最後の客を見送った遥真は、ついでに暖簾を仕舞い込んだ。紺色の布に、白い文字で「おちあい」と店名が書かれた暖簾を店内へ戻し、代わりに準備中という札を入口に引っ掛けた。駅前から少し離れた場所に在るこの店は、近所の大学生や会社帰りのサラリーマンから支持を得ているラーメン屋で、遥真は大学に入ってからアルバイト先として世話になっていた。
「神保くん、今日もお疲れ。洗い物からお願いね」
「はーい」
店長の落合が声をかけると、遥真は返事と共に洗い場へ入った。いつもより客入りが少なかったため、シンクにはつい先程退店した客の器とレンゲだけが残っていた。
「店長、これ洗ったらゴミ捨て行きますね」
「ゴミはいつものとこにまとめてあるから」
店長婦人の友理恵が、カウンターを布巾で拭き上げながら言った。
「了解です」
遥真は返事をしながら器に付いた泡を流す。基本的にアルバイト一人と店長夫婦の少人数で回すため、開店準備と閉店作業は連携が大事だ。遥真ももう間も無く勤続三年目となり、仕事中の視野も広がってかなりの戦力になっていた。三年生にもなれば就活も始まり、面接ではアルバイト経験で培った状況判断力などを上手くアピールできるのではないかと、そんな風に思い始めた頃だった。
「えっ、閉店?」
片付けとレジ締めが終わった後、頭に巻いていた手拭いを取った遥真をカウンターの席に座らせると、店長の落合は渋い顔をして言った。
「いや、店はなくならない。正しくは移転かな。ここの裏の空き地、整地始まったろう?マンション建てることになって、ここも譲って欲しいって言われてな」
ごめん、と付け加えて落合は言った。確かに数ヶ月前から、重機や人が出入りするようになったのを遥真も見ていた。
「それで、売っちゃったんですか……?」
「まぁ、思い入れもあったんだけどね……。そもそもここは借地だからな。でも、マンション側が移転開業費用を出してくれるっていう条件くれたんだよ」
「そう、なんですか」
遥真は気の抜けた声を漏らした。移店となればまだ自分もそこへ通うだけだと、そう思って胸を撫で下ろす。
「ちなみに移転先って、どこなんです?」
遥真の問いに友理恵の眉がハの字に曲がり、続けて落合の顔も気まずそうな表情に変わった。
「……店長?」
なかなか口を開かない二人の様子に、遥真は不安を覚えた。嫌な予感がし、ゴクリと唾を飲み込む。
「移転先ね、ここからだと遠いのよ」
先に口を開いたのは友理恵だった。
「遠いって、どれくらいですか?電車一本なら検討出来きますけど」
乗り換えさえなければ、講義終わりが無理でも休みの日なら通えるだろうと、遥真は言った。しかし、落合は首を横に振る。
「それが、県を跨ぐんだ」
「えっ……」
思っていた以上の距離を告げられ、遥真は固まった。
「私の実家の方なの。費用があちら持ちなら……って。最近、父の具合も良くないって聞くから」
友理恵は申し訳なさそうに答えた。遥真は、友理恵が夏頃から実家に度々帰省しているのを思い出した。
「それは……。心配ですもんね」
ぽろりと出た言葉は本心で、遥真は眉をハの字に寄せて笑う。家元を離れ、上京している身としては友理恵の気持ちは分からないでもない。
「神保くん、本当に申し訳ない。たくさんシフトに入ってくれて、真面目に勤めてくれたというのに……」
落合が勢いよく頭を下げた。もう直ぐ三年目の遥真は、ここに勤める学生アルバイトの中でもベテランと呼べるほどシフトに貢献していた。落合も遥真がアルバイト代を生活費にしていることは知っていたため、本人に告げるのが忍びなかったのだろう。
「そんな、やめてください。お世話になっているのはこちらなんですから」
「でも……」
遥真は心苦しそうに頭を下げる落合にそう言うと、再び微笑んだ。
「僕のことなら心配しなくて大丈夫です。丁度、知り合いから掛け持ちバイトを誘われていたところでしたし」
ね、だから平気です。と遥真が言うと、落合はゆっくり顔を上げた。
「本当か?」
「はい。だから大丈夫です!あ、でも……。あっちには待ってくれるように伝えてしまっているので、ここが閉まるまではここをメインに働きたいなぁって思っているんですけど……」
遥真が恐る恐る尋ねると、落合と友理恵は顔を見合わせて「もちろん。よろしく頼むね」と、声を揃えて答えたのだった。
「とんだお人好しだな。せめて最後は割増しで時給踏んだくれば良かっただろ」
学生食堂で向かいに座った江原兼彦は遥真の方を一瞥もせず、呆れ口調で言った。視線の先はノートパソコンの画面から全く動かず、眉間に寄った皺は一層深くなるばかりで、手元には片手で食べられるサンドイッチが手付かずのまま置いてあった。
「そんなこと言えないよ……」
遥真は大きな溜息を吐いた。目の前の親子丼は一口食べてから進んでいない。
「ねぇ兼彦、新しいバイトの紹介とかない……?」
「無いな。そもそも俺は謝恩会の準備で忙しいから、バイトもほぼ休んでる」
「自分だって学校のために身を削りすぎじゃないか。そこまでするほどお世話になった先輩いるの?」
「いやまったく。だが、これが学生団体の仕事だからな」
真面目な顔できっぱりと兼彦は言い切った。その目の下にはくっきりと黒い隈ができており、遥真はやれやれとその疲れた顔を見て再び溜息を吐く。きっちりセットされた髪を見ると、自宅にはきちんと帰って風呂に入れているようだ。服も連日同じく服を着ている訳ではなさそうだし、生活は出来ているように見える。遥真と高校からの同級生である兼彦は、遥真の知っている人間の中でも一番と言って良いほど真面目で、時折り柔軟性に欠ける。人を頼るのが下手な性格と責任感の強さから、仕事を引き受けては身を削っていて、以前生徒会長として奔走して疲労で倒れたこともあるのだが、本人の教訓にはならなかったようだ。
「器用貧乏って損だよね、本当に」
「お前が言うな」
ようやく顔を上げたと思えば、兼彦は眉間を指で抑え、数度揉み上げた。
「少しぐらい休んだら?また倒れるよ」
遥真が心配そうに顔を覗き込む。顔色はやはり良いとは言えず、また倒れそうだと思った時だった。
「あぁ……。次は空き時間だから流石に仮眠を摂る」
煩いと言われそうで身構えていたが、兼彦はすんなりと答えた。
「やーっと見つけた!お前ら、ちゃんとスマホ見ろよ」
そう言って兼彦の隣にトレーを置いたのは、兼彦と同様に高校から一緒の千賀蒼生だった。遥真は言われてリュックのポケットに入れっぱなしになっていたスマホを思い出した。
「ごめん、しまい込んでた……って、充電ないし!」
「何してんだよ、まったく……」
蒼生は自分の鞄からモバイルバッテリーを取り出して遥真に渡す。その手首からは新しく買い替えたであろう香水がふわりと香った。
「ありがと。昨日、バイトから帰って充電しないままだったわ……」
遥真が文字通り肩を落とすと、その様子を見て蒼生は苦笑いをした。
「で、この辛気臭い空気はなんだ?もしかして……遥真、また変なのにまとわりつかれてるのか?」
蒼生は手を合わせてからトレーの上の味噌汁に手をつけた。昼食に選んだのは鯖の味噌煮定食。今日の日替わりだった。
「違う。ていうか、またってやめてよ」
遥真は蒼生にジト目を向ける。去年、グループワークで一緒になった女子学生に気に入られ、告白をされたまでは良かったのだが、遥真が交際を断ると、学内では勿論、アルバイト先や自宅付近まで付き纏われるようになってしまった。なんとか穏便に収めるために、蒼生や兼彦、そして彼女の友人達の協力を得て何とか解決に至ったのだ。数ヶ月に渡って続いたそのトラブルは、遥真の精神を抉り、体力的にも堪えた。
「違うのか。なら何があった?」
「バイトをクビになったんだと」
兼彦はそう言うと、パソコンを閉じてやっとサンドイッチに齧り付いた。
「はぁ?お前何したんだ?」
「別に何もしてないよ、ていうかクビじゃないし!でも、確かにバイト先は探さないといけないのは間違いなくて……」
遥真の声はどんどん尻切れのように萎んでいく。見兼ねた蒼生が溜息を吐くと、事情を聞いてきたので、遥真は兼彦にした説明をもう一度話した。
「……運が悪いのもここまで来ると奇跡だな。今度、パワースポット巡りにでも行くか?」
「それはありがたいんだけど、まずは生活費の確保が先だよ。移転まであと少しあるから、その間に次を見つけないと」
「そうは言うけどなぁ……。もう直ぐ三年だろ?新しいバイト先なんてそう見つかる訳ないだろうが」
蒼生がきっぱりと言った。これからゼミ活動や就職活動を開始する大学三年生を雇う所が少ないのは遥真も分かっていた。だが、そうは言っても生活がある。数日間は何とかなるだろうが、稼ぎがゼロになるのは避けなくてはならない。
「実家はやっぱり頼れないのか?」
「んー……そこはなるべく頼りたくないなぁ」
今度はスマホから視線を上げずに話す兼彦に、遥真は言葉を濁す。
「実家にはもう、学費貰ってるからさ。流石にそれ以上は……」
遥真は苦笑いで答えると、冷めた親子丼をもう一度食べ始めた。
幼い頃、両親が離婚した遥真は母親に引き取られ、女手一つで育てられた。母は仕事に追われて忙しくしていたが、遥真を第一に考える母親だったため、寂しい思いをする事は少なく、遥真自身もはっきりと「反抗期は殆どなかった」と言えるほど仲の良い親子だった。そんな母のため、高校は知り合いに家庭教師を頼み、殆ど自力で合格した。大学も同じように殆ど自力で合格を目指そうと思っていたが、遥真が高三に上がる頃に母は再婚を決めた。義父になった男性は、とても気さくで血の繋がりのない遥真にも良くしてくれる人だった。義父が進学の援助すると申し出てくれた事もあり、予備校は勿論のこと、大学の学費は彼の好意を受け取る事にした。最初は申し訳なさから全てを断ろうとしたが、義父の説得勝ちで今に至る。結果的には生活費は自分で何とかするという事で、遥真も合意したのだ。今更この形を崩す訳にもいかない。何より、再婚後に母は遥真の妹を出産していたため、実家には戻る訳にもいかなかった。
「だから、自分でもアパート近くを当たって見てるんだ。二人も、もし求人見掛けたら教えて欲しいんだけど……」
「まぁ、それぐらいなら協力してやるよ」
蒼生は「期待はするなよ」と一言添える。二人は遥真の家庭事情を高校の時から知っていたため、それ以上は何も言わなかった。
「で、お前はさっきから何してんだ?」
顔を上げないままの兼彦に、蒼生が嫌味っぽく尋ねると、黙ったままスマホに視線を落としていた兼彦が顔を上げた。むすっとした仏頂面を蒼生に見せると、テーブルにスマホを置き、遥真の方に差し出して画面を見るように言った。
「これ、お前のアパートの近所じゃないか?」
「え?」
遥真は箸を置いて兼彦のスマホを取り上げた。画面には求人アプリが開かれており、見慣れない店名とその求人内容が記載されていたが、住所は確かに遥真のアパートの最寄駅と同じだった。
「掲載はほんの数分前だった」
「へぇ、兼彦やるじゃん」
蒼生が兼彦の肩にもたれながら言うと、兼彦は鬱陶しそうに蒼生を離した。
「募集は二名までらしいぞ」
兼彦の言う通り、募集人数は二名。仕事内容は「接客。主にホール対応と清掃」と書いてあった。どんなお店かはまだ分かっては居なかったが、ラーメン屋での経験が活かせそうな仕事なのは間違いない。遥真は兼彦に「そのページ共有して」と頼むと、アプリを早速起動して応募ページへ進んでいった。
兼彦に勧められた店の面接は、応募した日の六日後だった。その間に、ラーメン屋の移転作業が少しずつ始まった。店長は遥真への報告を一番最後にしていたらしく、肩の荷が降りた途端に移転のお知らせを店の玄関口に貼り出した。閉店の日時は来月末。その貼り紙を目の当たりにした遥真は、そこまでに何とかせねばと気を引き締め、他にも何件かのバイト面接を受けてみた。しかし、結果は既に散々で、蒼生にはっきりと言われた通り、これから大学三年生になる学生ほどシフト貢献度が薄いという考えが濃かったように思える。ラーメン屋での実績を以ても受からないとなると、次の面接もきっと厳しいのだろう。話を聞いて直ぐに求人サイトを検索してくれた兼彦には悪いが、良い結果を持って帰れないかもしれない。遥真はすっかり自信を無くし、その面接当日の朝も度々大きな溜息を吐いた。気負っている姿が心配になった蒼生は、兼彦に無理矢理代弁を頼み、講義をサボって店の前まで着いてきた。
「終わったらそこのファミレスに来い。残念会ぐらいしてやるから」
「……まだ面接受けてもないのに」
「ならまずはその顔をどうにかしろ。見るからに貧乏神くさい。こんな空気纏われちゃ、誰も雇わねぇぞ」
蒼生は容赦なく言うと、遥真の背中をバシンと力一杯叩いた。
「痛っ!」
「ほら、気合い入れろ」
背中を摩る遥真に、蒼生は面接先の看板を顎で指した。その淡い紫から青に掛かるようなグラデーションの立看板には白の筆記体で「Blue hour」と書いてあった。その看板のすぐ近くに地下へ続く階段が見える。店舗はビルの地下にあるようだった。
「遥真の顔は俺の次に良いからな。バーのスタッフ、似合うはずだぞ」
「……俺の次にってのは、余計じゃない?」
遥真が口をへの字に曲げて言い返すと、蒼生はニヤリと笑う。目の前で綺麗な顔が悪そうな顔に変わる瞬間を目の当たりにし、自分で言うだけのことはあると、遥真は溜息混じりに納得した。
「言い返す余裕があるなら大丈夫だな。ま、当たって砕けろ」
「だから、なんでそうダメに一票入れるんだよ」
「だったら逆転して来い。底意地見せろよ」
蒼生はそう言うと、今度は遥真の背中を優しく押した。
「……分かった。終わったら、連絡する」
「おう」
蒼生の声を背中で受けると、遥真はゆっくり階段を降りて行った。
「神保くん、今日もお疲れ。洗い物からお願いね」
「はーい」
店長の落合が声をかけると、遥真は返事と共に洗い場へ入った。いつもより客入りが少なかったため、シンクにはつい先程退店した客の器とレンゲだけが残っていた。
「店長、これ洗ったらゴミ捨て行きますね」
「ゴミはいつものとこにまとめてあるから」
店長婦人の友理恵が、カウンターを布巾で拭き上げながら言った。
「了解です」
遥真は返事をしながら器に付いた泡を流す。基本的にアルバイト一人と店長夫婦の少人数で回すため、開店準備と閉店作業は連携が大事だ。遥真ももう間も無く勤続三年目となり、仕事中の視野も広がってかなりの戦力になっていた。三年生にもなれば就活も始まり、面接ではアルバイト経験で培った状況判断力などを上手くアピールできるのではないかと、そんな風に思い始めた頃だった。
「えっ、閉店?」
片付けとレジ締めが終わった後、頭に巻いていた手拭いを取った遥真をカウンターの席に座らせると、店長の落合は渋い顔をして言った。
「いや、店はなくならない。正しくは移転かな。ここの裏の空き地、整地始まったろう?マンション建てることになって、ここも譲って欲しいって言われてな」
ごめん、と付け加えて落合は言った。確かに数ヶ月前から、重機や人が出入りするようになったのを遥真も見ていた。
「それで、売っちゃったんですか……?」
「まぁ、思い入れもあったんだけどね……。そもそもここは借地だからな。でも、マンション側が移転開業費用を出してくれるっていう条件くれたんだよ」
「そう、なんですか」
遥真は気の抜けた声を漏らした。移店となればまだ自分もそこへ通うだけだと、そう思って胸を撫で下ろす。
「ちなみに移転先って、どこなんです?」
遥真の問いに友理恵の眉がハの字に曲がり、続けて落合の顔も気まずそうな表情に変わった。
「……店長?」
なかなか口を開かない二人の様子に、遥真は不安を覚えた。嫌な予感がし、ゴクリと唾を飲み込む。
「移転先ね、ここからだと遠いのよ」
先に口を開いたのは友理恵だった。
「遠いって、どれくらいですか?電車一本なら検討出来きますけど」
乗り換えさえなければ、講義終わりが無理でも休みの日なら通えるだろうと、遥真は言った。しかし、落合は首を横に振る。
「それが、県を跨ぐんだ」
「えっ……」
思っていた以上の距離を告げられ、遥真は固まった。
「私の実家の方なの。費用があちら持ちなら……って。最近、父の具合も良くないって聞くから」
友理恵は申し訳なさそうに答えた。遥真は、友理恵が夏頃から実家に度々帰省しているのを思い出した。
「それは……。心配ですもんね」
ぽろりと出た言葉は本心で、遥真は眉をハの字に寄せて笑う。家元を離れ、上京している身としては友理恵の気持ちは分からないでもない。
「神保くん、本当に申し訳ない。たくさんシフトに入ってくれて、真面目に勤めてくれたというのに……」
落合が勢いよく頭を下げた。もう直ぐ三年目の遥真は、ここに勤める学生アルバイトの中でもベテランと呼べるほどシフトに貢献していた。落合も遥真がアルバイト代を生活費にしていることは知っていたため、本人に告げるのが忍びなかったのだろう。
「そんな、やめてください。お世話になっているのはこちらなんですから」
「でも……」
遥真は心苦しそうに頭を下げる落合にそう言うと、再び微笑んだ。
「僕のことなら心配しなくて大丈夫です。丁度、知り合いから掛け持ちバイトを誘われていたところでしたし」
ね、だから平気です。と遥真が言うと、落合はゆっくり顔を上げた。
「本当か?」
「はい。だから大丈夫です!あ、でも……。あっちには待ってくれるように伝えてしまっているので、ここが閉まるまではここをメインに働きたいなぁって思っているんですけど……」
遥真が恐る恐る尋ねると、落合と友理恵は顔を見合わせて「もちろん。よろしく頼むね」と、声を揃えて答えたのだった。
「とんだお人好しだな。せめて最後は割増しで時給踏んだくれば良かっただろ」
学生食堂で向かいに座った江原兼彦は遥真の方を一瞥もせず、呆れ口調で言った。視線の先はノートパソコンの画面から全く動かず、眉間に寄った皺は一層深くなるばかりで、手元には片手で食べられるサンドイッチが手付かずのまま置いてあった。
「そんなこと言えないよ……」
遥真は大きな溜息を吐いた。目の前の親子丼は一口食べてから進んでいない。
「ねぇ兼彦、新しいバイトの紹介とかない……?」
「無いな。そもそも俺は謝恩会の準備で忙しいから、バイトもほぼ休んでる」
「自分だって学校のために身を削りすぎじゃないか。そこまでするほどお世話になった先輩いるの?」
「いやまったく。だが、これが学生団体の仕事だからな」
真面目な顔できっぱりと兼彦は言い切った。その目の下にはくっきりと黒い隈ができており、遥真はやれやれとその疲れた顔を見て再び溜息を吐く。きっちりセットされた髪を見ると、自宅にはきちんと帰って風呂に入れているようだ。服も連日同じく服を着ている訳ではなさそうだし、生活は出来ているように見える。遥真と高校からの同級生である兼彦は、遥真の知っている人間の中でも一番と言って良いほど真面目で、時折り柔軟性に欠ける。人を頼るのが下手な性格と責任感の強さから、仕事を引き受けては身を削っていて、以前生徒会長として奔走して疲労で倒れたこともあるのだが、本人の教訓にはならなかったようだ。
「器用貧乏って損だよね、本当に」
「お前が言うな」
ようやく顔を上げたと思えば、兼彦は眉間を指で抑え、数度揉み上げた。
「少しぐらい休んだら?また倒れるよ」
遥真が心配そうに顔を覗き込む。顔色はやはり良いとは言えず、また倒れそうだと思った時だった。
「あぁ……。次は空き時間だから流石に仮眠を摂る」
煩いと言われそうで身構えていたが、兼彦はすんなりと答えた。
「やーっと見つけた!お前ら、ちゃんとスマホ見ろよ」
そう言って兼彦の隣にトレーを置いたのは、兼彦と同様に高校から一緒の千賀蒼生だった。遥真は言われてリュックのポケットに入れっぱなしになっていたスマホを思い出した。
「ごめん、しまい込んでた……って、充電ないし!」
「何してんだよ、まったく……」
蒼生は自分の鞄からモバイルバッテリーを取り出して遥真に渡す。その手首からは新しく買い替えたであろう香水がふわりと香った。
「ありがと。昨日、バイトから帰って充電しないままだったわ……」
遥真が文字通り肩を落とすと、その様子を見て蒼生は苦笑いをした。
「で、この辛気臭い空気はなんだ?もしかして……遥真、また変なのにまとわりつかれてるのか?」
蒼生は手を合わせてからトレーの上の味噌汁に手をつけた。昼食に選んだのは鯖の味噌煮定食。今日の日替わりだった。
「違う。ていうか、またってやめてよ」
遥真は蒼生にジト目を向ける。去年、グループワークで一緒になった女子学生に気に入られ、告白をされたまでは良かったのだが、遥真が交際を断ると、学内では勿論、アルバイト先や自宅付近まで付き纏われるようになってしまった。なんとか穏便に収めるために、蒼生や兼彦、そして彼女の友人達の協力を得て何とか解決に至ったのだ。数ヶ月に渡って続いたそのトラブルは、遥真の精神を抉り、体力的にも堪えた。
「違うのか。なら何があった?」
「バイトをクビになったんだと」
兼彦はそう言うと、パソコンを閉じてやっとサンドイッチに齧り付いた。
「はぁ?お前何したんだ?」
「別に何もしてないよ、ていうかクビじゃないし!でも、確かにバイト先は探さないといけないのは間違いなくて……」
遥真の声はどんどん尻切れのように萎んでいく。見兼ねた蒼生が溜息を吐くと、事情を聞いてきたので、遥真は兼彦にした説明をもう一度話した。
「……運が悪いのもここまで来ると奇跡だな。今度、パワースポット巡りにでも行くか?」
「それはありがたいんだけど、まずは生活費の確保が先だよ。移転まであと少しあるから、その間に次を見つけないと」
「そうは言うけどなぁ……。もう直ぐ三年だろ?新しいバイト先なんてそう見つかる訳ないだろうが」
蒼生がきっぱりと言った。これからゼミ活動や就職活動を開始する大学三年生を雇う所が少ないのは遥真も分かっていた。だが、そうは言っても生活がある。数日間は何とかなるだろうが、稼ぎがゼロになるのは避けなくてはならない。
「実家はやっぱり頼れないのか?」
「んー……そこはなるべく頼りたくないなぁ」
今度はスマホから視線を上げずに話す兼彦に、遥真は言葉を濁す。
「実家にはもう、学費貰ってるからさ。流石にそれ以上は……」
遥真は苦笑いで答えると、冷めた親子丼をもう一度食べ始めた。
幼い頃、両親が離婚した遥真は母親に引き取られ、女手一つで育てられた。母は仕事に追われて忙しくしていたが、遥真を第一に考える母親だったため、寂しい思いをする事は少なく、遥真自身もはっきりと「反抗期は殆どなかった」と言えるほど仲の良い親子だった。そんな母のため、高校は知り合いに家庭教師を頼み、殆ど自力で合格した。大学も同じように殆ど自力で合格を目指そうと思っていたが、遥真が高三に上がる頃に母は再婚を決めた。義父になった男性は、とても気さくで血の繋がりのない遥真にも良くしてくれる人だった。義父が進学の援助すると申し出てくれた事もあり、予備校は勿論のこと、大学の学費は彼の好意を受け取る事にした。最初は申し訳なさから全てを断ろうとしたが、義父の説得勝ちで今に至る。結果的には生活費は自分で何とかするという事で、遥真も合意したのだ。今更この形を崩す訳にもいかない。何より、再婚後に母は遥真の妹を出産していたため、実家には戻る訳にもいかなかった。
「だから、自分でもアパート近くを当たって見てるんだ。二人も、もし求人見掛けたら教えて欲しいんだけど……」
「まぁ、それぐらいなら協力してやるよ」
蒼生は「期待はするなよ」と一言添える。二人は遥真の家庭事情を高校の時から知っていたため、それ以上は何も言わなかった。
「で、お前はさっきから何してんだ?」
顔を上げないままの兼彦に、蒼生が嫌味っぽく尋ねると、黙ったままスマホに視線を落としていた兼彦が顔を上げた。むすっとした仏頂面を蒼生に見せると、テーブルにスマホを置き、遥真の方に差し出して画面を見るように言った。
「これ、お前のアパートの近所じゃないか?」
「え?」
遥真は箸を置いて兼彦のスマホを取り上げた。画面には求人アプリが開かれており、見慣れない店名とその求人内容が記載されていたが、住所は確かに遥真のアパートの最寄駅と同じだった。
「掲載はほんの数分前だった」
「へぇ、兼彦やるじゃん」
蒼生が兼彦の肩にもたれながら言うと、兼彦は鬱陶しそうに蒼生を離した。
「募集は二名までらしいぞ」
兼彦の言う通り、募集人数は二名。仕事内容は「接客。主にホール対応と清掃」と書いてあった。どんなお店かはまだ分かっては居なかったが、ラーメン屋での経験が活かせそうな仕事なのは間違いない。遥真は兼彦に「そのページ共有して」と頼むと、アプリを早速起動して応募ページへ進んでいった。
兼彦に勧められた店の面接は、応募した日の六日後だった。その間に、ラーメン屋の移転作業が少しずつ始まった。店長は遥真への報告を一番最後にしていたらしく、肩の荷が降りた途端に移転のお知らせを店の玄関口に貼り出した。閉店の日時は来月末。その貼り紙を目の当たりにした遥真は、そこまでに何とかせねばと気を引き締め、他にも何件かのバイト面接を受けてみた。しかし、結果は既に散々で、蒼生にはっきりと言われた通り、これから大学三年生になる学生ほどシフト貢献度が薄いという考えが濃かったように思える。ラーメン屋での実績を以ても受からないとなると、次の面接もきっと厳しいのだろう。話を聞いて直ぐに求人サイトを検索してくれた兼彦には悪いが、良い結果を持って帰れないかもしれない。遥真はすっかり自信を無くし、その面接当日の朝も度々大きな溜息を吐いた。気負っている姿が心配になった蒼生は、兼彦に無理矢理代弁を頼み、講義をサボって店の前まで着いてきた。
「終わったらそこのファミレスに来い。残念会ぐらいしてやるから」
「……まだ面接受けてもないのに」
「ならまずはその顔をどうにかしろ。見るからに貧乏神くさい。こんな空気纏われちゃ、誰も雇わねぇぞ」
蒼生は容赦なく言うと、遥真の背中をバシンと力一杯叩いた。
「痛っ!」
「ほら、気合い入れろ」
背中を摩る遥真に、蒼生は面接先の看板を顎で指した。その淡い紫から青に掛かるようなグラデーションの立看板には白の筆記体で「Blue hour」と書いてあった。その看板のすぐ近くに地下へ続く階段が見える。店舗はビルの地下にあるようだった。
「遥真の顔は俺の次に良いからな。バーのスタッフ、似合うはずだぞ」
「……俺の次にってのは、余計じゃない?」
遥真が口をへの字に曲げて言い返すと、蒼生はニヤリと笑う。目の前で綺麗な顔が悪そうな顔に変わる瞬間を目の当たりにし、自分で言うだけのことはあると、遥真は溜息混じりに納得した。
「言い返す余裕があるなら大丈夫だな。ま、当たって砕けろ」
「だから、なんでそうダメに一票入れるんだよ」
「だったら逆転して来い。底意地見せろよ」
蒼生はそう言うと、今度は遥真の背中を優しく押した。
「……分かった。終わったら、連絡する」
「おう」
蒼生の声を背中で受けると、遥真はゆっくり階段を降りて行った。



