「流石は聖女様ですね」

 春を閉じ込めたような声だ。声がした方を向くと、そこにはヴィルジールを支えてここまで連れてきた男性が立っていた。

 白銀色の髪に、透けるように白い肌。どことなくヴィルジールと顔立ちが似ている。ヴィルジールを冬と例えるならば、目の前の男性は春だ。

 男性は左胸に手を当てながら、優雅に頭を下げた。

「申し遅れました。私はセシルと申します」

「ルーチェと、申します。セシル様」

 セシルという名には聞き覚えがあった。それは以前、ヴィルジールと城下に出かけた日に、彼の口から聞いたものだ。

『避難民どもは城下ではなく、セシルの領地で面倒を看てもらっている。一人残らずな』

 ヴィルジールが呼び捨てにし、身体を預けるほどに信用している。そして、領地を持っている身分であり、彼の私室に出入りできる。ともすれば、セシルさんとやらは彼と血縁関係にある人か、もしくは友人だろうか。

「ふふ、考えていることがお顔に出ておられますよ」

「ご、ごめんなさい…!その、あの…」

 吃るルーチェに、セシルは優しく笑いかけると、たった今入ってきた扉を開けた。

「兄上は眠っていらっしゃるようですし、隣にある応接室に行きましょうか」

「………!では、セシル様は…」

「はい。私は皇帝陛下の実弟でございます。さあ、こちらに」

 セシルはヴィルジールとよく似た顔に、蕩けるような優しい笑顔を飾ると、ルーチェに手を差し出した。


 セシルは先代の皇帝の十五番目の皇子であり、ヴィルジールの異母兄弟である。ヴィルジールの母君は身分の低い女性だったそうだが、視察に訪れていた先代に身染められ、妃にと迎えられたそうだ。

 セシルの母君は侯爵家の出であり、先代が皇子の頃に皇太子妃として迎えられた。だが生来身体が弱かった彼女は、十年もの間子に恵まれず、それを理由に皇太子妃の座から下ろされてしまった。

 後から迎えられた妃たちに先を越され、彼女は心を壊していったという。

 嫁いで十年目を迎えた頃に、ようやく男の子を授かることができたが、彼女は我が子の顔を見ることなく逝った。

 その子供が、今ルーチェの目の前にいる、セシル皇子である。

「驚きました。聖女様が現れたという噂は耳にしていたのですが、まさか城にいらっしゃるとは」

 寝室の隣にある応接室に移動すると、セシルは慣れた手つきでお茶を用意し始めた。幼少期に毒を盛られて以来、信用の置ける者か自らの手で用意するようにしているそうだ。

「ヴィルジール様の…陛下のご厚意で、離宮に置いていただいております」

 セシルはほんの一瞬、驚いたように目を見張っていたが、すぐに笑みを浮かべた。

「そうでしたか。貴女様もイージスから来た聖女様だとお聞きしたのですが、イージス神聖王国には聖女様が二人おられるのですか?」

 ルーチェは目を瞬いた。

「そんなことは…ないと思うのですが」

 イージスの聖女が自分であることは、ノエルが断言している。複数人いるなんて記述は本で見たこともないし、ノエルの口から出てもいない。

 だが、ルーチェは記憶を失っている。

「ごめんなさい、私には以前の記憶がないのです。目を覚ました時から、この城におりました」

「そう…でしたか。ですが先ほど兄上を包んでいた光は、貴女が起こしたものですよね?」

 光というのは、ノエルから教わった聖者の力のことだろう。触れて、その人を想い、光を求める。その祈りが聞き届けられ、力が発動した。

 ルーチェが頷くと、セシルは花開くような笑みを飾った。

「とても…とても神秘的で、それでいて優しい光でした。兄上も穏やかな顔をされていた」

 ありがとう、とセシルは改まって丁寧に頭を下げた。

 あれはたまたま上手くいったのだと言うべきかルーチェは迷ったが、言葉は全て飲み込んだ。

 そこへ、部屋の扉をノックする音が響き、見知った顔が現れた。宰相であるエヴァンと騎士のアスランだ。

「失礼いたします。遅くなりました」

 エヴァンは扉を閉めると、セシルの傍までやって来た。テーブルを挟んで向かい側にいるルーチェを見て、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの会釈をした。

「エヴァン殿。公爵がお連れになった聖女様は、今はどちらに?」

「彼女は城の客間です。適当な部屋に案内させましたよ」

「適当って…」

「あのまま追い返してもよかったのですが、気になることがありましてね。陛下も同じことを思っていらっしゃると思ったので、監視ついでに引き留めたのです」

 一体何の話をしているのだろうか。公爵が連れてきた聖女とは、セシルが訊いてきたことに関係がありそうだ。

 だがルーチェの前では言いづらいのか、あるいは気遣ってのことなのか、その話題はもう出てこなくなった。

「ジルの具合はどうなんだ?」

 アスランが腕を組みながら、ヴィルジールの寝室の方を見遣る。素っ気ない口調だったが、心配で仕方ないという顔をしている。

「今は聖…ルーチェ様のお陰で、眠っておられます。ここ最近、陛下は夢見が悪いと仰っていて、仕事も捗らないようでした」

「先ほど会った聖女様が近づいてきた時から、具合を悪そうにされていましたしね」

「つまり原因はあの女ということか」

「イージス神聖王国の聖女だと言っていましたが、こちらにはルーチェ様がいます。ルーチェ様がイージスの聖女であったことは、大魔法使いであるノエル様が証言なされた」

「ならば大魔法使いをここに呼んで、あの女を追っ払ってもらえばいいじゃないか。あの魔法使いは今どこにいるんだ?」

「もう間もなく到着されるはずです」

 三人の会話を聞きながら、ルーチェは頭の中で情報を整理する。

 ヴィルジールはここ最近、夢見が悪いせいで不調だった。そんな最中に、イージス神聖王国の聖女を名乗る女性を、公爵が連れてきたという。

 だがイージスの聖女がルーチェであることは、稀代の大魔法使い・ノエルが証言している。

 ──一体、何が起きているのだろうか?