触れた指の腹が、その涙の跡を優しくなぞる。触られた箇所が熱を帯びた。
「何でもなかったら君は泣かないでしょ」
「でも、その……大したことはなくて……」
「良いから、話してごらん?」
 幸成は遥真の目をじっと見つめて言った。優しい低い声とその目に心臓がドクンと鳴る。だんだんと身体中に熱が込み上がるのを感じ、遥真は視線を逸らした。
「……幸成さん、支度は良いんですか……?」
「大丈夫。今日は遥真くんと同じ時間に出勤するよ」
「それは旭さんが困っちゃいます」
「連絡すれば大丈夫だよ。開店前だし、辰巳くんもいるから人員も足りる。うちには出来るスタッフしか居ないから」
 幸成がにこりと笑って言った。
「でも……」
 まだ言い渋る遥真に、幸成は溜息を吐いた。
「……あのね、俺は大事な子が泣いてるのに放って置けるほど気が長くないよ」
 その一言に、遥真はもう一度幸成の顔をしっかりと見た。促すように首を傾げたその優しい表情に、ふっと気が緩み、遥真の瞳から涙が溢れ落ちた。
 遥真はポロポロと涙を落としながら、静かに嗚咽を漏らす。落ち着くまで幸成は、体勢を変えず、じっと待っていた。
 数分後、遥真はゆっくりと息を吐くと口を開いた。
「……従兄弟に会って、色々と言われたんです。僕のことを心配で言っていたのは分かるんですけど、一番気にしていた所をグサって……」
「従兄弟って……あぁ、あの過保護な彼か……。彼のことだから、俺のことを怪しいやつだからさっさと離れろとでも言ったんだろう?」
 幸成の言ったことはほぼ正解だったが、遥真は頷かず、鼻を啜りながら「全然、怪しくないですっ」と、きっぱり言い返した。その返しに幸成は眉をハの字に寄せて笑うと、立ち上がって遥真の頭を優しく撫でながら言った。
「でも、そう言われても仕方ないかもしれないね」
「……え?」
 遥真が幸成を見上げる。幸成は優しく目を細めると遥真の手を握った。
「俺ね……君と離れていた時、ずっと、君の事を考えていたから」
 幸成の突然の告白に遥真の心臓がばくんと跳ねる。耳の中でドクドクと心音が響き、その音がどんどん加速していく。
「え、あの……えっと……」
 幸成は赤くなって戸惑う遥真に静かに微笑むと、腕時計で時間を確認した。 
「少し、付き合ってくれる?」
 遥真は頬を染めたままゆっくりと頷く。心臓はまだ騒がしい。幸成の腕時計をチラリと見ると、時間はまだ旭に連絡するには余裕があった。
 幸成に促され、遥真はリビングのソファーに腰掛けた。少し離れて幸成も座ると、その距離がなんだか寂しく思えて、遥真は座り直す振りをしてほんの数センチ近付いた。
「初めて会った時、中学生だったよね」
 遥真は静かに頷いた。母の依頼で幸成が家庭教師を引き受けた時のことだった。
「最初は家族思いで、頑張り屋な君の話を聞いた時、大人として応援してあげようって思って家庭教師を引き受けたんだ。まぁ、決定打になったのは、模試当日に電車が遅延した上に降りた駅で迷子に遭遇して交番に連れていくことになったのに、遥真くん自身も道に迷っちゃって、結局試験開始に間に合わなくてちゃんとした判定を貰えなかった、って話を聞いてね……。余計に放っておけなくなってさ」
 幸成がくすくすと思い出し笑いをしている横で、遥真は顔をほんのり赤らめ苦笑いをした。
「……お恥ずかしい話です……」
「ふふふ。まぁ、君らしいじゃない」
 そう言って微笑みながら幸成は遥真の背中を優しく撫でると、話を続けた。
「受験勉強を真面目にするのなんて、よくある話だけどさ、遥真くんって、楽しそうに取り組む子だなぁって。出来る事が増えた時の喜び方とか嬉しそうに笑った顔がすごく眩しく見えてね。まぁ、あの頃も俺は社会人だったし、中学生の君はそう見えて仕方ないんだけど、それ以上に、一緒にいるとなんだかホッとして、温かくなったんだ。それにね、君の頑張る姿に自分も頑張ろうと思えたんだよ。だから、不思議な力がある子だなぁって」
「そんな、大袈裟ですよ。幸成さんだって真面目だし……」
 謙遜する遥真に、幸成は首を振る。
「俺が真面目かどうかは分からないけど……あの時、迷っていた事があってさ。ほら、自分で言うのもなんだけど、俺ってなんだかんだで色々上手くやれちゃうタイプでね。入社してすぐに昇級してさ、難癖付けられまくって会社には敵ばっかりいたんだよ」
 容易に想像がつく光景に、遥真は思わず苦笑いを浮かべた。
「そんな時に海外事業所に異動って言われて……お払い箱なのか栄転なのか分からなくて人間関係にイライラしていたんだ。決断するのに時間までくれるからさ、待ってくれてるのが良い意味なのか、悪い意味なのか変な所ばかりを気にしてね。今考えたら栄転の一択だろう?結果を出しただけだったっていうのに」
「それに幸成さんが仕事が出来ないはずないじゃないですか」
 遥真が頷きながら答えた。昔の彼を思い出してもそうはっきりと言える自信があった。当時も、複雑な応用問題の簡単な考え方や、覚え方を教えるのが上手く、遥真の成績は下がる事なく徐々に右肩上がりになっていた。あれはどう考えても幸成の助言のおかげである。彼に会わなければ、考え方一つ思い浮かばなかった問題もあった。きっと人を先導するのが上手いのだろう。そんな人が上に立つ人間に選ばれるのは当然だと、遥真は力説した。
「ふふ、ありがとう。今みたいに当時も君に言われていたらすぐに腑に落ちていたのかもな。でも、君の楽しそうに頑張る姿に後押しされて海外赴任を決めたのは事実。ただ、上に話をした時期が悪くてね、合格発表まで一緒に入れなかったのは唯一の心残りだった」
 そう言って幸成は再び遥真の頭に手を伸ばす。
「だからずっと遥真くんのこと海外に行っても気になってたんだ。あれだけ不運が重なっちゃう子、滅多にいないしね」
「そ、それは……」
「合格したけど勉強ついていけなったらとか、真面目な良い子だから、悪い友達にいじめられてないかとか色々心配だったよ」
「その割には連絡先変えましたよね……」
 遥真が唇を尖らせる。合格発表の結果をメールで連絡し、おめでとうの返信が来たと思えばそれっきりだった。連絡先も変わり、送ったメッセージがエラーメッセージで返ってきた時のショックは今でも忘れられない。
「痛いとこつくなぁ……」
 幸成が苦笑いをする。
「……一線引かないといけないって思ったんだよ」
「僕の連絡が仕事の邪魔になったのかって思ってたのに……」
 不貞腐れ気味に答える遥真に、幸成はくすりと笑って首を振った。
「そうじゃないよ。家庭教師を務めたとはいえ、俺はその時もう社会人だからね……。君が気になる、なんて気軽に言ったらダメだと思った。自分から望んじゃダメだと思ったんだよ。だから距離を取ったんだ。でも、ちゃんと話せば良かったよね……。黙って去ったのは今も後悔してる。忙しいを理由にしたのは社会人として大人として狡かった。本当に……ごめんね」
 幸成の声が一瞬だけ震えたように聞こえ、遥真はその顔を覗き込んだ。目が合うと、胸の高鳴りは一層強くなり、身体中がじわりと熱くなる。目が潤み、前が霞む。その雫が溢れないよう遥真は頭を横に振り、幸成を見上げた。
「海外でお仕事なんて……考えただけで忙しいですし、仕方ないです」
 今度は幸成が首を振る。
「本当、あの頃は容量が悪かったよ……。着任してすぐに文字通り忙しなくなってしまってね。もっと昇級していけるとこまでいく勢いだったんだけど、結構無茶苦茶な生活してて、帰っても寝るのがやっとだった。そんなんだから一時帰国した時に大学の同期会で再会した旭が、息つく暇もないなら、一緒に店開かないかって誘ってくれてね。だから思い切って辞めたんだ。それに、日本にいれば、君に偶然出会えるかもって思ってね」
 そう言って幸成は遥真の頭を再び撫でた。
「でもまさかだったよ、アルバイト面接に遥真くんが来くれたのは……。正直、本当に会えるとは思ってなかったんだ。忘れられてるかもって思っていたし、突然突き放すように消えたのはこっちだし……。なのに、君ってば覚えててくれてるからさ……」
 幸成は目を細め、嬉しそうに言う。
「忘れるなんて……そんなこと、あるわけないじゃないですかっ」
 少しムッとした言い方で遥真が答えると、幸成は一瞬目を丸くして直ぐにくすりと笑った。
「ありがとう、忘れないでいてくれて」
 遥真は奥歯を噛み締めた。彼のことを忘れた事など一度もなかった。当時もずっと憧れていた。頭も良くて優しくて、頼りになる素敵な人だと思っていた。それに、こんな大人が身近にいてくれるのが、すごく頼もしかった。その気持ちは今も変わりない。変わったのはそこに、別の特別厄介な感情が乗っかってしまった事だけだった。
 さっきまで遥真の中で溢れていた不安な感情はとっくに薄れ、かわりに心臓部がやたらと騒がしい。あの頃は、ただでさえ忙しい幸成に無理を言って勉強を見てもらっていた負い目があった。そのせいで連絡手段も断たれてしまったのだとばかり思っていた。幸成の性格上、相手を傷つけないように時間をかけて離れていったのだと。だが、蓋を開ければ全く別の答えがそこに埋まっていたことに嬉しさが込み上げてくる。自分に都合の良い夢を見ているのではないかと思い、遥真は幸成を見上げながら自分の頬をつねった。
「……い、いひゃい……」
「え、なんでそうなるの?」
「だって……優しくて、誠実で一緒にいると安心できて、こんな僕にも凄く良くしてくれて……それだけでも十分過ぎるのにっ……。僕の……僕の耳が、都合良く解釈しているのかもしれないですけど、話を聞いているとどうしても幸成さんが……ぼ、僕のことを……」
 遥真が続きを口にしようとして躊躇うと、その肩を幸成が抱き寄せた。
「……こんな僕に、じゃない。遥真くんだから、だよ」
 耳元を掠める低音に、思わず遥真の息が止まった。
「さっき言ったよね、大事な子だって……。遥真くん、俺はね……君が思っている以上に君が好きだよ」
 そう言って幸成は遥真を強く抱きしめた。彼の胸元からも自分と同じ速度で脈を打つ心音が聞こえ、遥真は顔が急に熱くなるのを感じた。
「……そ、そんなこと言われたら、ほ、本気にしちゃいますっ」
「本気にしてくれないと困るよ……。手放す気、全然無いけどね」
「……その言い方、狡いです……」
「ふふ、狡くてごめんね」
 鼻腔がつうんと痛み、嬉しさと嗚咽が込み上げる。胸がいっぱいになり、どんどん溢れてきた。
「……こんな年下で、不運ばっかり背負ったグスでドジで頼りない男でも……幸成さんの隣にいて、良いんでしょうか……?」
 出て来る言葉は情けない。嬉しいのに苦しくて、こんな自分が幸成に釣り合うのかと、面倒な事ばかりが頭に浮かぶ。でも、幸成を離したくはなくて、縋るように背中へと腕を回した。
「……君が頼りない訳ないでしょ。中学生の時に大人の後押しできちゃってるんだから。もっと自信持って良いんだよ」
 耳朶に優しい低音が触れ、くすぐったい。遥真の肩が上がったのを感じ、幸成は静かに笑った。
「それにご飯も作れて、洗濯もできるじゃない。俺にできない事をやれる時点で凄いんだから」
「……あれは幸成さんがやれなさ過ぎるんです」
 遥真が笑って言い返すと、幸成は嬉しそうに自分の唇を遥真の頬に落とした。
「……幻滅した?」
「いいえ。でも、もう少し頑張れたら……とは思いますよ」
「えー」
 子供っぽく膨れる幸成に、遥真は静かに微笑む。甘い雰囲気から一変して見えた幸成の可愛いさに胸が高鳴った。
「……じゃあ、遥真くんにゆっくり教わろうかな」
 再び幸成の低音が遥真の耳元で響く。微かに触れる吐息が熱くて、思わず遥真は肩を揺らした。
「そうなると、やっぱりドジぐらい踏んでくれないと割に合わないよ。まぁ、そうじゃなくても、俺はもう遥真くん無しじゃ生きていけないって……前にも言ったよね?」
 更に抱きしめられ、肩口に息が当たる。大きな身体の熱が直接伝わるのが嬉しくて、遥真は額を擦り付けた。
「それにあんなことがあった以上、君のそばをもう離れたくないし、もうあんな思いはさせたくない」
「僕だって……幸成さんがいない未来を考えたくないです」
 小さな声が微かに震えた。幸成が顔を上げ、身体を少し離す。顔を赤く染めた遥真が幸成の顔を見上げた。手に届かない人だと思っていた想い人が、自分を愛おしそうに見つめている。遥真の心臓が更に音を立てて鳴り出すのも束の間、幸成は遥真に触れるだけのキスを落とした。
「……好きだよ、遥真くん」
「……僕も、好きです……幸成さん……」
 見つめ合って、また唇が重なった。こんなに多幸感のあるキスは初めてで、遥真の目からまた涙が溢れる。もう一度、とせがむように唇を這わせると、幸成は答えるように深く口付けた。
「んん……」
 くぐもった息が漏れ、身体中に熱が込み上げる。幸成の手のひらが遥真の後頭部を優しく撫でるたびに、背中に電気が走ったような感覚がした。
「幸、成さ……」
「ん、なぁに」
 苦しいのにやめられないキスに瞳が溶けていく。もう一度二人の距離が縮まろうとした時、テーブルに置かれていたままの幸成のスマホがタイミング悪く鳴り出した。
「……あー……そうだ、忘れてた」
 幸成は画面を見ずに言った。リビングの時計を見ると、時刻は幸成の出勤十分前だった。
「……ごめん、出るね」
 幸成は深いため息を遥真の肩口で吐き、スマホを手に取ると、名残り惜しそうに遥真の額にキスをして通話ボタンを押した。その後ろ姿を見上げるだけで、遥真の心臓はまだ煩く騒ぎ出し、思わず胸元をぎゅっと掴んだ。
「……え、買出し?わかったよ、リスト送って。じゃあ、ついでに遥真くんも連れて向かうから」
 幸成の話す内容からして、やはり相手は旭だろう。どうやら遥真のシフトを前倒しする話まで付けているようだった。
 通話を終えた幸成は、遥真に向き直ると、もう一度遥真を抱きしめた。
「……あの、幸成さん……。行かなくて良いんですか……?」
 すると幸成は今日一番の深いため息を吐いた。
「全然行きたくないんだけど……。買出しも頼まれちゃったから、行かないと。遥真くんも一緒に出勤しちゃおう。またここに迎えに戻ってくると、仕事に戻れなくなりそうだし」
 幸成は目を細め、悪戯な笑みを浮かべた。その表情に心臓が高鳴り、遥真は目を泳がせる。
「続きは帰ってから……ね?」
 そう言って幸成は触れるだけのキスを落とすと、遥真の手を取って「行こうか」と優しく微笑んだ。




「うーわ、嫌味なぐらい金持ちが住む部屋だな」
 リビングを見るなり、蒼生が嫌味ったらしく言った。その後ろで兼彦も感嘆の声を漏らす。学生が暮らすアパートと比べるものではないのは分かっていても、実感すると口に出てしまうものはある。
「蒼生、それ全然褒めてないでしょ」
「羨ましいって意味だよ。まぁ、その辺に置いてあるポメ郎さえいなければな」
 蒼生はソファーの上に鎮座しているポメ郎のマスコットを指で突く。とうとうリビングにまで置かれることになったこのマスコットは、ついこの前、幸成がゲームセンターで小銭をたんまりと費やしてやっとこ獲得した景品だった。金色の帽子を被っているものはSNSでも人気らしい。幸成曰く、金運の向上ポメ郎らしいが、手に入れるまでの金額を知った遥真の中では、その説はとっくに崩れている。
「それで、なんで俺まで……あぁ、これ。お前に、土産だからなっ」
 渋々と靴を脱ぎながら晃満がぼやいた。嫌々言いながら靴を丁寧に揃え、遥真に手土産まで手渡すあたりにツボった蒼生はくすくすと笑出す。
「遥真に散々言ったんだ。せめてお前は納得して帰るべきだろ」
 ぶつぶつと文句を言う晃満に兼彦が言う。その視線の先は横で笑っている蒼生に向けられ、呆れ気味に溜息を吐いた。
「そうだよ。幸成さんも言われっぱなしは癪だって言ってたよ。僕だってまだ怒ってるんだからねっ」
「それは……その、悪かったよ……。で、でも、俺はアイツに何か言った覚えなんて」
「遥真に言ってたのはほとんど最上さんへの中傷だろ」
 兼彦が呆れ口調で口を挟む。
「晃満、言い逃げはダメだぞ?遥真はお前が居なくても、最上さんといるだけでこぉんな良い暮らしが出来ているんだ。どうだ、悔しいか?」
 さっきまでケラケラと笑っていた蒼生が晃満を煽り出す。すると見兼ねた兼彦が蒼生の腕を引き、二人の間に滑り込むと「晃満、相手にするやつが違う」 と言った。それもそうかと兼彦の言葉に頷いた晃満は、遥真に促されてソファーに腰掛けた。
「二人も座ってて。今、飲み物出すから」
「手伝うよ」
「ううん、大丈夫。それにそこの二人の間には誰かいないと……ね?」
 相手にされなかったのが面白くなかったのか、蒼生は晃満にまた何か茶々を入れているようで、遥真は苦笑いで兼彦の申し出を断った。


「やぁ、みんな。よく来てくれたね」
 片手にいつものドーナツと桃色の目新しい箱を持った幸成が帰宅し、にこりと全員に微笑んだ。
「遥真くん、これでポイント全部貯まったよ。近いうちに交換しに行こう」
 遥真に箱を二つ手渡しながら幸成はポイントの貯まったカードを手渡した。
「もう貯めたんですか?」
「ウン。辰巳くんが肥えちゃったけどね」
「あー……あはは、辰巳さんにも御礼言わないとですね」
 苦笑いをしながら、遥真は頭の中に浮かべた辰巳に謝った。差し入れと言われれば文句を言いつつも有り難く頂戴していた辰巳は、ここ最近で丸みが増えた。当初は幸せ太りかと勝手に考えていたのだが、理由は店長だと聞いて遥真も思わず絶句したのを覚えている。山村に指摘されてからはなるべく遠慮をしてはいたものの、給料日前の先週は背に腹はかえられぬと言って進んでドーナツ生活をしたらしい。
「あっ、その店って!」
 桃色の箱を見た蒼生はソファーから立ち上がるとカウンターの方へやって来る。
「あ、これ。蒼生、気になってたよね。幸成さんに言ったら、寄ってきてくれたみたい」
 箱の蓋を開け、遥真が言った。中には、綺麗なタルトが数種類並んでおり、蒼生は目を輝かせる。
「晃満、やっぱり最上さんにお前が勝てる要素は微塵もないな!」
「お前、本ッ当に腹立つな」
 舌打ちを交え、晃満が言い返す。すると、幸成と目が合い、鋭い目付きに眉が寄る。
「腹が立つといえば……ええと、晃満くん。君と話したくて今日は招待したんだ。ごめんね、急で」
「あぁ、まったくだ。お陰で明日の朝イチの便に変更しなくちゃならなかった」
 晃満は溜息を吐き、仕方なく残ってやったと恩着せがましく答えた。
「別に今すぐ帰っても良いと思うぞ」
「蒼生」
 話の腰を折り続ける蒼生に、遥真と兼彦は同時に声を上げた。
「ま、さっきも言ったが言い逃げは良くない。ちゃんと返り討ちに合うまでが当て馬の役割だしな」
 険しい顔の二人に嗜められたと言うのに、蒼生は言い足りないのか更に晃満を煽った。
「誰が当て馬だよ!それで。話って?」
「まぁ、うん……俺からのお願いかな」
「……喧嘩なら買うぞ」
 眉間の皺を更に深くしながら晃満が答えた。
「そんな怖い顔しなくて大丈夫だよ。俺の悪口ならともかく、俺を選んでくれた遥真くんまで文句を言われるのにはちょっとだけイラっとはしたけど……。君とは喧嘩はしない」
「……じゃあ、なんだよ」
 幸成の物言いに晃満が露骨に不機嫌な顔をしたが、すかさず身構えた。一瞬見えた幸成の本音に、思わず晃満も背筋に何かを感じ、座り直す。幸成は遥真の手を引いてソファーへと移動し、遥真をソファーに座らせると、晃満に向かい合うようカーペットの上に腰掛けた。
「単刀直入に言うと……遥真くんのことは俺に任せて欲しいんだ」
「……は」
 晃満は何か言いかけたが、幸成のすぐそばで真剣な顔で頷く遥真を横目に見て黙り込む。先日も自分のお節介のせいで、大事な弟を泣かせたのだ、同じ道は踏みたくはない。
「確かに、年の差や色々言いたい事は分かるよ。君の大事な弟だろうし、俺も同じ立場なら君と同じ事を言っていたと思う。でも、学生と言えど遥真くんはもう成人した大人だ。彼の考えや気持ちも尊重してほしい」
 幸成の言葉に晃満は少し間を空けると、険しい顔を向けた。
「……アンタ、一度こいつの前からいなくなったろ」
「……うん。それは間違いない。そうしないといけないと思ったからね。あの時は線引きが必要だったんだ。でも、今回は違う。遥真くんから離れるつもりは一ミリもない。誓っても良い。俺がこれから先の人生で、幸せにしたいと思っている人は遥真くんだけだから」
 幸成のその発言に、遥真は目を見開くと、みるみるうちに顔を赤く染め上げて下を向いた。その様子にニヤニヤと蒼生と兼彦が笑っていたが、どことなくそれが嬉しそうに見え、晃満は深い溜息を吐いた。
「……まぁ、その、遥真が良いと思った相手だからな……。俺ももうこれ以上は何も言わねえよ。だがな、アンタがその誓いを破った時は覚悟しとけ。二度と会わせないように引き離すからな」
 晃満の渋々と絞り出すような返しに兼彦がやれやれと眉を上げた。
 幸成は晃満の目を見ながらゆっくりと頷いた。
「約束するよ、絶対破らないって」
 幸成は静かに立ち上がると、遥真の手を握った。
「幸成さん……」
「ふふふ、みんなの前で照れちゃったかな」
「もう、心臓に悪いですよ……!」
 眉を寄せ、頬を膨らませた遥真に幸成は優しく微笑んだ。小さな声で「……嫌だった?」と尋ねると、遥真は首を振り、赤くなった顔を綻ばせて「嬉しかったです……」と答える。甘い空気が二人を包み始めたところで、蒼生が咳払いを一つ入れた。
「盛り上がっているところ悪いけどな……俺はこのタルトを食べない限りは帰らないぞ」
「ふふ、勿論だよ」
 ジト目を向けられても幸成はにこやかに答えた。
「ご、ごめんね!今、コーヒー淹れ直すからっ」
 恥ずかしさと流石に悪いと思った遥真はソファーから立ち上がるとキッチンへ駆けていく。その後ろタルトを一番に選ばせろと言いながら蒼生が追いかけて行く。
「ったく……。蒼生、せめて取り分けの手伝いぐらいしろよ」
 タルトの入った箱に一直線だった蒼生を見兼ねて、兼彦が腰を上げた。キッチンへ入り、新しいコーヒーをフィルターにセットする遥真の横で取り皿を出し始めている。
「……晃満くん」
 幸成が静かに口を開いた。
「……なんだよ」
 恐る恐る聞き返す晃満に、思わず幸成は吹き出した。その反応に晃満の鼻がぴくりと動く。
「たまには遊びにおいでね」
「……二度と来るかよっ」
 舌打ちをする晃満に、幸成は再び笑い出す。その様子をキッチンのカウンターから見ていた遥真は不思議そうに首を傾げた。
「あれ、知らぬ間に仲良くなっちゃった……?」
 的外れなことを言い、蒼生が笑いながら「まさか」と首を振る。
「本当、おめでたいやつだよ。でもまぁ、良かったんじゃないの?ある意味おめでたくて」
 な?と、蒼生は取り皿にタルトをのせていく兼彦に尋ねると、兼彦も静かに頷いた。
「そうだな……。あの人が側に居れば、付き纏いも、長年の片想いも近寄れなくなるからな」
「え?」
 何の話か全く見えていない遥真に、二人は小さな溜息を吐いた。