亡国の聖女は氷帝に溺愛される

「──陛下! 二時間もどちらへ行かれていたのですか!?」

 青い絨毯が敷かれている廊下に、エヴァンの声が響く。ヴィルジールはため息を一つ吐いてから足を止めた。

「静かにしろ。ルーチェが寝ている」

「………はい?」

 振り返ったヴィルジールは、ルーチェを横抱きにしていた。

 エヴァンはぱちぱちと瞬きをしてから、ヴィルジールとその腕に抱かれているルーチェを交互に見て、また瞬きをした。口を開けたまま、同じ動きを繰り返す。

「……その方は、聖女様…ですよね?」

「そうだが」

「何故陛下が運んでいるのです?というか、どうして眠って…?」

「貴様は目の前で小娘が寝ていたら、土の上に置き去りにするのか?くだらない質問をするな」

「いや、ちょ、陛下っ…」

(──いつもの貴方なら“だから何だ”とか“関係ない”と言って、放っておくに決まっているのに!)

 まだ話は終わっていないというのに、ヴィルジールはエヴァンを置いて歩き出した。その後ろを追いかけるエヴァンの手には皮の手帳が握られている。

「陛下!今朝もお伝えした通り、本日は来客がありまして!」

「知っている」

「でしたら、聖女様は使用人に預けて、謁見の間にお急ぎください!もう到着されているのですよ!」

「来客とは言っても、相手はセシルだろう。身支度に時間がかかったとか、適当な言い訳をすればいい」

 ヴィルジールは不機嫌な声で返すと、執務室の扉を開け、その向こうへと消えた。

 残されたエヴァンは、ポカンとした表情で立ち尽くす。

「………身支度なんて五分で終わる貴方が、何を言ってるんですか」

 エヴァンは両手で髪をわしゃわしゃと掻きながら、その場に座り込んだ。

「寝ていた聖女様を置き去りにできなかったから、運んできたのは分かりましたが…ていうか!」

 エヴァンは頭を押さえながら、くるりと右手にある扉を見上げる。そこはヴィルジールの執務室であり、中にはヴィルジール愛用の机と椅子、エヴァンがよく座っている長ソファが一つと、サイドテーブルと本棚しかない。
 眠っている女性を、何故執務室に運んだのだろうか。

(ま、まさか………!)

 エヴァンは慌てて立ち上がり、転がる勢いで扉の前に行くと、ドンドンと強く叩き始めた。

「陛下ー!!執務室に女性を連れ込んで、何をなさっているのですかーっ!?」

 皇帝の執務室の扉を叩きながら、声を張り上げるエヴァン。それを偶然目にしてしまった騎士は硬直し、その後ろにいた使用人は茶葉の缶を手から滑り落とした。ヴィルジール愛用の茶葉が、白い石の床にぱらぱらと散らばる。

「い、いけない…!私ったら、耳がおかしくなって、手元が…!」

「お、俺もだ。騎士たるものが剣を落とすなど…!いくら目がおかしくなっていたとはいえ!」

 騎士と使用人は慌てて落とし物を拾い始めた。そうしている間にも、執務室の扉を叩く宰相の声が聞こえた気がしたが、ふたりは必死に目を背け耳を塞ぎ続け、脱兎の如くその場を後にした。


 ついにエヴァンの声が届いたのか、執務室の扉が開かれる。そこからひんやりとした空気が漏れているのは、気のせいではない。

 エヴァンはひと呼吸置いてから、満遍の笑みを飾った。

「──陛下!よかった、私の声が届いたのですね」

「………エヴァン」

 エヴァンはドアノブに手を掛けようとしたが、ヴィルジールの顔を見てギョッとし、即座に半歩後ろに下がった。

「これはこれは……ご機嫌麗しゅう」

 半分ほど開かれた扉の向こうには、絶対零度の眼差しでエヴァンを見下ろすヴィルジールがいた。目を合わせたら凍らされ──いや、氷の塊にされるに違いない。

「今日限りで貴様はクビだ」

「何を仰いますか!私がいなくなったら、困るのは陛下ですよ!?」

「宰相になりたい者など探せばいくらでもいる。今すぐ荷物をまとめて、新しい職場を探すことだな」

「年中無休で貴方の下僕になりたい人なんて、世界中どこを探してもいませんから!」

 下僕という単語に、ヴィルジールの眉がぴくりと動く。そこでエヴァンはしまったと思い、そそくさと廊下の壁に後退ったが、エヴァンが後ろに下がった分だけヴィルジールは詰め寄ってきた。

 ドン、とヴィルジールが壁に手をつき、頭ひとつ分背が低いエヴァンを見下ろす。エヴァンはヴィルジールと壁の間に挟まれ、身動きが取れなくなった。

 ──さて、どうやってこの場を切り抜けるか。貼り付けた笑顔の裏側で、いくつか策を立てたその時。

 柔らかい風が二人の間を吹き抜け、辺りに甘い香りを漂わせた。

「──相変わらず仲良しですね。エヴァン殿と兄上は」

 春を閉じ込めたような声に、エヴァンは顔を上げ、ヴィルジールは腕を下ろした。そっと現れた声の主の方を向くと、そこには予想通りの人物が佇んでいる。

「セシル様…!」

 白銀色の髪に、真昼の空色の瞳。鼻筋や口元はヴィルジールに似ているが、彼よりも穏やかで柔らかい印象を受けるセシルは、ヴィルジールの腹違いの弟だ。

「……セシル」

 ほんの少しだけ、ヴィルジールの目元が和らぐ。それは彼の弟であるセシルと、長年仕えているエヴァンくらいしか分からないだろう。

「はい、兄上。お久しぶりにございます」

 セシルは優美な微笑みを飾ると、見惚れてしまうくらい美しいお辞儀をした。それから周囲に誰もいないことを確認すると、ヴィルジールとエヴァンに近寄り、密やかな声で告げる。

「執務室まで押しかけてしまい、申し訳ございません。ホールでお待ちしていたのですが、セントローズ公爵がいらしたので急ぎ参りました」

「セントローズ公爵が?」

「はい。御目通りを願っております。緊急だそうで…」

 滅多に城を訪れない公爵家の名に、ヴィルジールが怪訝そうに眉を寄せる。同じくエヴァンも顔色を変え、ジャケットの襟元を正した。

「ならば急ぎましょうか。…陛下の執務室に置き去りにされている聖女様のことが気がかりですが」

「聖女様がおられるのですか?」

 エヴァンは笑って頷く。

「ええ、おられますよ。陛下の執務室に」

「エヴァン。さっきから貴様は何が言いたいんだ」

 ヴィルジールがため息をひとつ吐いてから、執務室の扉を閉める。いつの間に手配していたのか、聖女付きの侍女であるセルカとソレイユ宮の使用人であるアデルが目の先に立っていた。
 目が合うと、二人は手を重ねながら深々と頭を下げる。

「おやおや、密室でふたりきり…ではなく置き去りでなくてよかったです」

 ぞわ、と。震えるほどの冷気を感じたので、エヴァンは即座にヴィルジールから距離を取った。そうしたところで、ヴィルジールの視界に入っている限り、彼の氷の魔法からは逃れられないことは分かっているが。

 だが、今日はセシルがいる。ヴィルジールを心の底から慕っている弟であり、ヴィルジールからも可愛がられているセシルがいるならば、ヴィルジールは迂闊に魔法を使わない。

 だから戯れたのだが──意外なことに、ヴィルジールは何もしてこなかった。その深い青色の目は、俯いているセシルへと向けられている。

「……どうした、セシル」

 ヴィルジールの声でセシルは顔を上げる。

「その聖女様は、何者ですか?」

「イージスの聖女だ。倒れていたところを保護した」

「セントローズ公爵がお連れになったのも、イージス神聖王国の聖女様です」

 ヴィルジールは弾かれたように執務室を振り返り、右の手のひらを握りしめた。